落ちた先はしあわせのくに

 病院へ形だけのリハビリへ向かった帰り道、クラスメイトと道で鉢合った。
 石田雨竜。あまり喋ったことはない。本人もあまり饒舌な質ではなかったような気がする。敷島睦月の元々の知り合いでもなかったはずだ。
 端麗な顔つきだけどどこか神経質そうな雰囲気を伴った眼鏡のクラスメイト。それがわたしにとっての石田雨竜だった。

 鞄を片手に首を傾げたわたしを見て、石田はほんの僅かだけ目を丸くした。顔見知りがここを通るのがまったくの計算外だったとでも言う風な表情を浮かべ、わたしに向かい合う。

「敷島さん、どうしてこんなところに?」
「病院へリハビリに行った帰りなの」

 端的に済んだ予定を話すと、石田はなるほど、と小さく納得の息を吐き出した。
 病院の医者どもはまだわたしに事故の影響による不具合があると思っているらしく、両親の希望もあってリハビリやカウンセリングに関しては殊更慎重な態度だ。
 わたしはもう何ともないと言っているのだけど、やっぱり目が覚めてから一度見せた地のわたしがいけなかったようでいまいち信じてもらえないのだ。
 まあ一週間のうちの一日、しかも放課後の数十分を使われたところで他にやりたいことがあるわけでもないので、両親がそれで満足するのなら…と大人しく病院に顔を出しているというわけだ。

「石田くんこそ、どうしたの? お家、この辺なの?」

 睦月の仮面を被り、微笑みを添えることを忘れずに社交辞令として問いかける。
 石田はわたしの様子を見て少し逡巡し、やがて道の先を指さした。
 質問には答えないが道はあけてくれるようだった。

「悪いことは言わない、はやく帰ったほうがいいよ」
「急にどうしたの、石田くん」

 石田はしきりに空を気にしているようだった。
 わたしもそれに倣って青い空を見上げてみたけれど、特におかしなものは見えなかった。
 するとぼんやり空を眺めるわたしに痺れを切らしたのか、石田が急かすようにこちらへ一歩踏み出してくる。

「君みたいな何も知らない人を巻き込むのは本意じゃない。はやく行ってくれ」

 難しい口ぶりをして、今度は身振りに言葉も付け加えてわたしを急かす。
 妙だな、と思いもしたけれど、別にここで空を眺めていたい理由もない。わたしが頷いて歩き出すと、すれ違いざま石田はようやく表情をほんの少し緩めた。鬼気迫る表情が無表情に戻った些細な変化ではあったけれど。
 特に気には留めず、言われた通りに帰路を進む。

 ――直後に背後から聞こえてきた化け物どもの咆哮の合唱に耳を傾けながら、至って平穏な気持ちで家へと向かった。
 今日もわたしの日常は、面白可笑しく常識からずれている。



02 - 不倶戴天



 もちろん、空に謎の割れ目が出来ていたことも、その向こう側が蠢く真っ暗闇だったことも、町中に虚――例の化け物――がわんさか出現し始めていることもわかっていたし見えていた。
 けれどそれすらも最早わたしの日常の一部だ。
 流石にこんないっぺんに、そして唐突にああいうモノが湧いて出てくると少しくらいは異変を感じるが、それでもわたしにとっては「今日は散歩中の犬と遭遇する確率が高いなぁ」程度のものだった。

 こうも喧しくあちこちで叫ばれては鬱陶しいけれど、虚の掃討は基本的に黒崎に任せろと本人と朽木に念を押されているから振り返りもしない。
 あの日黒崎に語った通り得物を持った黒崎が戦うのが一番効率がいいと今も思っているわけだし、わたしがリアクションしたって仕方がない。
 そういうわけで、さっき石田に言われた通り、ただ家に帰る為だけに淡々と歩いている。


 ――その道すがら、とあるファミレスの前で足が止まった。

 視界には山盛りの苺の写真。『ストロベリーフェスティバル開催!!』と書かれたポスターには、苺の乗ったデザート達がでかでかとプリントされている。
 別に苺がめちゃくちゃ好きとかいうわけではなかった。ただ、苺を見た途端、同じ"イチゴ"である黒崎が脳内に浮かんで……音の響きの割に似合わない二つの並びを想像して面白くなっただけだ。

 ポスターが一定間隔で貼られたガラス窓の向こう側には平日でもそれなりの客がいるのが見える。
 このフェアの効果なのか、普段からそこそこ人が来る店なのか、とにかく少なからず興味を惹かれた。
 黒崎は苺、好きなんだろうか。

「今度オススメしてやるかな……」

 誰にでもなくそう呟きポスターから視線を逸らした瞬間、窓ガラスに何か白いものが映り込んでいるのが見えた。

 初めはそれを意識して見ようとしていなかったので「背後に何か白いものがあるんだなぁ」と面白味のない感想を抱いたが、そのあまりの"異質な白さ"に脳がそれを否定し、眼球にそれをよく観察しろと命令を下す。
 太陽の光の反射や人の行き交う影で束の間不明瞭だったけれど、数秒で焦点が白いナニかに合う。


 ガラスに映り込んでいた白は、初めて見る――だけれどもどこか既視感のある白い仮面の化け物だと、すぐに理解した。


 ――ふふふふふ
 ――ふふふふうふ、アハハ……


 気味の悪い罅割れた笑い声が鼓膜を震わせる。
 蜘蛛のように背後の建物にへばりついている化け物を振り返ろうとした瞬間、ほんの一メートルほどの距離があった目の前の窓ガラスがガチガチと音を立てて震え出す。
 その尋常じゃない震え方に再びそちらを振り返る間はなく、時間にして一秒と経たずに目の前のものを含めたすべての窓ガラスが派手な音を立て文字通り"弾け飛んだ"。

 ガシャン、という予想していた音はさほど聞こえない。
 飛び散ったガラスのほとんどが、わたしや他の道往く通行人に向かって飛んだからだった。
 もう少しで十六時になろうかという時間帯でそれなりに人も多かった。
 まさか突然こんな事態に見舞われるとは露ほども思っていなかった人々が、標的も選ばず飛び散ったガラスに襲われ悲鳴を上げている。
 わたしもその例に漏れず、咄嗟に顔を両腕で守ったものの、足や腕にはガラスを受けた。
 鋭利な断面で細かくつけられた傷から一拍遅れて血が溢れ始める。肌を伝う血の感触があまりに多く、それが尚のこと不愉快だった。比較的無事な右手の甲で首筋の血を乱雑に拭う。
 そして腕に突き刺さったままのガラス片を引き抜くと、軽く頭を振って細かいガラスを振り払った。

 その場で呑気に体の状態を確認しているのはわたしだけだった。
 爆発事故でも起こったような惨状に、突然破裂した窓ガラスしか見えていないらしい普通の人々は意味もなく悲鳴を上げ逃げ回っている。
 ファミレスの中もそれは同じことで、ガラスを受け怪我をした人や店内にいたものの運よく被害を免れた人々が我先にと店から出て、より安全な場所を求めて走っていく。

 その背中を視線で追う途中、見知らぬ誰かがズタボロの紙切れを踏みつけて走っていくのが見えた。
 沢山の人に踏まれてそれはところどころ黒く汚れていたけれど、かろうじて文字だけは読める。何より、文字以上に目立つ赤色の写真は見間違えるはずもない。ついさっきまで、わたしはこれを見ていたんだから。

 ……ポスターの残骸。
 思わず落胆の溜め息が洩れる。

「あーあ……」

 逃げる人の波に逆らって、窓ガラスが爆発したファミレスに近寄っていく。地面に広がったガラスの海から、適当に掴めそうなものを一つ拾い上げた。
 握った瞬間手のひらが切れたけど、すでに全身あちこちが痛いのでそこまで気にならなかった。

 前髪の隙間から目だけで空を睨み上げると、いまだ同じ建物にしがみついている白い仮面の化け物はわたしを見下ろしニヤニヤ汚らしい笑みを浮かべていた。
 
 アレは虚とか言うんだっけ。どうでもいいけど不愉快だ。腑が煮えくり返る。
 何かあれば呼べと言っていた黒崎の親切も朽木の言いつけも、今はどうにも守れそうにない。
 今どこにいるかもわからない黒崎を呼びに行ったなら、絶対にアレを取り逃がしてしまうし。

「――おい、おまえ。どうしてくれるんだ」

 ガラス片の鋒をニヤつく化け物に向けて掲げ、低く唸る。

「こんな状態じゃ、ストロベリーフェスティバルどころじゃなくなっちまうだろ」

 そう啖呵を切って走り出す。
 逃げ場を求めて惑う人混みにぶつかるようにしながら、人のいない方へ、誰にも見られない場所へ。
 日常の息遣いのしなくなる方へ、駆け出した。


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