第1話「隠し味は、愛情です」



「( …これは、終わりそうにないなぁ)」

目の前には山のように積まれた、大量の書類。 デスクチェアの背もたれに体を預け、暫しの間、ダリは目の前の書類の山を見つめながら途方に暮れた。

教師統括という立場上、処理しなければならない書類は大きな束となって毎日のようにダリの元に届けられる。 それでも通常ならば、放課後小一時間の残業で済むはずなのだが、いかんせん。 もうすぐ座学のテストを迎えるこの時期は、どうしても学校全体の仕事量が多くなってしまい、ダリに限らず教師陣は誰も彼もがてんてこまいとなっていた。

「( あー… 集中切れた。 …どうしたもんかねぇ )」

ふいに途切れた、集中力。 そのまま何の気なしにチラリと時計に視線を向ければ、短針はとっくの昔に12の文字を超えていて。 ダリはそこで初めて、日付が変わっていることに気がついた。

「( 休憩にするか… )」

長時間デスクに向かって座り続けていたせいか、身体のあちこちが凝り固まっていて、その痛みに思わず顔をしかめる。 軽く首や腕を回しながら立ち上がり、ダリは教師寮別館にある自室兼、執務室である部屋を出た。 向かう先は…

「( 小腹空いたなぁ。 何かつまめるものがあればいいけど… )」

教師寮の本館にある食堂。 夕飯はいつも通り皆で集まり食べたのだが、長時間頭を使っているからか、ダリのお腹はすでに腹の虫が鳴り始めている。

普段はこのような夜中に食事をすることなどないのだが、今日はどうにも我慢できそうにない。 冷蔵庫なにが入ってたっけ… そんなことを考えながら、ダリは歩みを進める。 それから歩くこと、数分程度。 視線の少し先に食堂の入り口が見えてきた。

「( ? 灯りがついてる…? )」

ダリの視線の先。 柔らかなオレンジ色の光が食堂の入り口から漏れて、薄暗い廊下をぼんやりと照らしている。 その様子に、ダリは思わず首を傾げた。

「( こんな夜中に、一体誰が…? )」

言わずもがな、教師寮のセキュリティは万全である。 ダンタリオン家SDであるオトンジャ始め、高位階ハイランクの悪魔である教師陣が数多く住まうこの場所は、何者であろうと勝手な侵入を許さない。 と、いうことは。

「( オリアス先生か、ツムル先生あたりか? まーた、ジュースとお菓子でも取りにきたんだろうなぁ… あ、そうだ )」

食堂に居るであろう人物を予想したところで、ふと悪戯を思いつく。 …少しビックリさせてやろう! そんな馬鹿みたいな思いつきに、自然と上がる口角。 我ながらなんて意地の悪い性格だと思うダリだったが、こればかりは止められない。 悪魔である以上、面白いことに妥協などしていられないのだ。

そうと決まれば、さっそく。 入り口手前まで速やかに移動し、一呼吸。 そして素早く中に入り、ダリは大きな声で叫んだ。

「わっ!!!!」
「ひゃあっ!?!?」

ダリの大きな声に反応したのは、何とも可愛らしい悲鳴。 そしてその直後、ドンガラガッシャン。 金属やプラスチック、様々な物がぶつかり合う音が食堂に響く。

…可愛らしい、悲鳴? オリアスやツムルには、あまりにも似つかわしくない声質である。 どういうことだ…? そんな疑問がダリの頭をよぎった、その時。

「だ、誰ですか…っ?」
「えっ?」

恐る恐る。 まさにそんな言葉がピッタリな声色。 声のする方へ視線を向ければ、視界に入ったのはキッチンカウンター。 そのカウンターの向こうから、そろりと顔を出したのは…

「ナマエさん…?」
「ダリ、先生…?」

カウンター越しに見えたのは、食堂スタッフであるナマエの姿。 予想外の人物の登場に、ダリは思わずポカンと口を開ける。 一方、そんなダリとは対照的に、ナマエの瞳には余程驚いたのか薄らと涙が浮かんでいた。

まずったなぁ… 現在自分が置かれている状況に、そんな言葉がダリの頭の中に浮かぶ。 まさかこのような時間にナマエが居るとは思いもよらず、ダリは自身の軽率な行動を後悔した。

彼女は、ミョウジ・ナマエ。 教師寮食堂で調理を担当しているバビルスの職員だ。 放っておくと不健康まっしぐらな生活を送る教師陣を心底心配したオトンジャが、バビルスの理事長であるサリバンに雇用を推薦し、今年から新しく採用された女性悪魔である。

そんな彼女は、あのオトンジャが推薦しただけのこともあり 『馬鹿みたいに料理が上手い』 と、瞬く間に大評判となった。 さらにその美しい容姿も相まって、独り身が多い男性陣が放っておく訳もなく… おっとりと柔らかな性格や、初心で可愛らしい反応、優しく相槌を打ちながら話を聞いてくれる大らかなところ。 日々の仕事で溜まった疲れを心身共に癒してくれる彼女は、あっという間に皆の信頼を得ていった。 まさに食堂のおばちゃんならぬ、食堂のお姉さんである。

「よ、よかったぁ〜…っ! 」
「っ、ナマエさん!? 大丈夫ですか!?」

ここまでの予想外の展開に暫し思考に耽っていたダリだったが、安堵の声と共に突然へなりと座り込むナマエの様子に、思考は一気に現実へと引き戻される。 咄嗟に彼女に駆け寄り、小さな背中に手を添えれば、ホッと安心したかのようにナマエは力なく微笑んだ。

「私、ほんとに驚いて… おばけでも出たのかと…」
「いや〜 申し訳ない! 灯りがついていたので、てっきり、オリアス先生かツムル先生かと…」

申し訳なさそうに謝罪と言い訳を口にしながら、ダリはナマエの目の前に左手をそっと差し出す。 そんなダリにありがとうございますとお礼を告げると、ナマエは自身の手をダリの手に重ねた。

「お恥ずかしいところをお見せしました。 すみません…」
「いやいや、驚かせた僕が悪いんですから! 頭を上げてください!」

ダリの手を借りながら立ち上がったナマエは、そのまま流れるように頭を下げる。 取り乱してしまったことが余程恥ずかしかったのか、髪の隙間から見える耳は真っ赤に染まっていて、その姿が更にダリの罪悪感を煽った。

咄嗟に頭を上げるようお願いすれば、ゆっくりとその顔を上げるナマエ。 少し居心地が悪そうに彷徨う彼女の視線に何だか居た堪れなくなって、話を逸らすように、ダリは慌てて口を開く。

「それにしても、こんな時間に何をしていたんです?」
「明日の食事の仕込みをしていたんです。 お肉やお魚は下ごしらえが大事ですから」

話題が変わったことに安堵したのか、ナマエはホッとしたような表情を見せる。 そんな彼女の姿にダリ自身も安堵しつつも、ナマエの返答に思わず、ん? と疑問が浮かんだ。

「もしかして、毎日こんなに遅くまで…?」
「いえいえ! いつもはもっと早くに終えているんですけど… 近頃、皆さんとてもお疲れの様子なので、少しでも美味しいものを食べてもらいたくて…」

『こんな時間まで、はりきり過ぎちゃいました』 そう言って照れ臭そうに笑う姿に、ダリの胸にはじぃんと熱いものが込み上げる。 毎日美味しい料理を提供してくれているだけでもありがたいというのに。 更に自分たちの体調にまで気を配り、こんなに遅くまで働いてくれている。 その心遣いは、心身ともに疲れ切っている今のダリには、効果絶大であった。

「本当に、いつもありがとうございます。 ナマエさん」
「そんな…! 私に出来ることなんて、料理をお出しすることくらいですし…!」
「"料理くらい" だなんて、とんでもない! ナマエさんが作ってくださる美味しい食事のおかげで、我々は毎日健康に暮らせているんですよ」
「っ、あ、ありがとう、ございます…」

大袈裟なくらいに感謝の気持ちを熱弁するダリに、ナマエは照れ臭そうに、だけどどこか嬉しそうに小さくお礼の言葉を口にした。 そんな彼女の控えめな態度がいじらしくて、ダリの胸はほっこりと温かくなる。

"料理くらい" と謙遜する彼女。 ダリは常日頃から、ナマエは全くもって自分の価値を分かっていないな、と感じていた。 彼女がここに来てからというもの、教師陣の体調は目に見えて良くなっている。 良質な食事というのは、これほどまでに健康に影響してくるのだと、ここ最近ダリは改めて実感していたところだった。

「あ、あの… ダリ先生は、どうしてこちらに?」
「えっ? …あぁ、そうでした!」

褒められることに居た堪れなくなったのか、ナマエはあからさまに話題を変える。 ダリ自身もこれ以上、彼女を困らせるつもりは無かったので、素直に彼女の質問を受け止めたのだが、そこでやっと、ここにやって来た目的を思い出した。

「仕事が中々片付かなくてね〜 休憩がてら、少し夜食をと思いまして」
「…! そういうことなら! 簡単なものになりますが、私が何かお作りしましょうか?」
「えっ!? 本当ですかっ? あっ、でも… 明日の準備中じゃ…」

ナマエからの願ってもない申し出に、ダリは思わず食い気味に言葉を返す。 しかし彼女は明日の準備をしている最中だということを思い出し、慌てて断りを入れようとしたのだが…

「仕込みはほとんど終わっているので大丈夫ですよ! それに冷蔵庫の中にすぐに食べられるようなものは無かったかと…」
「う〜ん… それは困ったなぁ……」

ナマエから告げられた事実に、ダリはうーんと頭を悩ませる。 食堂を管理している彼女が言うのだ。 本当にそのまま食べられるような食材は無いのだろう。

「それじゃあ、申し訳ないけれど… お言葉に甘えてもいいかな?」
「はい、もちろんです! お任せください!」

ダリ自身、料理が全くできないということはないが、疲れた体で夜食のためだけにキッチンに立つ気力は微塵も残っていなかった。 ナマエの申し出は、正直言ってとてもありがたい。 申し訳なく思いながらもお願いをすれば 『座って待っていてくださいね!』 と、ナマエはどこか嬉しそうにしながら、キッチンへと消えていく。

「( 本当に、料理が好きなんだろうなぁ )」

ナマエの背を見つめながらそんな事を考えていれば、キッチンからは楽しそうな鼻唄まで聞こえて来て、ダリは思わずふっと笑いを漏らす。 食堂の椅子に腰掛けながら、暫しダリはその鼻唄に耳を傾けた。




「ダリ先生! お待たせしました!」
「おぉ〜!」

待つ事、およそ10分ほど。 お盆を手にナマエがテーブルへとやって来た。 ダリの前に出されたのは、綺麗に握られた三角のおにぎりが2つ。 そして、ほかほかの湯気が立ち昇る、味噌汁。 おにぎりの皿の端には、箸休めの漬物。 味噌汁からは優しい出汁の香りが漂っていて、ダリの空きっ腹をこれでもかと刺激した。 この短時間で、ここまでのものを用意してくれるなんてと、ダリはただひたすらに感心するばかりだった。

「どうぞ、召し上がれ」
「それでは、遠慮なく! いただきます! ……っ!!」

目の前に差し出された美味しそうな料理に、瞳を輝かせるダリ。 そんな彼の姿にナマエは嬉しそうに微笑む。 ナマエがどうぞと勧めれば、ダリはおにぎりをひとつ持ち上げる。 そのまま、待ってましたとばかりに勢いよくかぶりついた。

ちょうど良い塩梅の塩気。 しっかりと握っているのに、柔らかくモチモチな米粒。 中の具は、甘塩っぱいおかかだ。 白米にピッタリの少し濃いめの味付けは、ダリの疲れた体に染み渡る。 たったひと口。 それだけでダリの表情は、たちまち幸せに満ちたものに変わっていく。

「ふふっ、お口に合いましたか?」
「…はい、ものすごく。 …何か特別な調味料とか、使いました?」

それはあまりにも美味しくて。 思わず不躾な質問をしてしまうダリ。 普段の彼らしからぬ質問に、ナマエはきょとんとした表情を浮かべる。 しかしそのあとすぐに、クスクスと笑う仕草を見せた。 そして美味しそうにモグモグと口を動かすダリを微笑ましい気持ちで見つめながら、彼の質問に答えようと口を開く。

「いたって、普通のおにぎりですよ?」
「…本当かなあ? このおにぎり、マジでめちゃくちゃ美味しいですよ? こっちのお味噌汁も出汁が効いてて、まるで料亭みたいな味ですし」
「ふふっ、ありがとうございます」
「………本当に何もしてません?」

軽い調子で問い掛けるダリだったが、正直なところ、それは冗談半分、本音半分だった。 今ここで出された料理の美味しさは、ナマエの持つ家系能力の影響ではないかと推察していたのだ。

詳しくは知らされていないが、ナマエの家系能力は使用する調味料によって相手の感情をコントロール出来るものだと言う。 "食堂に出す料理に能力は使わない" という契約を交わしていることは、教師統括としてダリには事前に知らされているのだが、今日出してもらった夜食のあまりの美味しさに、彼はつい要らぬ詮索をしてしまう。

「…う〜ん、本当に何もしてないんだけどなぁ」

何度も念を押して問うて来るダリに、ナマエはうーんと首を傾げる。 能力を使ったのではと疑われていることを何となく察しているだろうが、彼女に動揺は見られない。 ダリは杞憂だったかと、2つ目のおにぎりを掴むと、そのまま口元へと運んだ。

「あ、そうだ! 強いて言うなら…」
「…強いて、言うなら?」
「いつもよりたっぷり、愛情込めて作りました」
「っ、! …ゴホッ、げほっ」
「ダリ先生!? 大変っ、ま、魔茶! 飲んでくださいっ」

杞憂だったと安堵したのも、束の間。 ナマエからの思いもよらぬ発言に、思わず喉を詰まらせるダリ。 突然咳き込む彼に驚いたナマエだったが、すぐさま魔茶を差し出して、彼の後ろに回り込む。 ダリの背中を優しく揺すり覗き込んでくる瞳は、本気で彼を心配しているようにしか見えなかった。

「大丈夫ですか…っ?」
「っ、はぁ…っ、うん。 もう、大丈夫…」

めちゃくちゃ、いい子。 それが良くも悪くも、ダリの今までのナマエに対する率直な印象だった。 料理は上手い。 おまけに美人。 とっつきやすく話しやすい。 男だらけのこの寮で、ナマエという存在は皆のやる気を出させる為に、言い方は悪いがとても "便利" だと、そう思っていた。 もちろんダリ自身も美味しい食事を提供してもらい "優秀な同僚" として彼女を見ていた。 そう、見ていたのだが…

咳き込むダリの背中を撫でる、優しい手つき。 目線を合わせ、心配そうに覗き込んでくる大きな瞳。 ダリを安心させようと、そっと重ねられた柔らかな手。 そんな彼女の行動全てに、熱くなるダリの胸。 じんわりと温かい "何か" が、ダリの心臓の音をどんどん加速させていく。

「( 大丈夫、じゃないなぁ、コレは。 …あー、やばい。 本気でハマる前に、自制しないと、)」
「ダリ先生」

思わぬ方向へと自分の感情が向かっていることに、ダリは内心焦りを感じた。 同じ職場で恋愛など、面倒でしかない。 わざわざそのような道を歩む必要もないと、歯止めが効かなくなる前に止めなければと、自分に言い聞かせる。 だが、そんな彼の気を知ってか知らずか。 ナマエが柔らかい声で、ダリの名を呼ぶ。

「…っ、なん、でしょうか?」
「あの… 前からお伝えしようと思ってたのですが、」

少し気まずそうに、目を逸らすナマエ。 その頬は心なしか薄らと赤く染まっているように見えて、落ち着けたはずのダリの心は、またもやざわざわと乱れ始めていく。 そんな表情を見せないでくれ… そう願わずにはいられない。 一体、何を言われるんだと身構えた、その次の瞬間。

「毎日 『美味しかったよ』 って、私にさりげなく言ってくださるのが、すごく嬉しくて…」
「っ、えっ?」

一癖も二癖もある教師たちを纏める、教師統括という立場。 そのような立場である以上、組織を円滑に動かすことは自身の義務であると、ダリは考えていた。 新しく組織に加わったナマエがスムーズに溶け込めるように、積極的に声を掛けたり、オトンジャにしっかりとフォローするよう頼んだり、何かと気を配っていたのは事実だ。 そんな自身の打算的な行動を "嬉しい" と、心の底から思っているかのように告げられて、ダリは思わず、動揺する。

「いつも、本当にありがとうございます… えへへ」
「っ、!!!」

その笑顔の破壊力たるや。 自制しようと抑え込んだ胸の高鳴りが、大きな音を立ててまた顔を出し始める。 今、この瞬間。 ダリは完全に、恋に落ちた。 実際は、おにぎりを食べたその時から、胃袋と同時に胸を掴まれていたのかもしれないが。

そしてこの日を境に、ダリからナマエへの猛アタックの日々が始まる。 そんな事になるなど思いもしないナマエは、呑気にニコニコと笑顔を浮かべているのだった。




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