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夜明けまで


 うたうのが、あまり好きじゃないの。微睡むような口調でなまえは言った。それが子守歌のようにおれと彼女二人きりの室内に響くので、おれは「きみの歌声は素敵だと思うけどな」と言い掛けて、しかしやめた。それは彼女の表情が思っていたよりも切ないものだったからでもあり、おれが彼女に嫌われたくないと心の底から思っているからでもある。

「どうして?」

 代わりに問いかけると、彼女の視線が、窓の外、真っ暗な海の向こうへと動いた。波のざわめく音が聞こえるだけで、そこに本当に海が存在するのかも分からないほどに、そこはくらい。

「父が、わたしの声が、あまり好きではなくて。くつう、だと」

 くつう、と音にされたそれはかき消されそうな程に細く、はじめ「苦痛」という意味なのだと気づかなかった。声が、苦痛。
 おれはきみのその声を聞くだけで、耳裏が痺れ、天使の詩のように聞こえるのに?

「ほんとうは、声を出すのも、怖い気持ちになるわ」

 いよいよ消えてしまいそうなほどに小さな声で、なまえが言う。
 そんな風に、言わないでくれ。おれは君の声を聞けるのがこれ以上ないくらいに嬉しいっていうのに。彼女の傍へ寄って、肩を並べた。夜風に吹かれているからなのか、彼女の肩は僅かに震えている。

「寒いのかい? 部屋に入ろう」
「ねえシーザー」
「ああ」

 なまえが窓の縁に腰かけ、海の向こうへ言葉を落とすように呟く。月の光が、彼女の滑らかな肌を照らし、そうして、その瞳を浮き上がらせた。瞳が、波打つように、揺れていた。

「あなたが、わたしに呼ばれる名が好きだって、そう言ったとき、わたし」
「ああ」
「わたし、信じられなくて、つらくて、悲しくて、怒りすら覚えて、でも、それでも、」
「表情を見れば分かったよ」
「でもうれしかった」

 あなたの名前を呼ぶのがしあわせなの。
 彼女ははっきりとそう言葉にして、そうして窓枠に凭れ掛かり、自身の身体を掻き抱く。おれが彼女の手に自分のものを重ねると、それはぶるぶると震えた。風にあたりすぎている、このままでは冷え切ってしまうだろう。

「あなたはわたしの歌声も好きだって言うでしょう」
「当たり前だろう?」
「歌って欲しいって言うわ」
「ああ、そう思ってるよ」

 ゆらり、震える声でなまえがおれの名前を呼んだ。祈るような、願うような、今にもはち切れんばかりの感情を詰め込み、彼女が声を零している。

「好きだって、あなたが隣で好きだって言わなくちゃ、むりよ」
「何度だって言うさ」
「あなたの為でも、わたしきっと、歌えない」

 彼女の歌声はきっと蕩けるように甘くて美しいだろうに。勿体ない、と思いながら、こうして震える彼女に愛おしさも湧いてしまうのが情けない。
 彼女の目尻から、涙が一粒落ちた。頬に流れ落ちるそれに、指先で触れる。

「代わりに名を呼んでくれたらいい。おれの名前を」
「シーザー、」
「綺麗だ。おれの名前がこんなに特別に感じることって無いぜ」
「シーザー、いやよ、」

 その後の声はもう、言葉にはならず、ただ子供のように上擦った声で、なまえはおれの名前を呼んだ。涙に濡れた声ですら、美しくって傅きたくなるなんて彼女に言えば、やはり流石に嫌がられるだろうか。

「聖歌なんて、」

 歌いたくない。そう言いながら泣いて震える彼女の向こうで、僅かに光が昇ってきている。じきに夜明けだ。どうしたって時は流れる。彼女はこの泣き腫らした目でこの後ハンガーにかけられた黒いワンピースに腕を通さなくっちゃあいけない。よろけた足取りで、パンプスを履いて、教会まで向かわなくっちゃあいけない。
 だがそこまで行けば大丈夫。先生が、スージーが、JOJOが、きっと、彼女と寄り添ってくれる。おれの役割は、この長く深い夜の間、なまえの声に耳を澄ませて、傍に居てやることだけだ。

「大丈夫」
「シーザー」
「なんだい」
「すきよ」

 おれもだ。
 朝焼けの光の中で、なまえが海へ向かって手を伸ばす。その手に自分の掌を重ねながら、彼女の声に耳を澄ませていた。ああ、やっぱり綺麗だ。




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