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飛び込んでミルククラウン


「きみは確実に、ぼくにとって唯一の人間だよ」

 どきり、とした。だって先生がそんな風に、わたしが喜ぶようなことを言うなんてとても珍しい事だから。わたしは浮ついた気持ちに気づかれないように、きゅ、と口を結んだ。だらしのない口の端が、緩んでしまわないように。彼の言葉一つ一つで心を弄ばれているなんて、そんな情け無いことがバレてしまったら、悔しいもの。
 だからわたしはなるべく普段通りで、ソファに座っていた。

「どういう、意味ですか?」

 声が上擦らないように気をつけながら、そっと尋ねる。ああ、期待が滲み出てはいなかっただろうか。少し緊張して、指先を擦り合わせる。
 露伴先生はスケッチをする手を止めずに、「意味って?」となんてことない風に言った。

「ええっと、唯一と、仰って頂けたので」
「そんなの、ぼくの邪魔をしないからだよ」

 急速に、膨らんでいた気持ちがしゅう、と萎んでいく。「なるほど」と気の抜けた声が、口から漏れ出した。

「きみはぼくの神経を逆撫でするようなことはしないし、邪魔もしないだろ」

 そこには自信を持ってくれていいぜ。そっか。「なるほど」色を失った声が、ぽろりと、落ちていく。


△△△


 だってきみはぼくの神経を逆撫でするようなことはしないし、邪魔だってしないだろ。それに料理も美味いしな。
 そんな言葉がぐるぐると、頭を回っている。
 ひょんなことから、漫画家の岸辺露伴先生の家で毎日の食事を準備することになってから、随分経つ。初めはただの知り合いのわたしが、彼の家に上がり込むことはどうかと思ったけれど、それでも彼と、彼の描く世界が好きだったから、引き受けた。
 面倒な人。確かに初めはずっと、そう思っていた。漫画に対する情熱はいっそ異常なくらいで、家の中にだって、こだわりと言うには細やかな決まりが数多く存在しているのだ。決まり、と明言されている訳ではないのだけれど。

「きみの料理をしている時の表情、悪くないぜ」

 キャベツを刻んでいたら、そう言われたことがある。わたしはふとかけられたその声にぽかんと口を開けて固まって、暫くの間間抜けに先生のことを見つめていた。たったそれだけ。美しいとも、可愛いとも、言われた訳じゃない。「悪くない」たったそれだけで、わたしはあっけないくらい簡単に先生に恋に落ちた。
 けれど、わたしはきちんと弁えているから。だからちゃんとお仕事として、彼の家に通っていた。先生を困らせないように、好きなんて感情を一粒だって零さないようにした。それなのに。

「君は確実に、ぼくにとって唯一の人間だよ」

 言葉に、心臓をめちゃくちゃにされた。みっともなく浮ついて、期待した。恨めしい気持ちにもなるけれど、どうしたってわたしが悪い。だって、先生にとって、その言葉に大した意味は一つだってないのだから。




「ちょっとなまえ、聞いてるの?」

 名前を呼ぶ声に思考が引っ張り上げられる。はっとして、視線をあげた。目の前には、由花子が訝しげな顔をして立っている。昨日のことで随分とぼんやりしてしまっていたようだ。きっと何度も呼びかけてくれていたのだろう。誤魔化すように笑って、「ごめん」と謝っても由花子は表情を険しくするばかりだ。

「何かあった? あの男と」
「あの男?」
「分かるでしょう。貴方が毎日通い詰めてるあの男よ」
「通い詰めてるって……アルバイトだよ」

 由花子がわざとらしくため息をついた。「そう言うならそれでもいいけれど」と言葉を続けながら、わたしの瞳を正面からじっと覗き込んでいる。瞳には、分かりやすく納得がいかないと書いてあって、少し面白い。

「次、貴方の番でしょう」
「そっか、もうそんな時間?」
「そうよ。何度名前を呼んでも上の空で、」
「うん、ごめん」

 へら、と笑うと、由花子の眉間に皴が寄る。顔を顰めても美人だ。
 鞄からファイルを引っ張り出しながら、中身を確認する。進路に関する面談は、つい先日から始まったと思っていたのだけれど、あっという間に自分の番になってしまった。わたしの前、ついさっきまで面談をしていた由花子が、教室で待機していたわたしを呼びに来てくれたのだ。

「ごめんね。行ってくる」
「……調子が悪いなら」
「ん?」
「私が伝えておくから帰ったら」

 プリント類を持って立ち上がると、顔を顰めたままの彼女がそう言った。淡々とした調子で伝えられた言葉に、愛おしくなるくらいの優しさが込められていることに気づいて、笑みが零れる。心配させた申し訳なさよりも、喜びが勝ってしまったのだ。わたしの微笑みに、由花子は更に難しい顔をした。

「大丈夫、ありがとう」
「……そう」
「また明日ね」
「ええ。……あの男に何かされたのならすぐに言いなさい」

 由花子は心配性だ。露伴先生と元々そんなに相性が良くないこともあるのか、わたしが彼の下でアルバイトをすると知った時も随分と棘のある言葉で心配された。
 けれど今回は先生に何かされた訳じゃない。わたしが勝手に一人で、傷ついているだけだ。


△△△


 進路相談を終えた後、先生の家に着いた頃には僅かに陽は落ちていた。預けられている合鍵で玄関を開けると先生は居なくて、広い部屋はしんと静まり返っていた。もしかしたら、まだお仕事をしているのかもしれない。
 キッチンへ向かい、手を洗って、冷凍庫を開ける。今日は遅くなることが分かっていたから、昨日の時点で粗方の準備は終えていた。冷凍された野菜を取り出しながら、担任の言葉を思い出す。進路、将来、やりたいこと。正直、考えたことなんてない。言葉を濁し続けたわたしに、担任はただ呆れたような眼差しを向けていた。進学か就職かも決められていないのだ、実りのある面談とはお世辞にも言えなかっただろう。

「おかえり、なまえ」
「……はい、先生。すぐできますよ、夕飯」

 いつの間にか、先生が仕事場から降りてきていた。
 露伴先生は、いつもわたしに「おかえり」と言う。くすぐったいような、苦しい心地になるけれど、どうしても「ただいま」なんて言えなくて、誤魔化すみたいに、はい、とだけ返している。先生は、わたしのすぐ後ろに立って、手元を覗きこんだ。わたしの手にはパスタ麺が握られている。先生はそれには何も言わないで、すぐに離れた。何も言わないというのは、文句が無いということだ。

「どうだったんだい、面談は」
「どう、ですか?」
「進路、そろそろ決めるんじゃないの?」

 そうですねえ。パスタを茹でる為に準備した鍋から湯気が立ちのぼって、熱い空気が肌に触れる。先生は「他人事みたいだな」と言って、珈琲を飲みながらわたしを眺めていた。他人事。そう言われても可笑しくないくらいに、わたしの将来はぼんやりとしている。

「正直、分からないです」
「大体の学生はそうだろ、きっと」
「そうかもしれませんね」

 答えながら、考える。先生は、わたしから何を聞きたいのだろう。最近の高校生が、面談でどういうことを話すのか、とか。進路の状況とか、その辺りだろうか。漫画で使うのかもしれない。

「……こういう、料理とか、するのは好きなので。仕事にできたら楽しいかもしれないですけど」
「ふうん」

 先生の返事は淡白で、自分の言葉が恥ずかしくなっていく。きちんと仕事にするなんて、学生が何を言っているのかと思われただろうか。
 それに、わたしがこの仕事自体を本当に楽しいと思えているのかなんて、自分にも分からなかった。先生以外のお家で、自分が働く姿が上手くイメージできなかった。

「それじゃあここでいいんじゃあないか」
「へ」

 パスタを入れたところで、先生がそう言ったので思わず勢いよく振り返ってしまった。先生はなんてことのない顔をしている。わたしは手の中にじっとりと汗をかいてしまって、落ち着かない気持ちで彼の表情を見つめることしかできない。

「……君の腕は認めているし、正社員になると思って給料も上げる。……個人契約じゃなくて、別に、もっとしっかりとした仕組みの下で働いてもいい」
「……な、なるほど」

 何を言われているのか分からず、暫く先生の瞳をただ見つめ返していた。正社員。先生のお家で、きちんとお仕事をする。お給料をもらう。今と同じ生活、同じ毎日。その将来を、想像してみた。今と同じように、いいや、今よりももっと、「仕事」として、先生の側に居られる。繋がりを、持てる。ぼんやりと、想像した。わたしが黙り込んでいるのを彼がどうとったのかは分からないが、先生は傍にマグカップを置くと腕を組んで、ふん、と鼻を鳴らす。

「安定性に不安でもあるのか? 半永久的に雇ってやるつもりなんだぜ、ぼくは」
「はん、えいきゅうてきに、雇う」
「ああ、ちゃんと給料は……」
「やです」
「は、」

 いやだ。これからずっと、先生のお家で、この恋心を殺しながら、仕事として毎日顔を合わせるなんて。そう思ってすとんと、自然に言葉が落ちた。自分でも驚いてしまうくらいに、するりと。
 どうしてなのか、これまで幸せだと思っていたことが、急激に恐ろしいものになっていく。お仕事でも、この繋がりが嬉しかった筈なのに。

「いやです、そんなの」
「は、……ハァ?!」

 思わず、ぽろぽろと言葉が零れて、それを誤魔化すこともできずに立ちすくんだ。ぴぴぴ、とタイマーが鳴っている。スパゲッティが茹で上がったのだ。けれどどうしてもそこから一歩も動くことができない。
 ぼくはきみのことを一生好きにならない、と、そう宣言された気がした。
 すう、と心臓が冷えていって、わたしはエプロンを外した。どこか冷静で、コンロの火だけを消して、先生に頭を下げる。

「体調が悪いので今日は帰ります」
「突然何を……」
「失礼します」
「ま、待てよ。一体何を急に……」

 目を白黒させている先生には目を向けないようにして、鞄を掴んで駆け足で家を出た。先生はわたしのことを追いかけてはこなかった。


△△△


 あの日、康一くんがなまえを紹介してきた時、正直これっぽちも興味は無かった。見るからにフツーの学生って感じで、面白い経験なんてなに一つだってしているとは思えなかった。初めて会った時は康一くんの手前本にすることもできず、ただ少しだけ会話をしただけで、すぐにその存在だって忘れた。
 二度目会ったのは偶然だ。スーパーでぶどうヶ丘の生徒がネギの束を凝視する姿に鬼気迫るものを感じて足を止めた。最初は気づかなかったが、よくよく見たら、そういえば康一くんと一緒に居た奴だと思って声をかけたのだ。

「何を凝視してるんだ」
「え? ……あっ、岸辺、露伴先生」
「すごい顔だぜ」
「顔?」

 彼女は、そこで自分の顔が険しいことに気づいたのか、一気に破顔した。目をとろけさせるようにして微笑んだ顔は、文句のつけようもなく。……文句のつけようもなく、魅力があった。
 予感みたいなものだった。興味が湧いたのだ。
 ぼくはなまえをスーパーの外で本にして読んだ。

 彼女の頁には料理のことばかりだった。とにかく人生に料理が寄り添ってきたらしい。一種の料理本かと思うほどに情報に溢れ、病的といっても良かった。けれど最後に一行。「誰にも、ご飯を作ったことがない。食べて欲しい、誰か、その人の為だけに作ってあげたい」と。ぼくは早速彼女に家で料理を作らせた。
 料理は美味かった。想像よりもずっと。けれどぼくが一番気に入ったのは、料理を作っているなまえの表情だった。恍惚、幸福。恋する乙女って感じの顔だった。

 手放したくないと、そう思うようになったのがいつからだったかは分からない。自分だけのものにしたくなった。その表情を、言葉を。彼女もぼくに対して満更じゃあないみたいな顔をしているから、ゆくゆくは、と思っていた。
 一応、歳は殆ど変わらないって言ったって、相手は高校生で、ぼくは社会人だ。すぐにぼくだけのものにするのは憚られた。だがあの高校でテキトーな男に引っ掛かったりしたらたまったものじゃない。とりあえずは、仕事で繋がった関係でもいいかと、アルバイトを提案した。その頃、既に彼女はぼくの家に時々来ては夕飯を作っていた。それを本格的に、アルバイトとして。外堀から埋めるのも、大事だろう。

 それなのに。

「嫌だ、嫌だだって……?! 本当はずっとぼくに料理作るのが嫌だったってのか? あんな幸せの絶頂ですみたいな顔をしておいて!」
「はぁ……」

 電話の向こうで、ぼくの呼び出しを渋っていた康一くんは、なまえの名前を出すと素直にやって来た。けれどぼくが一部を話し終え、今の状況を訴えても康一くんは微妙な顔のままで居る。

「雇うって、言ったんですよね?」
「ああ、そうだよ、これから先ずっと雇ってやってもいい、そう言ったんだ!」
「うーん……露伴先生が素直に告白すれば済む話だと思うけどなあ」

 自分でも、顔が歪んだのを感じた。告白。

「殆ど告白だろう! あれは!」
「え」

 ギョッとした顔で、康一くんが固まる。彼は摘んでいたクッキーを落として、クッキーは紅茶の中に落ちていった。紅茶が跳ねてテーブルに飛び散った。それには目もくれず、康一くんはただ、ぼくの瞳を信じられないようなものを見る目で見つめている。

「告白じゃあないですよ、それ」

 震えながら康一くんは言った。


△△△


「そんなの無視しなさい。バイトなんて辞めればいいのよ」

 わたしの話を聞いて、由花子はぴしゃりとそう言った。カフェのテラス席でつっぷすわたしからは気の抜けた唸り声しか出ない。
 一晩経って、いまだに先生の言葉はわたしの心臓にまとわりついたままだ。けれど眠って少しだけ冷静になると、恋が叶う可能性がゼロでも、傍に居られる大義名分が得られたと思えばいいんじゃないかって気にもなってくる。

「病気ね」
「恋は病気って言うじゃない」
「あいつに恋なんてする貴方が病気よ」

 ふん、と由花子が鼻で笑う。酷い言いようだ。
 あの後、自宅に先生から電話が入っていたが、メッセージは残されていなかった。嫌だ、なんて子供のような言葉にきっと腹を立てているが、怒りのあまり言葉が出なかったのかもしれない。

「料理が好きなら、料理人でも目指したら?」
「料理人?」
「ええ」

 考えたことが無かったけれど、魅力的な言葉に思えた。自分が厨房に立つ姿を想像するととてもしっくりときて、わたしは彼女の瞳をじっと見つめ返す。「考えてみる」と、素直に言葉を零すと、由花子が僅かに柔らかく微笑んだ。

「あんな男、居ても居なくてもあなたの人生はあなたの人生だわ」
「……うん、そうね」
「それに、どうしても好きだって言うんなら止めないけど、あの男の下で働くのは勧めない」
「どうして?」
「漫画の為に破産しそうだもの」
「……ふ、あはは! 確かに」

 就職先としては、ちょっと不安定かもしれない。由花子の言葉に暫く笑っていると、彼女も口許を緩めて笑う。暫くの間見つめ合って笑っていると、突然、由花子の表情が酷く険しく、ぐっと歪められた。彼女の視線はわたしの背後を睨みつけている。

「どうしたの?」
「……随分と楽しそうじゃあないか」
「へ」

 それは聞こえる筈の無い声だった。信じられず、ゆるりと振り返って、彼の顔を目にしてからも暫くの間固まった。露伴先生が、わたしを見て、不機嫌そうに眉を顰めている。

「こいつに話があるから連れて行く」
「話ならここでしたらどう?」
「…………」

 由花子が彼の発言を切り捨てると、露伴先生は、ぐ、と眉間に皺を寄せて息が詰まったみたいな顔をして、数秒の間そこに立ちすくんでいた。今は他の席に誰も居ないからいいけれど、人が居たら何事かと思ってしまうくらいには、空気が悪い。
 由花子と露伴先生は、暫くの間睨み合っていた。わたしには息を止めて、二人を恐る恐る見上げることしかできない。

「……ゆ、由花子さん」

 恐る恐る、そんな声がした。由花子の表情が、一瞬で驚愕に染まって、すぐに柔らかくなる。

「康一くん」
「由花子さん、二人きりにしてあげてくれないかな……?」
「分かったわ」
「えっ、ちょ、由花子」
「それじゃあ」

 康一くんが出てきてしまえば、由花子はあっという間だ。彼女は自身の鞄を持つと、そのままカフェを出て行こうとする。彼女を呼び止めても、もうここに留まる気は無いみたいだった。
 呆然と、彼女の後姿を見送る。康一くんが、すごく申し訳なさそうな顔でわたしに目配せをした。

 二人が居なくなった空間は一気に静まり返った。

「……あの、良かったら、席」
「……ああ」

 先生は、わたしが勧めると素直に席についた。向かい合うように座っていると落ち着かず、どこを見ていいのかも分からなくて、ただカップの縁を眺めてしまう。
 沈黙が落ちる。

「……昨日、仕事、放りだして帰ってすみません」
「パスタ、あり得ないくらいに量が増えてた」
「すみません……」

 今更ながらも食べ物を粗末にしたことがショックで沈黙していると、先生が付け足すように「ナポリタンにして食べた」なんて言うので驚きで顔をあげた。

「食べたんですか?」
「ああ。捨てる訳にもいかないし」
「そ、そうですか……」

 こんな時なのに、好きだ、なんて思ってしまう。馬鹿みたいだ。
 先生が作ったナポリタン、食べてみたいな、とぼんやり思って、同時に「先生、別にわたしが居なくたって十分料理できるのに」と思う。先生は原稿を一気に描き上げているみたいだし、料理だってできる。こんな学生にお金を払って態々作らせるなんて。

「どうして、わたしのこと雇いたいって思うんです?」

 今更な疑問かもしれないけれど、気になって思わず口に出してしまった。先生も、訝し気な、はぁ?とでも声をあげそうな顔をしている。

「そんなのきみの料理も、きみのことも好……」
「はい?」
「…………」

 言葉が途切れて、また沈黙が落ちる。
 先生は、言葉を酷く迷っているみたいだった。そんな先生の顔を見たのは初めてだったから、新鮮な気持ちすらしてしまって、ただじっと彼の顔を見つめていると、先生とふと視線が合う。

「きみの、表情が」
「はい?」
「きみの表情を、誰にだって渡したくないんだよ」

 一体、なにを。なにが。なんて。この人は、なんて、言ったのだ。
 言葉が届いたとき、心臓が握り潰されたかと思った。信じられないくらいにぶわりと体中が熱くなって変な汗が噴き出してくる。わたしはぽかんと口を開けたままで、瞬きばかりを繰り返している。
 何も言わないわたしに、露伴先生は焦れたように言葉を続ける。

「好きだって言ってるんだよ! 君が!」
「う、うそ!」
「嘘だと?!」

 目を見開いて、先生が勢いよく立ち上がる。その拍子に椅子が倒れて大きな音が鳴った。先生はそれを気にも留めず、テーブルの上に手を叩きつけた。

「昨日の言葉で分かるだろ普通は!」
「昨日、……雇うって話ですか?! 分からないですよ!」
「とにかく!」

 ふう、と深い息の音がする。先生の額に、汗が光ることに気づいた。そんな、先生が、緊張している、みたいな、顔。

「一緒に生きてきたいんだ、きみと、他でもない、きみとだ」

 何もかもかなぐり捨てた、プロポーズみたいな言葉だった。信じられないことが一気に雪崩こんできていて、唇がわなわなと震える。驚愕で脳みそがつぶれそうだ。
 けれど、それ以上に、喜びが指の先まで駆け巡っているのは確かだった。だから驚くくらいにするりと、あれだけ奥底に潰してあった気持ちが口から転び出た。

「そんなの、わたしだって好きです、露伴先生のこと」

 ああ、言ってしまった。そう思ったのに。露伴先生が、わたしの言葉に、すごくすごく、柔らかな顔をした。
 そこでやっと、本当にこの人はわたしのこと好きだって心の底から思って言っているのかも、と理解した。同時に、自分が思っている数倍面倒でおかしい人なんだってことも。
 先生は、僅かに落ち着いたのか、ふ、と息をつく。

「それじゃあ、……ぼくのところで働くって話は」
「え、それは考えます」
「なっ?!」
「やっぱり調理師免許を取ろうかなと思って」
「なにッ?!」

 先生が、目を白黒させている。なんだかおかしくて、わたしが声を出して笑うと、先生はぐ、と息を詰めて神妙な顔をする。そうして暫くの間、「誰かの為に料理がつくりたいなら、ぼくの為にでいいだろ……」とぼそぼそ先生は文句じみたつぶやきを漏らしていた。

「もっと美味しい料理、作ってみたいんです」
「充分に味も見た目も良いだろ」
「難しい食材もチャレンジしてみたいですし。実はワニ肉料理に興味が、スパイスも独学だと限界がありますし、できれば自」
「もう分かったよ……」

 先生は呆れたように息をついて、そうして「進学しても偶には料理を作ってくれよ」と零すように言った。そんなの当たり前だった。ああ、嬉しすぎてどうにかなってしまいそうだ。

 後々、先生のスケッチブックにわたしが料理中の表情が沢山描かれているのを知ったのだけれど、そのどれも可愛らしいとは言えない鬼気迫るものばかりだった。先生は満足そうにして、最高だなんて言っているけれど、やっぱり先生って変なのかもなあ、と最近改めてしみじみ思っている。でも、そんなちょっと変な先生が好きだ。




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