第5話「酒は飲んでも呑まれるな」



「( 結局ダリ先生、帰ってこなかったなぁ… )」

マルバスたちとの楽しい夕食の時間はあっという間に過ぎて行き、食後の片付けも終えたナマエは、食堂のテーブルの一席に座り込んでいた。 まだ明日の仕込みが残っているのだが、どうにも重い腰が上がらない。 ぐるぐると頭の中で考えるのは、もちろんダリのこと。 "飲み会に行った" その事実が、ナマエの心にズキッと突き刺さる。

教師統括という立場上、誘われたら断れないだろうということは、容易に想像できた。 他の教師たちとのコミュニケーションを大事にしている彼だからこそ、それは仕方のないことだと頭では理解している。 だけど、この気持ちは理屈だけではどうにも抑えきれなくて。 ナマエは、このモヤモヤとした気持ちをどこにぶつければ良いのか分からず、ひとり悶々と悩んでいた。

「( 恋人でも無いのにこんなこと考えるなんて、私… どれだけ欲張りなんだろう… だけど、あんなに私のこと好きだって、言ってくれてたから… 今日は早く帰ってきてくれるって、そう思ってたのに、って、あれ…? ちょっと待って… )」

頭の中で自分の気持ちを整理していたナマエだったが、そこではたとあることに気づく。

私一度も… "好き" って、言われてない…

その事実に気がついた、その瞬間。 ナマエの胸はギュッと痛いくらいに締め付けられた。 好意を持ってくれているのは分かる。 けれど今思えば、ダリはしっかりと "予防線" を張っていたのだ。

「( やっぱり、本気じゃ、ないのかな… )」

一度思い込んでしまったら、最後。 中々抜け出せない負の連鎖がナマエを縛り付ける。 決して核心には触れないダリの態度は、今のナマエにとって、一線を越えないように意識しているとしか思えなかった。

そして事実、ダリはそれを意識していた。 一見ヘラヘラと軽い印象のダリだが、そのあたりの線引きはきちんとしている。 ナマエに悪い印象が向かないよう、 "ダリがナマエを口説いている" という構図を "わざと" 皆に見せつけていたのだ。 だがそれは、純粋素直であるナマエにとっては、逆効果。 ダリの遠回しな優しさは、ナマエを悩ませる原因となっている。 そして何より、ダリは "ある重大なこと" を見落としていた。 それは…

「( こんなに好きになっちゃったんだもん… 諦めるなんて、出来るわけない…っ )」

すでにナマエは、ダリにゾッコンだということである。 ダリは、ゆっくりじっくり、ナマエを落とすつもりでいた。 元より軽いと思われているだろうことは分かっていたし、それならばゆっくり時間をかけて、自分に惚れさせてやろうと、そう思っていたのだ。 だが実際はすでに、ナマエはダリに惚れ込んでいる。 お互いに "自分はそれほど好かれていない" と思い込んでいることが、今の状況を作り出す原因となっていた。

「…うだうだ悩んでても、仕方ないよね。 …よしっ! とりあえず今は、明日の仕込みを頑張ろう!」

これ以上、悩んでいても答えなど出やしない。 そう結論づけて、ナマエは重い腰を上げた。 明日の朝食はきっとダリも食べに来てくれるはず。 そう信じて腕捲りをし、気合を入れ直した。 …その時だった。

「ナマエさぁ〜〜ん!!」
「えっ…?」

突然自身の名を呼ばれ、ナマエはピタリと動きを止める。 ようやく重い腰を上げたというのに、耳に届いたその声にナマエは動揺を隠せなかった。 聞き間違えるはずがない。 だって、今の声は…

「ダリ先生っ! と、イフリート先生…?」
「…ごめんね、ナマエさん。 ダリ先生、ナマエさんに会いに食堂に行くって聞かなくて…」
「イフリート先生!! それじゃあまるで、僕がワガママ言ってるみたいじゃないですかぁ!」
「いや、言ってるんですよ実際」

ナマエが振り返った先。 食堂の入り口にはナマエの予想通り、ダリの姿があった。 しかし彼は何故かイフリートに支えられていて、ナマエは戸惑いを隠せない。 ダリの身に何かあったのかと不安になったが、ふたりのやり取りを見て、ナマエはすぐに理解した。 …彼は "酔っている" のだと。

「ナマエさん、僕はオトンジャさんを呼んでくるので… それまでダリ先生のこと、お願いしてもいいですか?」
「えっ? で、でも…」

正直なところ、今はダリと2人きりになるのは避けたい、というのがナマエの本音だった。 どうにか断れないかと策を練るけれど、すぐに良い案など浮かぶはずもない。 そうして悩んでいるうちに、イフリートはだらしなく酔っ払っているダリを食堂の椅子に座らせてしまう。

「見ての通り、このひと酔っ払ってるんですよ。 ダリ先生の部屋、別館だから僕じゃ入れないし、それに…」

ナマエが渋っているのを何となく察していたイフリートだったが、彼にはナマエに頼み込まなければならない充分な理由があった。 それは…

「さっきから "ナマエさんナマエさん" って、うるさいんですよ…!」
「ナマエさん…! あぁ、久しぶりのナマエさんだ…」
「…っ!」
「……ね?」

すぐ隣にいるナマエを見て、へにゃりと笑うダリ。 そんな彼の表情に、ナマエの胸は無意識のうちにドキッと反応してしまう。 心を渦巻く複雑な感情が消えることはないけれど、ダリを目の前にするとどうしても。 嬉しさが勝ってしまって… ナマエは、その首を縦に振ってしまった。

「…分かりました。 ここでダリ先生と待っています」
「ありがとう…! 助かるよ!」

『仕事中なのに邪魔してごめんね。 すぐに戻りますから』 そう言うと、イフリートは急いでオトンジャのいる管理人室へと向かっていった。 食堂には、ダリとナマエのふたりきり。 気まずさはあるものの、ボケッとしていても仕方ないと、ナマエはキッチンへと移動する。 冷蔵庫から水を取り出しコップに注ぐと、酔っ払っているダリの元へとすぐに戻った。

「ダリ先生、お水です。 飲めますか…?」
「おぉ、ありがとうございます! あぁ、やっぱり… ナマエさんは気が利くなぁ」
「……そんなこと、ないです」

ニコニコと笑みを浮かべながら、ナマエを褒めちぎるダリ。 酔っ払っているからか、ナマエにはいつにも増してヘラヘラとしているようにしか見えなかった。

水を手渡したその後も、口を開けば 『可愛い』『こっち見て』 と、好意を包み隠さず伝えてくる彼に、何とも言い難い感情がナマエの心の中を埋めていく。 好きな人に褒められチヤホヤされて、嬉しく思わない訳がない。 だけどその一方、言葉にできないこの感情はモヤモヤと広がるばかりだ。 素直に喜ぶことが出来ず、歯切れの悪い言葉を返すことしか出来ないナマエ。 そんな彼女の異変に、普段のダリならば気がついただろう。 だが、いかんせん。 今の彼は、酔っ払い。 全ての言動が、ダリの "軽さ" を助長させていた。

「ほんとナマエさんといると癒されるなぁ〜! やっと仕事も落ち着いたので、明日からはまた食堂ここで食事を…」
「っ、」

『明日からはまた食堂ここで食事を』
ダリが無意識に口にしたその言葉は、ナマエの心をぐらぐらと揺さぶった。

"ダリ先生にとって、食堂での時間は… 取るに足らないものなのかな…"

普段ならあり得ないような後ろ向きな考えが、ナマエの頭の中を支配する。 もちろんダリに、悪気など一切ない。 むしろ、やっとナマエの手料理を食べられると内心喜びに溢れていたのだが、タイミングが悪かった。 今の情緒不安定なナマエにとって、ダリのこの発言は感情を爆発させる着火剤でしかなかったのだ。

「っ、ダリ、せんせいの、ばかぁ…っ!」
「へっ? ………って、ええええっ!? ナマエさんっ、なっ、泣いて…っ!?」

突然泣き出したナマエに、ギョッとして焦りの声を上げるダリ。 ナマエの瞳からはポロポロと大粒の涙が溢れ出し、次々に零れ落ちていく。 初めて見るナマエの涙する姿に、ダリはオロオロと焦り戸惑うことしか出来なかった。

「っ、ダリ先生が、食堂ここに来なくなって…っ、ちゃんとご飯、食べてるのかなぁって、すごく、心配していたんです…っ」
「! そっ、そうだったんですね…! すみませんっ、ご心配をおかけして…!」
「…っ、それに、毎日しつこいくらいに構ってくるのに、突然会えなくなって… それが…っ さ、寂しくて…っ」
「えっ…?」

辿々しくも、自身の気持ちを一生懸命に伝えようとするナマエ。 そんな彼女の言葉を一言一句聞き逃さないように、ダリは酔った体に鞭を打つ。 素直にナマエの言葉を聞き入れて、心配をかけてしまったことを詫びれば、返ってきたのは『寂しかった』という言葉。 あまりに予想外な言葉にダリの思考は一時、停止する。 しかし、その言葉の意味を理解するにつれて、ダリの胸の鼓動はドキドキと速度を上げていった。

「っ、それなのにダリ先生はっ! 今日は帰ってくるって、思ってたのに…っ、飲みに、行っちゃうし…っ、今も久しぶりに会えたと思ったらっ、めちゃくちゃ酔っ払ってるし…っ!」
「っ、あ、あの、ナマエさん…! ここは一旦落ち着いてから、話を…」
「…可愛いとか、癒される、とか…っ、そんなんじゃなくて…っ、私のこと、ちゃんと… "好き" って、言って欲しいのに…っ」
「っ、なっ…ッ!?」

怒涛の展開に、ダリの頭は追い付けず、グチャグチャにこんがらがっている状態だ。 そこへ来て、今のナマエの言葉である。

"ちゃんと… "好き" って、言って欲しいのに…っ"

「( …………………マジか )」

ダリはその言葉のあまりの破壊力に、暫し呆然とする。 まさかこのような展開になるなんて、誰が予想できただろうか? …本当に、ここは一度、冷静になろう。 しっかりと、お互いの気持ちを話し合わなければ。 胸に熱いものが込み上げてくるのを必死に抑えて、ダリはふぅと一度、深く息を吐き出した。



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