僕の知らない君の顔





目の前でポトリ、と。 ショルダーバッグから何かを取り出した際に、モノが落ちるのが見えたツムルは、咄嗟にそれを拾いあげた。

落とし主である女性はまだ、目の前を歩いている。 声をかける以外に選択肢などなかった彼は、そのまま。 小走りで駆け寄り、トントンと。 その細い肩を叩いた。

「あの、これ! 落としましたよ?」
「えっ、?」

くるりと振り返った女性の顔には、ピンクベージュのマスク。 さらに目元は大きなレンズのメガネで覆われていて、素顔がほとんど隠されていた。

しかし、メガネの隙間からチラリと見えた大きな瞳には、ハッキリと見覚えがある、と。 ツムルの思考回路は、完全に停止。 ピタリと一切の動きを止めて、そのまま。 彼は目の前の女性を見つめ続けた。

「……………」
「っ、ありがとうございますっ!! この "お守り" …っ、本当に大切なモノで…っ」
「……………」
「何かお礼をさせてください…! どうしよう、何がいいかな… あっ、そうだ…! もし時間が許すようでしたら、すぐ近くに私の "事務所" があるので、そちらでお礼を…」

拾ったモノがよほど大切なモノだったのか。 ペコペコと何度もお辞儀を繰り返す、女性。 律儀にもお礼をしたいと、感謝の気持ちを露わにする彼女だったが…

ツムルの胸中は、今。 それどころではなかった。

彼は目の前の女性から、ひと時も目が離せずにいた。 先程、ほんの一瞬だけ見えた、綺麗に澄んだ大きな瞳。 必死にお礼を伝えてくる、可愛らしい鈴のような声。

それはいつもいつも、毎日のように。 テレビやス魔ホ越しに見ては聞いてを繰り返している、大好きで大好きで堪らない "あの子" のものと。 どうしても、重なってしまって。

「あ…っ、す、すみませんっ、私ったら…! ひとりで勝手に話を進めちゃって……」
「………」
「…? あ、あの、どうかされました−−」
「君、もしかして… "ナマエちゃん" …?」
「っ、ッ!?!?」

"ナマエちゃん" 。 ツムルが呼んだその名前に、目の前の女性はビクッと反応を示す。 明らかに驚いているその様子を見て "あぁ、やっぱりな" と。どこか他人事のように、ツムルは確信した。

「す、すみません…っ、場所を移しても… よろしいでしょうか…?」
「っ、え? あっ、うん…」

コソッと周りに聞こえないよう、小さな声で。 ツムルの耳元に唇を寄せて囁く彼女。 その瞬間、ふわっと香るのは甘いイチゴのようなシャンプーの香り。

好きな食べ物は "イチゴ" 。 以前テレビや雑誌でも、そう語っていた "ナマエちゃん" を思い浮かべながら。 ツムルは前を歩く彼女のあとを、ふわふわとした心地でついて歩いた。




「改めまして… 大切な "お守り" を拾ってくださり、本当にありがとうございました…!!」
「この度はうちの "ナマエ" が大変お世話になったようで… 本当にありがとうございます」
「いっ、いやいや、そんな…! 俺はただ目の前で落ちたモノを拾っただけですから…!」

所変わって。 ふたりがやって来たのは、街中にそびえ立つ高層ビルの、ひと部屋。 先程、女性が言っていた "事務所" へと場所を移した、ツムルたち。

改めて深々と頭を下げながら感謝の言葉を口にする、目の前の彼女−− ナマエ。 そんな彼女に続き、マネージャーだという女性も、ピシッと。 腰を90度曲げて感謝の言葉を口にした。

これほどまでに感謝されるとは、思いも寄らず。 タジタジになる、ツムル。 現在、メガネもマスクも外した彼女の素顔は、何度も何度も画面越しに見ていた "ナマエちゃん" そのもので。 彼は分かりやすく、緊張した様子を見せる。

大好きな彼女からの感謝の言葉に、どうしたって浮つく心。 返事をする声は裏返り、心臓はずっとドキドキと鼓動を刻んでいる。 しかしそんな情けない姿ばかり見せていられないと、彼は何とか平静を装い、彼女に話題を投げかけた。

「そ、それにしても… まさか本当に "アクドルのナマエちゃん" だったなんて……」
「認識阻害の眼鏡をかけている時に気づかれたのは初めてで、ビックリしちゃいました… えへへ」
「っ、…!!」

ナマエがデビューしてすぐの頃から、ずっと。 いちファンとして、彼女を見守って来たツムル。

本当にナマエのことが、大好きで大好きで。 出演しているテレビ番組やプロモーションビデオを何度も何度も繰り返し見ているのはもちろんのこと。 ライブやコンサートもチケットを手に入れるのに苦労しながらも、何度も足を運んでいる… そんな熱狂的と言っていいほどのファンである彼の目の前に、今。

少し照れくさそうに頬を染めて笑う、ナマエがいる。

まるで夢のような光景に、バクバクと高揚する胸。 精神医学を専門とする彼でさえ、自身の心を落ち着けるのにひと苦労。 落ち着け、落ち着け、と。 何度も頭の中で繰り返す。

そんなツムルには、どうしても。 今この場で、彼女に伝えたいことがあった。 それは…

「実は、俺…っ、ナマエちゃんの大ファンで…っ」
「…! そうだったんですか…!? わぁあ…っ! すっごく嬉しいです! ありがとうございます!!」
「っ、ッ〜〜!!」

『…いやいやいや。 本物のナマエちゃん、可愛すぎでは…!?!?』 そんな言葉が、ツムルの脳内で再生される。

心の底から喜んでくれていると分かる、キラキラと眩しい笑顔。 決してファンサービスなどではない本物の笑顔に、ツムルはこれでもかと胸を熱くする。

「ち、ちなみに… ファンレターとか、かなり送ってる方だと思うんだけど… そういうのって読んでくれてたり…」
「! もちろんです…!! ファンの方からいただいたモノは全て! 私の大切な宝物です…!!」
「…っ、!! ( い、良い子すぎる…っ!!! )」

それはまさに、アクドルとして100点満点の回答。 ファンを悲しませないためのリップサービス。 表面上、そのように答えるようにと、事務所から指示があるのかもしれない。 しかし…

ツムルは、そうとは思えなかった。 ひとの感情の機微には人一倍、気がつく自信がある彼。 ナマエの言葉には、嘘偽りなど感じない。 自然と口から出ているのが分かる、その仕草や言動に、ツムルが心打たれないわけがなかった。

「実は、先程拾っていただいたこの "お守り" も… ファンの方からいただいた私の大切な宝物で…」
「…そ、そうなんだ?」

"大切な宝物" 。 まさにその言葉通り。 ギュッと、キツく握りしめらながら、お守りを胸に抱くナマエ。

そのお守りが彼女にとって "特別なモノ" であることは、誰の目から見ても明らかで。

別に彼女の恋人でも何でもないくせに、一丁前に嫉妬してしまう自分が恥ずかしい、と。 ツムルは心の中で自身の感情を必死に押し殺す。 身に余る感情であることなど、頭では分かっている。 けれど、ツムルの胸にはチクリチクリと、小さな痛みが走っていた。

もちろん、そんなツムルの心情など知らないナマエは、ポツリポツリとそのまま。 話を続けようと口を開く。

「私がまだ駆け出しの頃… すっごく落ち込むことがあって、アクドルを辞めようかって悩んでたことがあったんですけど…」
「…!」
「そんな時にいただいたのが… この "手紙" なんです」
「手紙…?」

まさかナマエがアクドルを辞めようとしていた時期があったなんて、と。 ツムルは驚きを隠せなかった。 そして話の流れから察するに、そんな彼女を支えたと思われる "手紙" の存在。

彼女は、巾着になっているお守りの中から、小さく折りたたまれた "1枚の紙" を取り出した。

「この手紙には、ただひたすらに "私の好きなところ" が延々と書き連ねてありました。 "マイクを持つ時、小指が少し立ってるところ" 、 "生放送だと少し声が震えるところ" … そんなほんの些細なところでも、好きだって思ってくれているひとがいるんだって思うと、すっごく勇気が湧いて来て… 何だか悩んでるのが馬鹿らしくなっちゃったんです!」
「………」
「っ、んんっ…! ナマエ? すこ〜し、おしゃべりが過ぎるんじゃないかしら?」

手紙に書かれていた内容を口にするナマエの声や表情は、とても愛らしく、それでいて酷く穏やかで。 その手紙を本当に大切にしてきたということが、ひしひしと伝わってくる。

それはまさに "恋する乙女" のように。 まだ見ぬ "手紙の送り主" への恋慕の情が、チラリと顔を覗かせていた。

ナマエのファンであるツムルの前で、話すような内容ではない、と。 マネージャーは "んんっ!" と、ひとつ咳払い。 アクドルとして、特定のファンへの好意を見せることは御法度。

すぐに話を止めるよう、釘を刺すマネージャーだったが…

「( "マイクの小指" … "生放送の震え声" … )」

ツムルの脳内では、先程のナマエの言葉が何度も繰り返されていた。 その手紙の内容には、聞き覚えがある… というよりも。 彼には、"身に覚え" があった。

「この手紙のおかげで、今の私があるんです。 だからいつも肌身離さず、お守り代わりに…」
「ちょ、ちょっとナマエ…? もうそれくらいに−−」
「その手紙にさ… "笑った顔が他のどのアクドルよりも可愛い" って書いてなかった?」
「「えっ、?」」

よほど大切なモノなのだろう。 まだまだ語り足りない、と。 マネージャーの制止の声も虚しく、ナマエは昂る感情を抑えられず、話を続ける。

そんな彼女に、再度待ったをかけるマネージャー。 しかしその言葉を、今度はツムルが遮った。

「あとは… "トークが上手くて面白いところ" 、 "ダンスが少し苦手なところ" 、それから…」
「っ、ちょ、ちょっと待ってください…っ!」

何故、目の前の男性が。 自身の宝物である手紙の内容を知っているのか。 ナマエは理解が追いつかない。 しかし。

「っ、も、もしかして、この手紙の送り主って…っ」
「あ、あはは。 まさか俺のファンレターをお守りにしてくれてたなんて… やばい、めっちゃ嬉しいわ……って、ナマエちゃん…?」

もちろん、その理由はただひとつ。 目の前で照れたように笑う男、ツムルが。 この手紙の "送り主" だった、ということだ。

彼女がお守りだと言った手紙が、まさか自分が書いたものだとは思いもしなかった、ツムル。 あははと照れくさそうに頬をかきながらも、その表情はだらしなく緩んでいる。

思わぬサプライズを受けて、ウキウキと弾む心。 素直に嬉しいと告げるツムルだったが、何故か。 俯き、ぷるぷると震えている、ナマエ。

そんな彼女の反応に、ツムルは疑問符を浮かべる。 一体どうしたのだろう? そんな意味を込めて名前を呼べば、ゆっくりと。 彼女は顔を上げる。 そして…

「っ、わっ、私の連絡先って、お礼に、なりますか…っ?」
「…………………えっ?」

真っ赤に染めた顔で、上目遣い。 そんな彼女からの思いも寄らぬ提案に、ツムルの思考は一時停止。 そしてやっとのこと紡ぎ出した言葉は "えっ?" のたったひと文字で。

未だ状況を理解できていない、ツムル。 そんな彼を不安げに見上げながらも、期待した表情を隠そうともしない、ナマエ。

そんなふたりの様子を見守っていたマネージャーの口からは、ハァ… と、それはそれは大きなため息がひとつ。

それから僅か数十秒後。 自分に置かれている状況を理解したツムルの喜びに満ちた叫び声が、事務所を揺らすのだった。



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