ぼんやりした思考の中、瞳を刺激する明るい光にウミの伏せられていた瞳が瞬いた。
ゆっくりと瞼を持ち上げ、霞む視界が徐々に鮮明になる。ウミの闇の中に沈んでいた意識は静かに浮上し、周囲を見回す。
ゴウンゴウンと聞こえる聞いた事のないような轟音、窓から見える景色は暗闇に包まれており、自分は宙に浮かんでいるのだと気付いた。
壁に背を預けていたウミの背はすっかり冷え切っており、その寒さに思わず震えた。
「(私……は?? 確かヴィリーさんとマガト隊長に会って――……それから、一体どうなったの? 舞台は、成功したの? 私は――……捕らえられたの?? 確かエレンが予定通り巨人化して舞台を壊してヴィリーさんを殺して……そして、私は、そうだ、アヴェリアは……私の、子供たちは……?)」
ウミは朧げで頼りない思考の中で絶望した。頭を押さえようにも頭を押さえようと上げたその肘から先は欠損しており、断面図は無く、出血も無ければ盛り上がった肉片から蒸気があふれ出している。
明らかにそれが人為的でないことは確かだ。自分は改めてもうただの人間ではないのだと実感した。
人間性を捨ててまでも、自分にはなさなければならない事がある。
それを受け入れて選んだのは自分であるが、改めて「お前はもう人間ではないのだ」と、その現実を受け入れた事、この命の限りある「生」をひしひしと噛み締めていた。
目覚める前の当時の記憶がまるで無い。例えるならその場の記憶がごっそりと抜け落ちたようだ。
こんなこと、今までなかったはずなのに。まるでそのままさっきの自分が何をしていたのか、その記憶の一部がすっぽりと脳内から抜け落ちてしまったかのように感じられた。
自分が最後に覚えているのはヴィリー・タイバーが舞台から観客たちへ向けて「パラディ島の悪魔」たちへ宣戦布告をし、そして共に戦ってほしいと、涙ながらに呼びかけている光景だけ。
こうしてはいられない、こんな見た事もない場所でいつまでも居られない。自分にはまだ役目があるのだ。その為にあの島を、自分は捨てたのだ。
ゆらりと、立ち上がろうと伸ばした肘から先の欠損した腕を伸ばして。
しかし、下を向いた瞬間、目を疑う光景がウミの視界に飛び込んで来た。
「これ……は……」
全身の力が上手く入らないのは自分の肘から先だけではなっく、膝から先のすねの部分も、そう、四肢がまるで人形の様に切断されているからだった。
しかし、断面図は盛り上がった自分の肉片で見えない。不思議なことに痛みを全く感じない。
そして、記憶がないのは――。自分は恐らくは自分が何としても避けたかった事態を引き起こしたのだと知る。
そう、自分の意志とは裏腹にこの身体はただの人間で在れば、絶命してもおかしくはない取り返しのつかない重傷を負った。
だが、自分の中の「生きる力」が呼応するかのように自分の意志とは無関係に本能が巨人化してしまったのだと知る。
常の人間ならばあり得ない現象が目の前で起きていて。
「力に背いたとしても変わらない。私も多くの仲間達が食われた巨人達と同じ存在になり下がったのね……」
既に立ち上がる足も無い。欠損しているが痛みは無い。悲しくはない、自ら選んだ道に悔いはない。
その為に甘んじて「原始」の力を受け入れたのだ。
再び周囲を見渡そうとした瞬間、背後に感じた違和感に思わず肩が跳ね上がった。
「あぁ。目が覚めたか、ジオラルド家のご令嬢」
聞き慣れた筈の愛しい声が自分の背後から重く響く。しかし、今聞こえる声はまるで他人のように感じられて。
――「ウミ」
無言の空間。彼の囁くような低い声が好きだった。その声がいつも自分の耳元をくすぐるように掠めて、肌と肌が触れる心地がたまらなく愛おしくて仕方なかった。
見つめ合う、それだけでよかったのに。深く愛を誓い合って。そして何度も抱き合い夜を越えてきた鮮明な彼の声は、今は背筋が凍りつくほど冷たく、否が応でも距離を感じずにはいられないその口調はまるで戸籍上でも結ばれ身内となった筈なのに、どこか他人のように感じられた。
心臓が大きく脈を打つ。ゆっくりと振り返ると、昨晩見た夢となんら変わらない彼の姿がそこには存在していた。
四年前よりも「獣の巨人」を倒す。その為に鍛え抜かれた逞しい身体に張り付く黒い装束で全身を覆い、盟友のマントを装備し、未だに旧式の立体機動装置を装備した。
「リ、ヴァイ……」
僅かに震えてしまった声は隠しようがなかった。
その黒衣とその表情に隠れた彼が今どんな目をしているのかは読み取れずに、ウミは彼を目の前にして言葉に詰まった。
記憶が無く四肢欠損状態で動けない自分の動揺をいとも簡単に見破ったリヴァイは口の端を僅かに歪め、愛を誓い合った妻へ問いかけた。
「子供たちは……」
「安心しろ、しっかり保護している。悪いようにはしないが、それはお前次第だな。お前には幾つか聞きたいことがあってな、ちゃんと答えてくれよ」
彼の冷めた口調。声のトーン。鋭い双眼。何一つ変わらないのに、彼とは、誓いの果てに戸籍上でも「家族」となった筈なのに、彼との間に子宝も恵まれ、これからは恋人ではなく夫婦として、家族として共に歩んでいくと決めたのを何もかもぶち壊したのに。
向かい合う自分たち、しかし、今はまるでお互いに他人同士だとでも言いたげに突き放す彼の口調にウミは酷く胸が痛んだ。
先程までの記憶が欠如し落ち込んでいるそんな自分の姿を見て楽しむかのようにリヴァイは口元に弧を描いた。
「リヴァイ……あの、私……「駄目だ。行かせるワケ、ねぇだろうが」
有無を言わさずに。自分の言葉を遮ったリヴァイが何故か超硬質ブレードを手にゆっくりと自分との距離を詰めてきたのだ。
愛する彼が目の前で触れられる距離に居るのに、何故か本能が「ここから逃れなくては」と自分に警鐘を鳴らすのだ。
慌てて逃げ道を探すも、目と鼻の先に居る彼と自分は既に距離はゼロに等しい。
怯えた様な顔をするウミへリヴァイは愛し気に手を伸ばしてきた。
その指先がゆっくりと自分の頬を愛おし気に撫でるのに、その温度に温かみを感じられない。
今にも互いの唇と唇が触れそうな距離で。近くなった彼の表情には何一つの感情が見えず、その表情を察する事が出来なかった。
「悪かった。うなじから引きずり出すのに時間も無くてな。お前の手足まで残せなかった」
「リ、ヴァイ……」
「痛いワケ、ねぇよな……お前はもう人間でも何でもない」
真一文字に引き結んで無表情だったリヴァイの唇が自分の目の前でゆっくりと、孤を描く。
彼が纏う雰囲気はとても楽しそうだ。でも、自分とこうして二人きりでいる事に対しても、決してその目は絶対零度の瞳のように少しも笑ってもいなかった。
流れる沈黙が重たくて、苦しい。
その重い沈黙に耐えられずに彼が自分の頬に触れているその指先を自分から引き離すようにウミは首を横に振って俯いた。
暫く合わない間にまた伸びたウミの髪がゆらりと波打つように揺れた。
「……何だ、お前は俺が女を蹴るとでも思ったのか?」
「だって、私は、あなた達を……見捨ててこの国に逃げた、あなたに蹴られても仕方のない事をした」
「そうだ、だから連れ戻しに来たんだ。お前の帰る場所がどこか、教えるために」
自分は、嘘をついた。船を爆破させ死を偽装してまで彼の傍から離れて一人敵地に渡った。
その流れついたマーレで自分は島を捨てた人間として歓迎され、そして歴史の英雄である「ジオラルド家の末裔」として彼との誓いも「アッカーマン家」も捨てた。
恵まれた贅沢を極めて、他の男と偽りの婚約関係を結んで、島での出来事を忘れて生活をしていたと言うのに。
さも当然だと言うようにリヴァイは戸惑いを隠しきれないウミにお前の居場所はここだと。
リヴァイは抑揚のない声でそう告げた。
いつか、あの島はマーレによって滅ぼされてしまう。それを黙って滅びの時まで日常生活を送れなんて、そんな悠長なことが自分に出来る訳などないのに。
「いい加減、目を覚ましたらどうだ。お前がやるべきことは……自分の気持ちに嘘ついて、俺達を捨て、ジオラルド家としてパラディ島とマーレとの間の和平の使者を果たそうなど、それがもう意味も無いことくらい自分で分かっただろうが……巨人になってまで……」
――「何かを変えることのできる人間がいるとすれば、その人は、きっと……大事なものを捨てることができる人だ。化け物をも凌ぐ必要に迫られたのなら、人間性をも捨て去ることができる人のことだ。何も捨てることができない人には何も変えることはできないだろう」
彼の手を振り払おうとした横顔を今度は逆に捕らえられてしまった。
「逃げんじゃねぇ……」
「ぐう、っ……」
彼の小柄で細身に見えるその腕の力は強靭で、彼の繊細な手が急に自分の首を締めあげてきたのだ。ギリギリと軽い力で締め付けられ、思わずその苦しさからウミの口元から小さな苦悶の声が漏れる。
彼の手は自分の首元を締めあげるようにより一層の力が込めて自分に問いかける。
「理由を話してくれよ、なぁ。家族に隠し事は無し。だろう」
「私は……タイバー家と共にパラディ島との戦争を止め――」
拘束していた彼の手が首元から離れ、ウミは息苦しさから酸素を求めて顔を上げ咳き込む。
たった一瞬でも当たり前のように行っている呼吸を奪われた苦しみに涙を浮かべ、まっすぐに自分の思いを彼に打ち明けようとしたその瞬間。
ドガン!!――
「ひッ……!!」
と。三白眼をひん剥いたリヴァイの鉄より強烈な蹴りが一瞬にして動けない自分の顔面の横の堅い金属の壁にめり込んだ。
思わず「ヒッ」、と小さく息を呑んだウミの姿にリヴァイは抑揚のない声で告げた。
「ごちゃごちゃうるせぇんだよ……相変わらずお前は口が減らねぇヤツだな、そんなに口を塞がれてぇか」
「っ……」
「俺は、お前に手荒な真似はしたくねぇんだがな」
自分の頬を片手で掴み、そのまま彼の鉄のような膝が自分の喉元に押し当てられ、壁を背に完全に彼に追い込まれてしまった。
そもそも、自分がパラディ島で最強と呼ばれるこの男の拘束から、逃れられる筈はないのに。
自分の前や兵団の内部でも、普段、滅多に激しい感情を露わにしないリヴァイが怒りに震えている。
まるで我を忘れたかのように声を荒げ、彼の見た目に反して燃える青い炎のように揺らめいた静かに漂う押し隠せない怒りが彼を包んでいるのだと、その空気から伝わり、ウミは絶対的に信頼を寄せていた彼に対してこれまで抱くことさえも無かった恐怖心を抱くのだった。
「お前はそうやって俺にも、ガキ共にも、平気で綺麗ごとや嘘を、口にできるようになっちまったんだな。無邪気な笑顔で。お前みたいな女が一番恐ろしいってことに、何で気が付かなかったんだ。何も知らねぇ死を待つばかりで力もなくしてボロ切れのように地下街の片隅で震えていたガキのお前が……まさか、女神サマの前で俺と交わした誓いも約束も、全部忘れて、あんな醜い豚の女になり下がって。そうまでして無様な思いしてまで……そんなにあの島の生活は嫌だったのか、なぁ?」
「違う、っ。お願い……リヴァイ、私の、話を聞いて、……私は、あなたとの誓いも、約束も、決して、一度たりとも忘れた事なんか、一度もなかった……許されないことをした、私はもう二度と償う事は出来ない事をあなたに。でもこれだけは信じて欲しい、私は今でもあなたを、子供たちを、大切な存在だと思っている!!! あの男の女になっても心だけは、変わらない。かけがえのない存在だよ、でも、だけど「愛してる」その言葉だけじゃあ、抱き合って微笑み合うだけではあの島を取り巻く情勢は悪いまま。あなたが、私達の子供達が、あの島でこれからも生き抜ける未来は永遠に訪れない――!!」
彼が単身マーレに乗り込んできたエレンを救うためとは言え、この国に奇襲をかけた事は世界からすればパラディ島は全世界を敵に回し宣戦布告を告げたも同じだ。
違う、かつて自分達は全世界と対話すべく和平の道を選んだはずなのに。自らあの島を戦場にし、天と地の壮絶な破壊の道を選ぶなら自分はパラディ島の彼らの行動を、何よりも彼を、止めなくてはいけない。
例え、自分のした行いで彼を傷付けたとしても。和平の道を捨て、対話する機会さえ見失い、破壊に走るなど許してはいけない。
自分達が受けたあの島の絶望をこの国にもたらしてはいけない。
しかし、それはもう永遠に叶わない。和平の道はこの戦いにより完全に閉ざされた。パラディ島は遅かれ早かれマーレの報復を受け、ウォール・マリアが陥落した以上の犠牲が待っている。
もう、自分達には破滅の未来しか、残されていない。
「あなたを、子供たちを残してこの国に単身渡り、あなたやみんなに、嘘をついた事は、本当にごめんなさい、もう、償い切れない事を私はあなたに、与えてしまった……」
鋭い彼の猛禽類を彷彿とさせるその眼差しに視線を合わせていられなくて、ウミは申し訳なさそうにゆっくりと俯くしかなかった。
いつの間にか自分の頬を包んでいた彼の手の力が緩んでいた。
自分の言葉は彼の並々ならぬ怒りを少しだけ鎮めることは出来たのだろうか。
と、そう思い、ウミは静かに告げる。
「今の私は……もう、人間でもない。あなたに相応しい人間じゃない……。だけど、だからこそ、私はジオラルド家の人間として、マーレの人間として生きていくと決めた。だから、私は……もう、リヴァイと、子供達とは一緒には……「ウミ。俺はそんなこと、一度も頼んじゃいねぇ。あの日から。お前の人生は俺が全て背負うと約束しただろうが。お前はもう何処にも、行かせねぇ……勝手にガキまで産んで……」
「パラディ島の医学では……あの子たちはきっと、生まれる事も出来なかったし、私自身もどうなっていた分らなかった」
「お前、まさか……その為に、医学の発展しているマーレでガキを産んだのか」
「例え……双子が不吉の象徴だとされていても……それでもあなたの子供を二度と失いたくなかった。アッカーマン家の血が流れる民族の栄とか再生とか、そんなことじゃない。愛する人の子供を、産みたいのは、女の本能でしょう」
リヴァイは彼女の喉元にねじ込んでいた膝をそっと下ろし、そして彼女の目を見つめる。
互いに交わる目と目、再び強く握る力に痛みを覚えてウミが苦しさから後ろへ身を退こうとするが、その後ろには壁、彼の膝がめり込んだ箇所から彼がどれほど自分に対して、苛立ちに震えているか思い知らされるだけだった。
四肢を切断され、立ち込める蒸気。
飛行船の上で自分はもう何処にも逃げ場はない。捕らえられた肘から先の欠損した手を引かれてそれは叶わなかった。
「言え、なぜお前はいつから巨人になっちまったのかを」
「……思い出せないの……。巨人になった時の記憶も、あなたが理性を無くして暴れまわる化け物になった私をうなじから引きずり出して止めてくれた記憶さえも、思い出せない」
しかし、その時の記憶が全く思い浮かばない。暴れまわる自分が更にこのレべリオを街を破壊してしまったのかもしれないと、それでも蒸気を発する高温で包まれたうなじの中から自分を引きずり出してくれたことも。
最愛の彼の声がするのに、どうして目の前の彼はこんなにも冷たい眼差しをしているのだろう。全身からは見た事もない蒸気が放たれている。ようやく再生された手はまるで別の生き物のように感じられた。
こんな非人道的な醜い姿をさらけ出し、それでもこの男は目の前の自分を愛してる、と離さない、と力強い眼差しで訴えかけてくる。
リヴァイの言葉とは逆に、彼の手が優しく俯いた自分の顔にまた確かめるように触れた。彼の手に導かれて、ゆっくりとウミが顔を上げた視界は歪みきっていて、ウミはひたすら零れ落ちそうになるそれを耐えるしかなかった。
「リヴァイは……私のこと……殺したい……?」
――「あなたも私を、殺すんですか?」
重力に従い、ウミの目から零れ落ちた涙は、そのまま頬をゆっくりと滑り落ちていったのだった。はらはらと涙を流れる雫を拭うリヴァイの手の冷たさが、それでも愛おしくて。
本当は自分を思いきり蹴り飛ばしたいのに彼は優しい人間だからそれさえも出来ずに、でも彼の鉄のように強固な理性は決して自分を酷くはしない。
彼との約束に背いたのは自分だと言うのに、彼は優しすぎる……。
そうやって彼はまた自分を責め続けていたのだろう。いつもそう、彼は決して他人を責めることはないのだ。
そんな彼の不器用な姿にウミは胸が強く締め付けられるのだった。
「俺が――……ウミのことを本気で殺せるとでも思ったか。んなわけ、ねぇだろうが……本気でお前を憎める筈なんか、ねぇよ」
黒髪の下から現れた彼の獰猛で力強い双眸は真っ直ぐ此方に向けられている。そして、近づく双眼に彼の見た目より長い睫毛が触れて、そして重なる顔を思い出してまた視界が揺らいだ。
「お前は、どうしようもない女だな。俺が本気でウミのことを憎める筈がないと分かってて離れやがった」
「リヴァイ……」
「ガキがいた事も知らされないで消えたお前と、残されたガキ共はどうすればよかった。ガキはもうお前の顔も名前も覚えてすらいねぇ……。お前はいつもそうだ、俺がお前を憎めないと分ってて、俺がお前を本気で蹴れない事も知って、今も敢えて俺の蹴りを避けなかっただろうが。そうだ、お前は、そうやって俺さえもを弄んだ……」
さっきまで、優しく触れていた彼の指先だったが、今度は強引にウミの前髪をくしゃりと鷲掴んでそのまま一気に彼の元へと引き寄せられた。
「だから、お前には、それ相応の償いをしてもらわないと、そう思わねぇか」
「何を、」
抑揚の無い地の底から響く冷たい声に思わず背筋を嫌なものが伝うような感覚がした。視界が定まらない程に寄せられた彼の端麗な顔。四年前よりも苦労を重ね普段にも増して老け込んだような気がする。
「本当に実行するしかないようだ。この飛行船で今からパラディへ帰還次第エレンとお前を拘束する。四肢を切断して、どこにも行かせないようにするまでだ」
まるで彼の言葉に支配されたかのように。四肢が欠損した身体は自由がきかなくなる。自分以外の絶対的な存在である彼の力に操られる感覚、互いの交わる双眸で捉えた彼の表情に恐怖さえもが浮かんだ。
「お願い……マーレに私を置いていって。私が何とかパラディ島にマーレが介入しないように掛け合ってみるから」
「お前が出来る事はもう何ひとつねぇ。お前は大人しくしてろ、後は調査兵団がやる。今、人は皆出払っている。誰も来ないここで夫婦水入らずだ。全員帰還するまで二人で積もる話でもゆっくり話そうじゃねぇか……。なぁ、これまでの件も、さっきの言葉も……詳しく聞かせてもらいてぇな」
「リヴァイ……」
髪を掴んで引き寄せられ、今にも唇と唇が触れ合う距離で相変わらずの冷たい声で自分をまくし立てる彼の瞳からは光が失われ、その口元はつり上がっていた。
そのまま冷たく冷え切った壁に押さえつけられ、唇が重ねられ、捕らわれ、拒むことも、受け入れることも、覆い被さる彼の重量のある体躯に息さえも出来ない。のしかかる彼の愛情にウミは絶望した。
――彼は、決して、自分を赦してはくれなかった。
▼
孤独な人生を生きて来た。
母親と死に別れ、叔父は自分から離れていった。そんな地下には常に光が射しこまず、食物も育たない過酷な世界で奪い合い。そんな世界で誰かを信じる事も、人に心を許す事もなかった。そんな中で出会ってしまったのだ。
お互いの光をもう二度と見失わない為に、幾度もすれ違っても、決して一つの個体になる事は出来ない。
どれだけ抱き合い身体を重ねてもこうして交じり合うことは例え不可能でも、彼女を失う未来など、自分の中で永劫訪れない事を願う。
――「理解して欲しいなんて言わない。だけど、これだけは覚えていて、あなたが二度と戦わなくて済むように、」
あちこちに互いの衣服が散らばっている。装備も装身具も何もかも脱ぎ捨てて容赦のない責め苦に耐えきれずにだらりと力無く突っ伏した彼女は自分の肩に顔を伏せて意識を手放してしまったようだった。
ウミに触れ、リヴァイは改めて彼女を慈しみ、そして愛していると痛切に思った。
やはり手放すことは出来ない。とてもではないが、手放してやれない。ウミの一番は自分で、自分の一番はウミであることは絶対に覆る事は無いのだから。
乾いた頬に伝う涙。これは二度と離れないと交わした誓約を裏切った罰。
支えを求めるように、自分の肩に顔を伏せたまま動かないウミを壁に背を預けさせ、力を失ってしまったウミは巨人の力で暴走し、疲れ果て、そして脱力しきっている。
閉じられたウミの瞳からは涙の跡が数本流れ、それを親指で丁寧に拭ってやれば先程の終わらない責め苦のようなただ彼女に怒りをぶつけて発散したような行為を振り返り思い出しては拒絶するウミの顔が脳裏に蘇る。
自分は有無を言わさず一方的に彼女を抱いた。
肌と肌を重ね、ウミは拒絶しながらも四肢を切断されてはどうすることも出来ずに、そして彼を愛しているからこそ、完全に拒絶することはできなかった。ウミが口にした本心。自分や子供たちを捨てた罪悪感に押し潰されそうになって。
――「ごめんなさい、リヴァイ……」
小さく謝罪の言葉を告げた後、ウミは意識を失ってしまった。
本当に自分を拒絶できることが出来ない事もリヴァイは見抜いていた。完全に自分や家族や島を拒絶できなかかったウミにはまだ迷いがあったのだ。
パラディ島救済のために、エレン達と行動を共にしていた彼女を自分から二度と離れないように引きずり込んでしまえばいい。
これまで幾多もの別れを繰り返し、多くの兵士達がその翼を散らしていった。
母を失い、地下街を駆け抜けた友を失い、自分を慕う部下たちを失った。自分の今の生き方を築いた師を失い、そして盟友を失った。それでも自分には彼女が残されている。どれだけ失い続けてきたのだろう。この先もきっと、幾度失い続けても唯一失わない存在をリヴァイは抱き締めて彼女の頬に伝うそれが自分から溢れる雫だとも自覚せずに
リヴァイは彼女を抱いてもむなしさだけしか残らない空間で呟いた。
「辛いなら……辛いと、言えばいいだろうが……。馬鹿野郎……お前たった一人で抱えきれる問題じゃねぇだろう……何で、分からねぇんだ」
乾いた頬に張り付く涙と、長い髪を伏せ眠るように動かないウミへ男はそっと唇を寄せ、身なりを整えると再び船室へ戻って行った。
――今回の悲劇の元凶、その意味を、再度、問いただすために。
▼
ミカサに導かれ、エレンは目的通り「戦槌の巨人」を捕食し、そして約1年ぶりにパラディ島への帰還を果たすことになる。
改良した新型の立体機動装置でガスを蒸かしワイヤーで飛行船の網にしがみつき、乗り込もうとするエレンとミカサの元に、重い音を立てて鉄製の扉が開かれていく。
開かれた扉から姿を見せたのは1年ぶりとなる、幼い頃はよく少女に間違われ、四年前はヒストリアの替え玉に使われそうになった可愛らしい顔立ちしたアルミン、しかしこの数年で彼もめまぐるしい成長を遂げた。
リヴァイのように金髪を刈りあげ、背も伸び、今は端正な顔立ちに意志を秘めた海を閉じ込めた青い目が美しい青年へと成長していた。
四年前のレイス卿領地の礼拝堂から抜け出してきた自分を迎えた時のように無言でアルミンが大きな手を差し伸べエレンもその手に答える。
四年前と同じ、固く結ばれた手と手、しっかり結ばれたはず。
だが、エレンとミカサとアルミン、シガンシナ区の三人が久しぶりの再会を果たしたと言うのに、その空間には再会や無事を喜ぶ声も、当時の面影も変わり果ててしまった三人はもう何処にも居ない。
甲板からアルミン逃げを引かれてエレンが飛行船へ這い出ると、待っていたのは沈黙だった。
そして鋭い目線が自分を射貫く気配に見上げればそこに居たのは四年前よりもくたびれ切った顔をして、そして部下たちと共に待機していたリヴァイの姿であった。
そして、怯えたような目でエレンを見つめる父親によく似た眼差しをしたアヴェリアが片隅でうずくまっている。
「アヴェリア、お前も母さんと同じ倉庫に引っ込んでろ。お前は兵団関係者でもない部外者だ。本来ここに居てはいけねぇ人間なんだからな」
「……わかったよ、親父」
アヴェリアは泣きそうな顔で膝を抱えて座り込んでおり、その頬は赤く腫れていた。どうやら父親に反抗期ゆえの家出を責められ、さらにこんな危険な戦火の中で走り回る姿を叱咤されこってり絞られたのだろう。アヴェリアの腕には二人の赤ん坊が抱かれており、すやすやと愛らしい寝顔を浮かべて眠っている。
虚ろな目をしたエレンの感情が消え失せた顔を見てリヴァイが詰め寄った。
「何って汚ぇナリだ。糞溜めに落ちたらしいな、エレン」
「……兵長」
とエレンがそう呟いた瞬間、リヴァイの顔つきが険しいものに代わると、彼はそのままエレンの顔面を審議所で尋問した時のように蹴り飛ばしたのだ。
仲間を巻き込み危険な目に自らの身を晒し、そして自分が愛する妻を彼は巻き込んだ。思いっきり蹴り飛ばして壁際までぶっ飛ばされ、成されるがまま壁に叩きつけられたエレン。
リヴァイの容赦ない蹴りに言葉を無くすアルミン、そしてエレンが蹴り飛ばされた瞬間、当時の記憶がフラッシュバックしたかのように、顔色を真っ青に染めて思わず駆け寄ろうとするミカサをアルミンが肩を掴んで抑える。
目を見開いたミカサをアルミンの暗い海の底のように深い青が見つめていた。
「懐かしいな、エレン。相変わらずお前は蹴りやすい。拘束する。話はそれからだ。俺の大事な妻を巻き込んで企んでいたようだが、思い通りの計画か?」
「俺はウミを巻き込んだつもりは無いです……彼女の意志が、たまたまあなたではなく俺と一致しただけの話です。それに、兵長は言いましたよね。――「俺からウミを奪い返してみろ」、と」
「てめぇ……」
「すべては手紙に記した通りです。ご理解いただけたはずでは?」
「チッ、その面(ツラ)……地下街で腐るほど見てきたクソ野郎のそれだ……。まさか、お前が……。喜べ、すべてお前らの思い通りだ」
突きつけられた銃口。とても自分の帰還を喜びや歓迎もしない空気の中で自分を見つめるリヴァイの投げかけた言葉を辿るようにエレンの虚ろな目が見つめる。その目線の先、漂う蒸気の中で浮かび上がって来た人物をエレンは見つめていた。
2021.04.19
2022.01.31加筆修正
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