第2話「食わず嫌いはいけません」



大量の卵をパカパカと割り、出汁と少しの砂糖を加えて素早くかき混ぜる。 熱した卵焼き器に少しの油を引いて、先程かき混ぜた卵液を流し込めば、ジュワッと食欲をそそる音が食堂内に響いた。

「本当に、いつ見てもナマエさんの料理する姿は素敵ですねぇ〜」
「あ、ありがとうございます…」

悪魔学校バビルス教師寮の食堂には、皆の食事を担当するナマエの姿があった。 調理スタッフであるナマエの朝は早い。 毎朝、食欲旺盛な男性陣の朝食を作るため、朝早くから準備に大忙しだ。

現在、朝の6時過ぎ。 7時には皆が揃って朝食を食べ始めるため、ナマエにとって1日で最も忙しいのがこの時間帯である。 集中しなければならない状況なのに、キッチンカウンターの向こう側にはニコニコと笑みを浮かべるダリの姿。 百歩譲って、黙って見ているだけなら、まだいい。 だが彼は、ナマエを動揺させるような言動ばかりを繰り返していた。

「今日の朝ご飯は… 卵焼きにお味噌汁、鮭の塩焼きに、小松菜のおひたしですか! いやぁ、まさに家庭的! ナマエさんをお嫁に貰う男は、幸せ間違いなしですね」
「っ、そ、そんなこと…っ」

口を開けば、ナマエに気があるようなことばかり。 普段からペラペラと軽い印象のあるダリの言葉を本気にする訳にはいかず、大袈裟に反応しないようにと、ナマエは気を引き締めていたのだが…

「きっと良い奥さんになるんでしょうねぇ。 …僕に嫁ぐ気はありません?」
「っ、もうダリ先生っ! いい加減にしてくださいっ! 冗談が過ぎますよ…っ!」

ここ最近、ダリはずっとこの調子なのである。 先日、夜食を提供したあの時から、ダリの猛アタックは続いているのだ。 最初の頃は、よくもまぁそんなにペラペラと口が回るものだと、ナマエは一歩引いた目で冷静にダリを見ることが出来ていた。 だが毎日飽きもせず好意を伝えてくるダリの姿に、もしかして本気なの? と、いつの間にか彼のペースに呑まれてしまっている自分に気がつく。 それが、どうにも落ち着かない。 反応したらこちらの負け。 そう考えてずっと受け流していたのだが… プロポーズとも捉えられかねないダリの発言に、流石のナマエも我慢ならず、ついに大きな反応を見せてしまった。

「全くもって、冗談なんかじゃないんですけどねぇ」
「っ、だから、そういうことを軽々しく口にしないでください…っ!」
「そう言われてもなぁ。 ナマエさんを奥さんにしたいって言うのは僕の本心ですし。 …まぁ、今はとりあえずこのあたりにしておきましょうか。 そろそろ他の先生方がやって来る時間ですしね」
「えっ? …わぁあ! もうこんな時間っ! どうしよう…! まだ作り終わってない…!」

『冗談ではない』『本心』 そんなあまりに無責任なダリの発言に、ナマエは思わず反論してしまう。 ヘラヘラといつもと同じ笑顔を張り付けながらの言動に、信憑性など微塵も感じられないはずなのに… 自分の意思とは裏腹に熱くなる頬。 それが今は、心底恨めしい。

そんな気持ちを込めて、じとりと視線を向ければ、余裕のある態度でひらりとかわされる。 挙げ句の果てに、さらりと時間がないことを告げられて、ナマエは慌てて残りの作業に取り掛かった。

「おっはようございまーす! ナマエさん! 今日の朝ごはんは何ですか… って、あれっ? ダリ先生?」
「おっ、ツムル先生。 おはよ〜」
「おはようございます! 今日も早いですね! まーたナマエさんのこと、からかっていたんですか?」
「からかってるだなんて、悪魔聞きの悪い! 僕は至って本気ですよ」

キッチンの奥へ入り、急いで朝食作りを進めるナマエだったが、食堂へやって来たツムルとダリの会話が聞こえ、冷めたはずの熱が再び頬に集まってくるのを感じる。 『至って本気』 ダリのその言葉に、ナマエの胸には複雑な感情が沸々と湧き上がっていた。

『本気』って、それはどこまで本当なの?
どうせからかっているだけでしょう?
私の反応を見て面白がっているだけ。
でも、もしかすると…

「まだ少し時間がかかるようなので、邪魔にならないようテーブルで待っていましょうか」
「そうですね! ナマエさん! 今日の朝ご飯も楽しみにしてま〜す!」
「あっ、ありがとうございますっ! すぐに出来上がりますので、もう少しお待ちください…!」

ぐるぐると回るナマエの思考は、ダリの声で一時中断させられた。 邪魔にならないようになんて、どの口が言うのかとナマエは恨めしげに心の中で悪態をつく。 しかし、ダリがこの場を離れてくれることには、ホッと胸を撫で下ろした。 彼がこの場にいては、心休まらない。 これ以上、心の中を掻き乱されてたまるものかと、ナマエはツムルに返事を返すと、お茶碗としゃもじを手に意気込んだ。 そしてやっと "邪魔" がいなくなったカウンターの方へと勢いよく振り返った。 のだが…

「まぁ僕は、ここから動きませんけどね?」
「っ、なっ!?」

カウンターに頬杖を突きながら、ニコニコと笑みを浮かべる男。 言わずもがな、ダリである。 ツムルと立ち去ったと思っていたのに。 なんでどうして。 そんな言葉が次々とナマエの脳内に浮かんでくる。

「いやぁ、ビックリしてますね〜! 驚いた顔も、素敵です」
「っ、ダリ先生……?」
「あはは、すみません。 これもう出来上がってますよね? 配膳、手伝いますよ」
「っ、あっ…」

またからかわれたのだと、ナマエは思わずじとりとダリに視線を向ける。 だが、そんなナマエの視線も物ともせず、さらりとかわすダリ。 その上、『こっちのお盆も運びますね〜』 と料理が並べられたお盆を片手で軽く持ち上げる彼のスマートでさりげない優しさに、ナマエの胸はドキッと跳ね上がった。

「( もう…っ! なんでドキドキしてるのっ、私のバカ…っ! でも、でも…っ) 」

ギューっと締まる、心臓。 その胸の高鳴りに、思わず拳をギュッと握りしめる。 今この瞬間、ナマエの頭に浮かんでいたのは…

「( ダリ先生、カッコいいんだもん…っ )」

『ダリが、カッコいい』 そんな感情だけだった。 ドキドキとうるさい胸を静めるため、ギュッと目を瞑る。 からかわれていると頭では分かっていても、心は正直に反応してしまって。

詰まるところ、ナマエも満更でもないのだ。 元より食堂の職員になった当初から、何かと気遣ってくれるダリのことを素敵な男性だと意識していたのである。 まさか、自分が好意を寄せられることになるとは思ってもみなかったが。

「( 嬉しいって思っちゃう単純な自分が、ものすごく恥ずかしい… )」

自分のあまりの単純さに恥ずかしさが込み上げて、何だか居た堪れない。 ダリのノリの良さは、場を和ませるためのものだと分かっている。 その性格に助けられたのも事実で、それが彼の良さであることもナマエは十分に理解していた。 だが今は、それが返ってナマエの心に影を落とす。 ダリの言動はあまりにも "軽すぎる" のだ。

「( ダリ先生はきっと慣れてるだろうから… 平気であんなこと言えるんだろうけど… )」

またもやぐるぐると回り出す、思考回路。 こうなれば最後、ナマエの頭の中は、同じ言葉の繰り返し。 堂々巡りである。

「ナマエさーん、これで最後ですか?」
「っ、はい…! それで、最後です…っ!」

習慣とは恐ろしいもので、これだけ深く考え込んでいても、ナマエの体は勝手に朝食の準備を進めていた。 人数分の朝食を作り終え、ダリが最後のお盆を持ち上げる。 そんなダリを見て、ナマエは慌ててキッチンから飛び出した。

「すみません…! 私がやります…!」
「いいよいいよ〜! 僕がしたくてやってることだし。 それに、」

ふいに言葉を途切らせるダリ。 そんな彼を不思議に思ったナマエは、無意識にダリに視線を向ける。 その直後。 ふわりと微かに香ったのは、タバコの匂い。

「ナマエさんの気を引くためなら、何だってしますよ」
「っ、なっ、なな、な…っ!!!」

耳元に顔を寄せ、とんでもなく甘い声で、とんでもなく甘い言葉を囁かれる。 カァっと一気に熱くなる頬。 バックンバックンと、激しくなる鼓動。 あまりの刺激に、ナマエは堪らず、耳を押さえてその場に立ち止まってしまった。

「あはは、顔真っ赤にして可愛いなぁ。 …これは脈アリだと思って、いいんですよね?」
「っ〜〜!!! もうっ!!!! ダリ先生のバカ!!!」

ダリからの猛攻に、さすがのナマエもお手上げだった。 これ以上耐えられないと悟ったナマエは、せめてもの抵抗に子供のような反撃を残し、その場を去ろうと食堂の入り口へと向かう。 こちらの気も知らないで…! と悪態をつくけれど、頭の中では先程の甘い声と言葉が何度も何度も再生されていた。

「( 真に受けちゃダメ… 絶対に、真に受けちゃダメ… )」
「あ、ナマエさん!」

何度も自分に言い聞かし、未だ激しく鼓動を刻む胸を落ち着けようとするけれど、食堂を出る直前。 名前を呼ばれ、ナマエは思わず足を止めた。 声の主が誰かなんて、そんなの言わずとも分かっている。

「今日も朝ご飯の準備、ありがとうございました。 夕ご飯も、楽しみにしてますね」
「っ、( だから…っ! もう…っ!! カッコいいんだってば〜っ!!! )」

爽やかな笑顔で告げられて、少し複雑な気持ちになるけれど。 感謝されて、褒められて。 嬉しくない訳がない。 真っ赤な顔を隠すように、思わず俯く。 結局、最後の最後まで、ダリに振り回されるナマエなのであった。



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