早朝、布団から手だけを出して手帳を探し当てる。
 引っ掴んだそれをぱらぱらと捲りながら眼鏡をかけて、そこに記入された今日の予定をじっと眺めて息を吐いた。
 今日は新しく購入した大きな備品の搬入日。それから隊舎を少し整理して、物を動かしてスペースを空けて、『技術開発局』の為に浦原隊長がもぎ取ってくる予算をどう使うかひよ里ちゃんを交えて一緒に会議をして――

「……あ。お別れ会あるから皆十八時にはあがってもらわないといけないや…」

 ――藤さんとあきさんの異動に伴って、送別会の実施。

いつか貴方がどんなひとだか知ってしまったら


 技術開発局の本格的な設立を待たず、十二番隊の中の隊士の何名かは他隊に異動することになった。
 囚人と一緒にお仕事をするのに耐えらえれないのか、極まった効率主義と秘密主義でぽんぽん十二番隊を変えていく隊長に耐えられなくなったのか、とにかく彼ら彼女らは『夜逃げ準備』を終えて、明日からは十二番隊ではなくなる。

 藤さんとあきさんの申し訳なさそうな、けれど後悔は微塵も感じられない顔は記憶に新しい。
 二人はしきりに席官三人衆として過ごしてきた私を"こんな"十二番隊に置いていくことを惜しんでいるようだった。
 私としても二人がいなくなってしまうのは寂しいし、仕事の速い藤さんと細かいところに気がつくあきさんが抜けてしまった十二番隊をしばらく一人で見守らなければいけないと思うと不安もある。
 でもしょうがない。二人がここにはいられないと思ってしまったのなら私に止めることはできないし。



「精が出るな、十二番隊第四席!」
「ええと、はい。おはようございます、浮竹隊長」

 ぺこり、と頭を下げると、いつもより幾分か顔色が良いように見える浮竹隊長が人好きのする朗らかな笑顔で手を振ってくれた。
 他隊の隊長がやってきたことで恐縮してしまった隊士を手で制して、大きな機械の入った箱を運んでもらう。
 本当は隊長の前を横切ってほしくないけれど、こんな大きな荷物を持ったまま立たせて放置するのは申し訳なかった。

「これは……全部運ぶのか?」
「はい。浦原隊長が購入してしまったので。どこに置くかはまだ決まっていないんですけど…」
「隊舎の内装も大分変わって来てると聞いたぞ。目が回ってるんじゃないか、水月」
「そうですね…正直めっっっっちゃ忙しいです。頭掻き毟りたくなるくらい」
「ははは!」

 二つあるお隣の隊でどちらかの隊長とお話をしろと言われたら、私は間違いなく十三番隊の浮竹隊長と過ごすことを選ぶだろう。
 浮竹隊長は曳舟隊長が昇進してから浦原隊長が就任するまでの少しの間、隊長が不在の十二番隊の様子を進んで見てくれていた。穏やかな気性も手伝って、今の十二番隊の中では浦原隊長よりも人気があるかもしれない。
 実は浮竹隊長からも何度か引き抜きのお話を頂いているが、繰り返されすぎたそれは最早挨拶の延長になりつつある。

「…大丈夫そうか? 両隣の席官が抜ければ、事実上隊の業務を仕切るのは君になるだろう」
「そうかもしれません。でもひよ里ちゃんもいますし、浦原隊長も『技術開発局』の方が落ち着けば隊の仕事に戻ってきますよ。あちらが形になるまでは隊のことは任せてくださいって啖呵を切ったのは私ですし」
「水月が? 珍しいな。部下の先頭に立つのも残業も苦手だってあれほど言っていたのに」
「残業が嫌なのは私に限ったことじゃないのでは……」

 浮竹隊長が言う通り、技術開発局が本格的に始動するまで十二番隊としての隊務の指揮は私を中心に回ることになっている。
 浦原隊長とひよ里ちゃんは開発局の設立と運営で会議に呼び出されたり根回しをしたり人を引き取ったりと忙しいので、自分でそう進言したのだ。
 浦原隊長はほんの少し意外そうな顔をしていたけれど、すぐに笑顔になって「お願いします」と頭を下げてくれた。ひよ里ちゃんには心底心配そうな顔をされたが、少なくとも彼女が心配するような事態は起きないだろう。

 大体、隊務と言ってもいつもの書類仕事に少し形式的な上司の役割が加わるだけで、実際に仕事を動かすのは隊長や副隊長の許可だから、私のやることはそんなに変わっていない。
 藤さんとあきさんが抜けた穴は大きいけれど、きっと開発局が始動すれば人事も少なからず動くはずだ。私はその空白を凌ぐだけの代役なのである。


「隊長が変わって、隊が変わって……隊士もほとんど入れ替えて、完全に浦原隊になってきたな」
「そうですね。寂しいですけど、でも隊長が変わるってそういうものじゃないですか? 変わったの初めてだから、よくわからないですけど…」
「そう思えるのはきっと水月が強いからだよ」

 ぱちり、と瞬きをして浮竹隊長の言葉を噛みしめた。強い。なるほど、そういう捉え方もあるのか。

「そう言っていただけたのは初めてです。私、皆の言う通り冷たい人間なんだろうなって思っていたので」
「…水月、それは――」

 浮竹隊長の言葉を遮るように、人混みの間を縫ってやってきた隊士が備品の運搬が終わったことを報告してくる。
 それまで三人で分担していた業務が統括されて忙しいのは事実なので、半身を引きながら浮竹隊長に頭を下げた。

「すいません、次の仕事があるので…」
「………ああ。頑張れよ、水月四席」
「はい。浮竹隊長もご自愛くださいね」

 浮竹隊長は優しいお人だ。
 他隊の四席も気にかけてくれるほど懐が広い。私も斯く在りたいと、恐れ多くも尊敬している。


* *


「水月四席、この機材はどこに?」
「ああ、ええと…それはまだ広げられないので、空き部屋に仕舞っておいてください」
「三番隊から書類が届いてますー! 水月四席、すぐに返事が欲しいとのことですー!」
「わかりました、今行きます!」
「四席ー!」
「はーい!」


* * *


 隊舎に運び込まれた備品と機材をどうにか押し込んで仕舞いながら、都度回ってくる仕事と書類を捌いていたら、気付けば夕方だ。
 予定していた通り十八時ちょうどに隊士を上がらせて、忙しくて開けず仕舞いだった手帳を開く。
 太陽はとうに傾いている。橙色の夕陽に照らし合わせながら、薄暗く温度の高い室内で今日の業務内容を書き記していった。
 前日に書いていた予定表と照らし合わせながら、明日の分のページに大まかな仕事を優先順序をつけて並べる。時間のある時に記入を済ませて、明日は終わった仕事には斜線を引いて消していくことにする。

 そう心に決めて、出入口を振り返った私と正面から向かい合う人影があった。逆光になっていて顔はよく見えなかったが、決して短くない付き合いの長さからそれが誰であるかはすぐにわかった。

「あきさん」

 あきさんと藤さんは私達よりも先に仕事を終えて、明日からの新しい隊での仕事に備えて色々手続きをしていたはずだ。
 そのまま送別会の会場として予約していたお店に向かったと思っていたけれど、彼女は十二番隊舎に寄ってくれたらしい。

 手帳をぱたりと閉じて戸に手を添えたまま動かないあきさんに歩み寄ると、彼女は俯かせていた顔を上げて私をしっかりと見据えた。
 少し赤くなっているように見える眦を見た途端、体を巡っていた血が全て凍り付いてしまったかのような錯覚に陥った。

「あ……きさん、どうしたの、泣いてるんですか?」

 あきさんが静かに私の両手を握った。夕陽に照らされた白い肌が、橙色の光を受けてぼんやりと発光しているように見える。
 別れを惜しむように、そのまま抱き寄せられた。背の高いあきさんの肩口に顔を埋めながら、彼女が愛用している柔らかい香水の香りを肺いっぱいに吸い込んだ。

「ごめんなさい、貴方を置き去りにすることになってしまって」

 震える声で、彼女はそんなことを口にした。
 私は困り果ててしまって、「どうして謝るんですか」とあきさんの顔を見上げる。

「ちょっと仕事場が遠くなるだけで、今生の別れじゃないんですから。また一緒にご飯行きましょうよ、ね」
「………」
「あきさん、どうしちゃったんですか? 本当にいなくなっちゃうみたい」

 心配するような声音のくせに淡々と吐き出される私の白々しい言葉とは対照的に、あきさんは言葉に迷っているようだ。
 あきさんはしばし無言で私を抱きしめたまま夕陽を背に受けていた。元来の冷え性で全身がひんやりとしている私と温かいあきさんの体温は混ざり合うことなく、ただお互いの温度の境に干渉せず漂っている。

「乙子」
「はい?」


「――私のこと、忘れないでね」


 それは呪いの言葉だった。
 決して果たせない約束を取り付ける、優しくて悲しい呪い。
 あきさんの背中に添えようと持ち上げていた両手が、命令回路が切れたように止まって動かなくなる。
 長い時間を一緒に過ごした同僚の――時には戦いを共にした仲間のそんなささやかな願いにも、私は応えてあげられない。



 すべてを承知しているあきさんは、間もなく「ごめんね、嘘よ」と笑って私を解放した。
 私は固まったまま、顔だけで慣れた微笑みを形作って「嘘かぁ」と呟いた。
 夕陽を背にしたあきさんの微笑みは溶ける寸前の蝋燭の灯りのように頼りない。対するように、私の笑みは宙を漂う煙のように温度がない。


 忘れないで、か。

 忘却は悪ではない、と、思う。
 そう思う気持ちに嘘偽りはない。

 ない、けれど。
 こういう時、私はどういう顔をして何と言えば良いのか――昔はどうしていたのか、もう思い出せない。それすらも忘れてしまったのかもしれない。
 静かに、けれど足早に去っていったあきさんの背中が見えなくなるまで見送って、大きく息を吐いた。

 置いていかないで、と言えない自分も。
 忘れたくないとすらも思えない自分も。
 この時ばかりはどうにかなってしまえ、と暗がりに立ち尽くす愚鈍な死神わたしを呪った。


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