第30話「ビター or スイート」



とある休日のバビルス教師寮。 時刻は早朝5時。 食堂へと続く廊下には、何とも軽快な足音が響いていた。

「( あぁ、やっとナマエさんとふたりきりになれる…! )」

その足音の正体は、もちろんこの男。 ダンタリオン・ダリ。 食堂に居るであろうナマエの顔を思い浮かべ頬を緩ませるその姿は、普段の彼からはまるで想像出来ないほど、だらしない表情をしていた。

悪魔学校バビルス教師統括である彼の平日は、それはそれは超絶に忙しい。 毎日大量に届く問題が発生したとの報告書。 教職員たちからの相談事や、校内行事の準備、企画、その他諸々… それに加え、自分が受け持つ授業もしっかりとこなす彼はまさに、念子の手も借りたいほど多忙な男だった。

そういうわけで、ここ最近。 恋人であるナマエとのふたりきりの時間を十分に過ごせていなかったダリ。 食事の時以外、彼女と話すことさえ出来ていなかった彼は今日という日をずっと心待ちにしていたのだ。

食堂までの距離がもどかしく、自然と速くなる歩調。 ナマエがすでに朝食の準備を始めているからか、廊下にはお腹を刺激する美味しそうな匂いも漂い始めていて、それがさらにダリの頬を緩ませる。

そしてついにやっとのこと辿り着いた食堂の入り口。 そこをくぐり抜けた、その直後。 彼はうきうきと喜びを抑えきれない笑顔で、大きく口を開く。

「ナマエさん、おはようございます!! 今日の朝食も美味しそうな匂いがしてますね〜!」
「………」
「? ナマエさん?」

普段通り、いや、普段以上に明るく元気に挨拶をするダリ。 さらりとひと言褒め言葉を付け加えるのは、もはや日課となっているのだが、それはさておき。

キッチンカウンターの向こう側。 何故かダリに背を向けたまま、うんともすんとも言わないナマエ。 いつもなら息をするように褒めちぎってくるダリの言葉に、照れながらも嬉しそうに微笑み、挨拶を返してくれるはずなのにと、ダリは不思議そうに首を傾げる。

「どうしたんです…? あっ! もしかして久しぶりだから照れて…」
「…ま、しないで」
「えっ、?」
「…邪魔しないでって言ってるの。 今、集中してるんだから」
「っ、ッ!?!?!?」

揶揄うように声を掛けるダリだったが、くるりと振り返ったナマエの表情や言葉に、思わず言葉を失う。

待ちに待った、休日のふたりだけのこの時間。 まさかのまさか。 心躍らせるダリを待っていたのは、いつもとはまるで様子の違う、氷のような冷たいオーラを纏うナマエで。

驚き固まるダリのことなど構うことなく、ナマエはまたしても背を向けて朝食作りを再開する。 そんな彼女の姿に、ダリはただただ呆然と立ち尽くすことしか出来ないのであった。




「パンかご飯。 それと、味噌汁かスープ。 どっち?」
「えっ…!? あっ、えっと…っ」

時刻は午前7時。 朝食の時間となり、ぞろぞろと食堂にやって来る教師陣。 その中のひとり、オリアス・オズワール。 彼は今。 目の前でお玉を手に持つナマエの冷然たる態度に、非常に困惑していた。

本日の朝食は、皮がパリッと焼けたぷりぷりのウインナーと、教師陣それぞれの好みの焼き加減で作られた目玉焼き。 半熟なのか固めなのか。 はたまた片面焼きなのか両面焼きなのか。 好みがてんでバラバラの彼らだったが、1番美味しいと思う状態で食べてほしいと心から思うナマエは、その苦労を厭わない。 そんな献身的な彼女の姿にいたく感動したという話もあるが、ひとまずそれは置いておく。

こういったメニューの日は、主食と汁物もその日の気分で選べるように工夫をしているナマエ。 主食は、炊き立てほかほかの白ご飯か、カリッと香ばしいトースト。 汁物は、優しい出汁がふんわりと香る味噌汁か、野菜たっぷり栄養満点のコンソメスープ。

どちらもめちゃくちゃに美味しいことを知っている教師陣。 『大層悩みながらどちらかを選ぶ彼らを、ナマエが優しく微笑みながら見守る』 という構図はもはや、朝の食堂の名物と言っても過言ではない。

そして今日も、いつもと変わらず同じように。 ナマエが優しく問い掛けてきてくれるとばかり思い込んでいたオリアス。 しかし、まさかのまさか。 いつものほんわかとした姿からは想像もつかない、冷たく突き放すかのような雰囲気に、彼は思わず圧倒されてしまったようだ。

「…早くして。 後ろがつかえてるの」
「っ、! すっ、すみません…っ」
「オリアス先生、朝はパン派でしょ? スープの方が絶対に合うと思うけど」
「そっ、それじゃあ、パンとスープでっ」
「了解。 残さず食べないと怒るからね?」
「ッ、ぜ、絶対にっ、残さず食べます…っ!!」
「ん。 いい子」
「っ、ッ〜〜!!!」

それはまさに、お手本となるような飴と鞭だった。 凍えるような冷たい態度を取ったかと思えば、その直後。 『いい子』と褒めてくれるナマエの女神と見紛うほどの微笑みに、オリアスの胸にはズキュンと何かに貫かれるような衝撃が走る。

自身が彼を魅了していることなど、露程も思わないナマエ。 先程の微笑みはどこへやら。 こんがり焼けたトーストとコンソメスープの皿をオリアスのお盆に乗せると、さっさとしろと言わんばかりに 『はい、次。 どっちにする?』 と淡々と自身の仕事をこなしている。

そんなオリアスとナマエのやりとりを、食堂の隅からまじまじと見つめていた男が、4人。 ナマエの華麗なる飴と鞭攻撃を目の当たりにした彼らの顔面は皆、驚くほどに蒼白だった。

「だ、ダリ先生…! アレは一体どういうことなんです!?」
「ナマエさん、別人みたいになってますよ…!!」
「オリアス先生を見てください…! あまりの衝撃にフード被ったまま蹲ってます…!」

あーだこーだと騒ぐのは、毎度毎度おなじみ。 ツムルにマルバス、イフリート。 ナマエのあまりの変わりように、彼らはまさにパニック状態。 さっそくナマエに魅了されてやられてしまったオリアスを見て、彼らは戦々恐々としている様子。

「おそらくだけど… アレがナマエさんの "悪周期" なんじゃないかと…」
「あ、悪周期…っ!?!?」
「アレが…!?!?」

神妙な顔つきで自身の考えを述べるダリ。 "悪周期" 。 その言葉に、ツムルたちは驚きを隠せなかった。

悪魔の悪周期。 それは悪魔の本質である "悪さをしたい" という欲求が大きく膨れ上がる時期を指す言葉である。 にも関わらず…

お玉片手に味噌汁をよそうナマエを見て、ツムルたちは唖然とする。 いつも通り… ではないが、仕事は変わらずきちんとこなしている彼女。 朝食も手を抜いているところなど一切見当たらない。

そんな悪さの "わ" の字も現れていない、本当に悪周期かと疑いたくなるほどの丁寧な仕事ぶりに、ツムルたちは驚く他なかったのだ。

「悪周期になってもこんなに朝早くから真面目に仕事出来るなんて…」
「そんなところもナマエさんらしいというか、何と言うか…」
「いつもはおっとりして可愛いけど… 今日はクールで綺麗だよね。 正直、こういうナマエさんも全然アリ… というかむしろ、超タイプ…」
「…! またイフリート先生は、そんなこと言って…! 本当に懲りないひとですね…!?」

見た目はいつものナマエとなんら変わりはないのだが、纏う雰囲気や言葉遣い、表情… それらが変わるだけで、まるで別人のように見えるのだから、不思議なものである。

そんないつもとは違う凛々しいナマエの姿にも、性懲りも無くデレデレと鼻の下を伸ばすイフリート。 もはやダリが居ようが居まいが関係ないとでもいうかのような態度に、もちろんダリ自身、黙っていられるはずもない。 すかさずイフリートに対し、牽制するような態度を示す彼だったが、その直後。

「ねぇ、あなたたち」
「「「っ、ッ!!!」」」

"あなたたち" 。
ハッキリとそう言った声は、明らかに鋭さを含んでいて… ダリたちは、思わずビクッと体を震わせる。

声のする方向。 キッチンカウンターへとゆっくりと視線を向ければ、苛立ちを隠せない様子で腕を組むナマエの姿が視界に入る。

「今は食事の時間なんだけど。 くだらないことばかり喋っていないで、さっさと食べてくれない?」
「ぐっ、うッ…っ! 見た目はいつものナマエさんなのに…! ここまで冷たくされると結構クるな、コレ…!」
「ナマエさんが…っ! 蔑むような目で、僕を…っ、うぅ…ッ」
「やべぇ……! ダリ先生が壊れた……!!」
「もう朝ごはんどころじゃないって!!」

ビシバシと心をなぶる、ナマエからの冷徹な鞭。 冷ややかに細められた瞳は、彼らの胸をこれでもかと抉る。 あまりのショックに、ダリはいとも簡単に心を折られてしまったようで… 嘆く彼を見たツムルたちは、慌てて彼の背中を優しく撫でつけた。

そんなこんなで食堂は大騒ぎ。 他の者たちもなんだなんだとダリたちの周りに集まってくる始末。 本来なら皆が席に着き、朝食を食べ始めているはずの時間帯なのだが… 皆が皆、そわそわと落ち着きのないこの状況。 ナマエの悪周期の影響は思っていたよりも大きかったようだ。

そんな状況の中。 ただひとり。 我が道を突き進むのが、今回の騒動の元凶であるナマエ。 騒ぐ男性陣を面倒くさそうに見つめていたナマエだったが、突然。 ハッと何かを思い出したような仕草を見せる。 そして…

「ねぇ、ダリ先生」
「っ、ッ… な、なんでしょうか…?」

唐突にダリに話しかけるナマエ。 突然名前を呼ばれたダリは驚いたものの、すぐに返事を返す。

一体何を告げられるのか… ドキドキと激しく鳴るダリの心臓。 彼がごくりと唾を飲み込んだ、その直後。

「今朝は挨拶も碌にしないで、悪かったわ。 …ごめんなさい」
「………えっ?」

まさかのまさか。 ナマエの口から告げられたのは、謝罪の言葉。 ダリ自身、今の今まで忘れていた今朝の出来事を、それはそれは申し訳なさそうに眉を下げながら謝る彼女。 その姿はどこか、いつものナマエと重なるような、そんな気がして。 ダリの胸はほんの少しだけ、落ち着きを取り戻す。

「元気な挨拶をしてくれたのに、自分のことばかりに意識が向いちゃって… 本当にごめんなさい」
「っ、ッ! い、いえ! そんな…! 料理中に話しかけた僕が悪いんですから…!」
「ううん、私が悪いの。 だから…」

ナマエからの思わぬ真摯な謝罪に、戸惑うダリ。 むしろ料理の邪魔をした自分が悪いのだと言い張るダリだったが、ナマエはそれを全否定。

そのまま流れるように、ダリの元へと近づいていく彼女。 近くなる距離に、落ち着いていたはずのダリの胸はまたしてもドキドキと音を鳴らし始める。

そしてついに、ダリの目の前までやって来たナマエ。 自身よりも背の高いダリの瞳を、ナマエは上目遣いでジッと見つめる。 そんな彼女の謎の行動に対し、ダリはタジタジになりながらも疑問を浮かべることしかできなくて。

「っ、? ナマエさん…? どうしたんですか… って、ちょっ、ッ…っ!?!?」
「「「「「っ、ッ!?!?!?」」」」」

どうしたのかとダリが問い掛けた、その次の瞬間。 彼の頬には、ふにっと柔らかい感触。 ふわりと鼻腔をくすぐったのは、いつもナマエから香るのと同じシャンプーの匂い。

ピシリと固まる、ダリの体。 そんな彼と同じくピクリとも動かず言葉を失う、ツムルたち教師陣。

彼らは見てしまった。 ダリの右肩を掴み、つま先立ちで背伸びをしながら、彼の頬にキスをするナマエの姿を。 皆がダリに羨望の眼差しを向ける中、何とか気を持ち直したのは…

「い、いま…っ、き、きき、きす…ッ!!!」
「"ごめんね" のキスなんだけど… これで許してくれるかしら?」
「っ、ッ、〜〜!!!!」

キスをされた張本人である、ダリだった。 しかし、続けてやって来るナマエからの猛攻に為す術もなく、すぐさま撃沈。 悶えるダリを見て満足したのか、『ダリ先生も、残さず食べてね』 そう言ってナマエは、背を向け歩き出す。 そしてそのまま、キッチンへと消えていった。

「こりゃ、とんでもない小悪魔の誕生だな…」
「小悪魔っていう意味で言えば、普段もあまり変わらない気がするんですけど、それは…」
「あはは… どっちにしてもナマエさんは最強ってことですよね…」

ナマエにキスしてもらった頬を抑え、感涙に咽び泣くダリの姿を見つめながら、ツムルたちはしみじみと呟くのだった。



前の話 目次に戻る 次の話








- ナノ -