守りたいあの子
船室に入ってすぐに、アンちゃんが「シャワーを浴びたい」と言ってわたしの顔を見上げた。この部屋のすぐ隣にはシャワー室があって、そこでは水が出るようだと水兵さんの一人が言っていたのを聞いたのだろう。けれど先程のこともある。今はスタンド使いが潜んでいるかもしれない状況で、なるべく身動きせず一塊になっておきたいのが本音だった。
わたしの表情が決して良いものでないことに気づいたのか、彼女は不満気に顔を歪める。
「わたし、海に飛び込んでからずっと海水でべとべとなの、髪だってぱりぱり」
髪に触れ、口を尖らせた彼女は、「あんたも一緒にシャワー浴びちゃえばいいのよ、どうせ何日も入ってないんでしょ?」と続けて、わたしの制服の裾を引いた。正直ぎくりとして、そっと自分の制服の袖を嗅ぐ。自分ではわからないけど、結構匂ってたりしたらショックだ。正直なところ、シャワーはすぐにでも浴びたい。しかし沸き上がった感情には一生懸命蓋をする。わたしはぱち、と頬を軽く叩いて気合いを入れると、どうにか納得してもらおうとアンちゃんに向き直った。
「……だ、駄目駄目。今皆が安全を確認してるから……あれ、アンちゃん?」
わたしが説得するはずの女の子は、そこには居ない。
ぐるりと見渡して、わたしは頭を抱えた。中途半端に開いていたシャワー室への扉が閉まっている。お転婆な彼女に少し頭が痛くなりながら、シャワー室に足を踏み入れた。
シャワー室にはすでに熱気が立ち込めていて、すぐそばから水の流れる音が聞こえてくる。カーテンが閉まっているスペースのすぐ手前の机にアンちゃんの着ていた服が放ってあって項垂れた。
「アンちゃん?」
「なんだ! やっぱりあんたも来たんじゃない」
念願のシャワーに機嫌のよさそうな彼女の声が響く。わたしは正直今にも服を脱いで頭からお湯を浴びたいというのに。
今更止めてもきっと彼女は出てこないだろう。半ば諦めた心地で、「なるべく早く出るんだよ、ココで待ってるから」と声を張り上げると、アンちゃんの「ええーっ」と不満げな声がまた響いた。
「頭固いんじゃあない。もっと気楽になればいいのに」
楽しそうな彼女の声が響く。頬を引きつらせながらも、しかしわたしは彼女を叱る気にもなれず、ぼんやりと待ってしまう。憎めないというか、なんというか。可愛いんだものなあ。
一人で少し笑っていると、すぐそばの扉が、きい、と音を立てて動いた。水兵さんが心配してきてしまっただろうか。立ち上がって扉へ近づいた。
「すみません、すぐに戻るので……え」
扉から、まあるい瞳と目が合った。
暫くの間固まって、わたしはその場に立ちすくんでしまう。しかし、扉の隙間から見えた赤色に、息を飲んだ。水兵が、死んでいる。向かいの部屋は、赤で染まっていた。鉄の匂いが鼻につく。
「アンちゃん!」
叫んだのは、反射に近かった。彼女を守らなくては、そう思って彼女の使っているシャワースペースのカーテンを引っ張ろうと手を伸ばす。
「うっ……!」
しかし、わたしの体を何かが巻き取って、すごい勢いで引っ張られる。がきん、と鈍い音がして、わたしは壁に叩きつけられた。肺から息がひゅう、と出て思わずせき込む。口元も何かに覆われて苦しい。目を向ければ、それはどうやらシャワーのホースのようで、どうもがいてみても拘束が外れる様子は無い。
目の前には、いつの間にかオラウータンが立っていて、じっとこちらを見上げていた。異常な光景だった。ドアの向こうから入ってきたのは、先程までオリに入っていた筈のそれだった。
どうしてここに。さっきの水兵を殺したのはこのオラウータンなのか。そもそもオリの鍵を開けたのは誰なのか。スタンド使いは近くに居るのか。
様々な疑問が頭を周っていく。しかしどんなに考えても答えが見つかるはずもなく、それよりも今この状況が危険だというのは明確だった。
オラウータンが、シャワールームに近づいていく。
「…………!」
声が出せない。
シャア、と軽い音と共に、カーテンが開かれた。その向こうにいるアンちゃんの怯えた瞳がみえた。後ずさる彼女にオラウータンが近づいてゆく。守らなくちゃ、わたしが、わたしがあの子をまもらなくちゃ。
彼女達を呼ぶ。守って、あの子を、お願い。そう心の中で叫ぶ。空気が揺らいで彼女たちがわたしの前に立っている。オラウータンが、アンちゃんに手を伸ばす。
「きゃっ」
触れる寸前で、バチリ、と光が散って、伸ばされた手が勢いよく弾かれたのがみえた。アンちゃんは何が起こったのか分からずに目を見開いている。ギィ、と警戒した獣の声。
「その子には、触らせない」
ホースの隙間から絞り出した声に、ぎょろりとした瞳がこちらを向いた。