第29話「はちみつみたいに甘く」



「だ、ダーリン、ですか…?」

とある休日の昼下がり。 食堂にて食後のコーヒーを飲みながら会話を楽しんでいるのは、ツムル、イフリート、マルバス、ナマエの4人。

ツムルが口にした "ダーリン" という言葉を、ナマエはオウムのように繰り返した。 何故そのような言葉が突然出てきたのか。 それは彼らの会話の内容が関係しているのだが…

「そうそう! ダリ先生のあだ名!」
「親しみやすいからか、そんな風に呼んでる子たちがいてね」
「生徒たちにすごく人気ありますよね、ダリ先生」

ダリがいないのを良いことに、ツムルたちはここぞとばかりに彼の話題で盛り上がる。

今日は休日にも関わらず、ダリはオトンジャとの打ち合わせがあるようで… 昼食を終えるとすぐに管理人室へと向かっていく彼を、ナマエが見送ったのが1時間ほど前のこと。 その後、食後の片付けを終えたナマエの元へツムルたちがやって来て、共にお茶をすることになったのだが… まさかのまさか。 彼らの会話は、何故かナマエの恋人であるダリの話題に。

ダリが生徒たちに人気があると聞き喜ばしい反面、ナマエの胸にはチクチクとした少しの痛みが走った。

人付き合いの上手いダリのことだ。 彼の性格上、生徒たちとの仲を深めつつも、一定の距離は保つように意識しているだろうことは容易に想像できる。 それでも… 彼を気軽に "ダーリン" と呼べる生徒たちに対して、恋人であるナマエがもやもやとした感情を抱いてしまうのも、致し方ないことだった。

「…私も、呼んでみたいなぁ」
「「「えっ?」」」
「…、え?」

それは無意識のうちに、ポロリと。 ナマエの口から本音がこぼれ落ちる。 そんな彼女の言葉に、ツムルたちは間抜けにも口をポカンと開けて放心状態だ。

そこでようやく自分が放った言葉の意味を理解するナマエ。 彼女の顔はみるみる内に赤く染まっていく。

「っ、ッ〜!! す、すみません…っ! いっ、今のは、その…っ、深い意味はなくて…っ」
「「「………」」」

慌てて取り繕うナマエだったが、先ほどの言葉に嫉妬心が込められているのは誰の目から見ても明らかで。 自身の余裕のない心に気づき、呆れて物も言えないのではないか… 黙り込む3人に対し、そんなことを思うナマエ。 しかしこのままでは埒が開かないと恐る恐る、ナマエはツムルたちに声をかける。

「あ、あの… 皆さんっ、私…」
「「「俺(僕)もダーリンって呼んでほしい…ッ!!!」」」
「…えっ?」

嫉妬してしまいましたと、正直に言おう…! そう決心して口を開いたナマエだったが、それは3人の大きな声に遮られてしまう。

彼らが口を揃えて叫んだのは、まさかのまさか。 "自分もダーリンと呼んでほしい" そんな馬鹿みたいな言葉で。 意を決したナマエは拍子抜け。 今度は彼女がポカンと口を開き、呆気に取られた。

「ナマエさんに "ダーリン" って呼んでもらえるなんて…!」
「つまりは "奥さん" ってことだろ!?」
「そんなのめちゃくちゃ最高じゃないですか…!」
「えぇっ!? み、皆さん、何を言って…っ」
「というか、呼べばいいじゃないですか!」
「えっ…?」
「ナマエさん、ダリ先生の恋人なんだし。 別に "ダーリン" って呼んでも問題ないんじゃ?」
「うんうん、確かに。 何も問題なし!」
「そ、そうでしょうか…?」

次々と思い思いに言葉を放ち、矢継ぎ早に話を進めるツムルたち。 その怒涛の展開についていくのがやっとのナマエだったが、何故か話はきちんと本題へと戻ってきていて…

ダーリンと呼ぶことに何も問題はないと言う、イフリート。 マルバスとツムルも、彼に同意するかのようにうんうんと頷いている。 彼らからの強い後押しを受け、 "そう言われれば確かに、そうかも…?" と、ナマエの胸にはそんな前向きな気持ちが膨れ上がってくる。 しかし。

「でも、いきなり呼ぶのってすごく緊張しちゃいそうで…」
「…それならさ! 僕たちで練習すればいいんじゃない?」
「練習、ですか…?」
「おっ! いいねぇ、ナイスアイデア!」
「さっすが、イフリート先生!」

練習台になってみせるというイフリートの提案に、ツムルとマルバスは大いに盛り上がる。 たかが呼び名ひとつでここまで楽しめるのも大したものだが、彼らは本気も本気。 ナマエに "ダーリン" と言ってもらえるかもしれない… 今、彼らの頭の中はそんな願望で埋め尽くされていた。

「確かに…! 練習すれば、緊張せずに呼べるかも…!」
「その意気です! さぁさぁ! 僕をダリ先生だと思って! 遠慮なく!」
「っ…! わ、分かりました…!」

自分もダーリンと呼んでもらえる! という何とも馬鹿みたいな下心を持った彼らに、まんまと乗せられたナマエ。 そんな彼女に対し、あまり時間をかけて冷静になられても困ると、イフリートは急かすように発破をかけた。

彼からの激励を受け、ナマエもついに心を決める。 ふぅとひとつ、息を吐き出し深呼吸。 そして…

「ダーリン…?」
「っ、ッ−−!! ぅ、ぐぅ…ッ!!!」
「ッ、!? い、イフリート先生…っ!?」

発破をかけた側であるはずのイフリートが、何故か撃沈。 彼は胸を押さえ、その場で蹲った。 しかしそれも無理はない。

照れくさそうに頬を染めながら、上目遣い。 緊張からか少し声は震えていたが、それもまた初々しさを際立たせていて…

"なんだこの破壊級の可愛さは…ッ!!!"
イフリートの脳内は、そんな言葉で埋め尽くされていた。

「…大丈夫ですよ、ナマエさん」
「…イフリート先生、悶えてるだけだから」
「そ、そうなんですか…?」

突然胸を押さえて蹲るという奇行を見せるイフリートを心配そうに見つめるナマエ。 一方、全く心配する必要はないと言い切るツムルたち。 しかし、自身の練習に付き合って貰っている手前、ナマエが彼を放っておくことなど出来るわけがない。

「そうだ…! お茶のおかわりはどうですか!? 温かいものを飲めば気持ちが落ち着くかも…! 今すぐ淹れ直して来ますね…!」
「あっ、ちょ、ナマエさん…っ!」
「僕たちまだ、練習台になってな、い…… 行っちゃった…」

ツムルが慌ててキッチンへと向かうナマエを呼び止めようとするも、虚しく。 どんどんと離れていく彼女の背中。 マルバスの呟きも、まるで聞こえていない様子である。

せっかくのチャンスが… ふたりの頭に、そんな言葉が浮かんでくるのも当然で。 未だ胸を押さえ悶えているイフリートを、ツムルとマルバスは恨めしげに見つめるのだった。




「よしっ! 準備完了!」

ツムルたちとのお茶会を終え、もうすぐ夕飯を迎える時間帯。 ナマエは食堂にて、いつも通り。 食事の準備を進めていた。

何やら材料が入ったボウルをキッチンカウンターへ並べていくナマエ。 どうやらそこで無事に準備が完了したようで。 彼女がホッとひと息ついた、その時だった。

「おっ、何々? 何だか楽しそうなことやってますね〜!」
「! ダリ先生! お疲れさまです!」

ひょっこりと。 食堂の入り口から顔を覗かせたのは、ダンタリオン・ダリ。 昼食の時以来、食堂に顔を出すことが無かった彼を視界に入れたナマエの表情は、一瞬で嬉しそうなものへと様変わり。

そんな彼女の愛らしい姿にダリもまた、嬉しさが込み上げる。 思わず、緩む頬。 弧を描く目元と口元は、何ともだらしがないものだったが、今この場に居るのはダリとナマエのふたりきり。 邪魔する者がいないこの状況で、気を引き締めることなど出来るはずもなく。

そのまま幸せに浸るかのように見つめ合うふたり。 しかし、いつまでもこうしてるわけにはいかないと、ダリは何とか平静を取り戻す。 そして、食堂に入った直後から視界に入っていた "あるもの" へと視線を向けると、ナマエへ疑問を投げかけた。

「これは、鉄板… ですよね?」
「はい! そうです!」

食事の際に教師陣が使うテーブルの上には、屋台で使うかのような大きな黒い鉄板が置かれていた。 そのいつもとは違う食堂内の様子に、楽しいことが大好きなダリの胸には自然とワクワクとした気持ちが溢れてくる。

鉄板を使った料理か… と、暫し思考するダリ。 チラリとキッチンカウンターへと視線を向ければ、みじん切りにしたキャベツがこんもりと盛られたボウル、大量の卵、綺麗なサシの入った豚肉が並んでいるのが視界に入る。 これらの要素から察するに、今日の夕飯は…

「もしかして今夜は、お好み焼きですか?」
「ふふっ、すごい! 大正解です!」

見事、正解を導き出したダリ。 パチパチと嬉しそうに小さく拍手をしてくれるナマエに胸をほっこりさせつつも、ダリはある問題に気がついた。

「でも… みんなの分を焼くのは大変なんじゃ…?」
「そのための、大きな鉄板です! フライパンだと時間差ができちゃいますけど、鉄板だと同時に沢山焼けますから!」
「なるほど…!」
「皆さんにはどうしても、焼きたてを味わってもらいたくて…!」
「ナマエさん…」

本当ならば、休日であったはずの今日。 自身の仕事に不満はないダリだが、疲れというものは溜まっていく一方で。 温かくて美味しい料理を食べてもらいたい… そんな慎ましくも相手を思うナマエの優しさは、疲れたダリの体にじんわりと沁み込んでいく。

「明日もお休みですから、ビールもたっぷり! 冷やしてますよ!」
「焼きたてのお好み焼きに、冷えたビール…! 想像するだけで、どんな疲れも吹っ飛んじゃいますねぇ〜!」
「…! もしかして、今までずっと打ち合わせを…?」
「そうなんですよ〜 運悪く色々と問題が重なっちゃってね。 何とか無事に解決しましたけど、今日の休みは丸切り潰れちゃいましたね…」

『あーあ、今日はナマエさんとゆっくり過ごせると思ったのになぁ』 と、おどけたように笑うダリ。 その表情は一見、いつもと同じように見えるが、ナマエには少し違って見えて。

休日返上で働く彼に、今は少しでもリラックスしてもらいたい。 そんな気持ちがナマエの中に溢れ出す。

「あの、ダリ先生…」
「? どうしました? ナマエさん?」
「あの、その…っ」
「?」
「お仕事、本当にいつもお疲れさまです…!」
「ふふ、ありがとうございます。 でも、どうしたんです? 突然改まって、」
「…ダーリン」
「………へ?」
「だっ、ダーリンの仕事熱心なところ…っ、とっても大好きです…」
「…………」

それはあまりに唐突で。 突然の出来事に、理解が追いつかないダリ。 ぽかんと口を開け黙り込む彼の姿に、タイミングを間違えた…! と、ナマエは後悔の念に襲われる。 すぐに訂正しなければと、彼女は慌てて謝罪の言葉を口にするけれど。

「っ、ッ! ごっ、ごめんなさいっ! い、今のは忘れ… きゃっ、!」
「もういっかい」
「…!」
「今の、もう一回言って…っ? ナマエさん…っ」
「っ、ッ〜〜!!」

恥ずかしさから早口になるナマエの言葉を遮るように、ダリは彼女をぐいっと引き寄せた。 驚き、小さな悲鳴をあげるナマエだったが、その直後。 ダリの口がついに開かれる。

"もういっかい" 。
そんな甘えたように懇願するダリの声色に、ナマエはどうしようもなく胸を熱くする。 ゆったりと弧を描く瞳。 口元はだらしなく緩んでいて… そんな彼のとんでもなく甘い表情に、ナマエは一瞬にして心を奪われるのだった。




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