第7話「忘れられない蜜の味」



「…ハァ」

早朝、午前5時。 しんと静まる食堂内に、それはそれは熱っぽい、悩ましげなため息の音が響く。

キッチンカウンターの向こう側。 そこには、まな板に向き合うナマエの姿があった。 右手には、パリッと張りのあるレタス。 左手には、瑞々しいトマト。 朝食のサラダを作るつもりらしいが、彼女の手は一向に動かない。 それもそのはず。 現在、彼女の脳内を占めているのは、ある男の存在だけだった。

「( ダリ先生… )」

ダンタリオン・ダリ。 悪魔学校バビルスの教師統括。 明るく陽気な性格で、誰にでも分け隔てなく接することが出来る、温和な彼。 それが返って、掴みどころのない印象を与えることもあるが、紳士的で優しく、場を和ませてくれる、そんなひと。

彼との昨晩の出来事を思い出すたび、ナマエの口からは熱い吐息が漏れ出す。 あの甘く溶けるようなキスは、ナマエの心を掴んで離さなかった。

「( 夢じゃ、ないよね…? 私本当にダリ先生と、キスを… )」
「ナマエさん、おはようございます!」
「っ、ひゃあっ!?」

ダリとのキスの感覚を思い出し、物思いに耽るナマエだったが、突然掛けられた声に現実へと引き戻される。 それはあまりに唐突で、ナマエは思わず驚き叫び声をあげてしまった。 しかし、その声にはもちろん聞き覚えがある。 それは今の今まで、ナマエの頭の中を支配していた…

「っ… ダリ先生っ?」
「あはは、ごめんごめん。 驚かせちゃった?」

そう、ダリである。 口では謝罪しているけれど、悪びれもない様子で笑いかけてくるダリ。 そんな意地悪なところでさえも愛おしくて仕方ないと、今のナマエにはダリの全てがいつもより何倍も輝いて見えていた。 それにキスをしたのは、つい数時間前のこと。 どうしたって、浮かれてしまう。 ニヤつく頬をどうにか抑えようとするけれど、今日のダリはそれを許してはくれなかった。

「朝早くからごめんね。 でも、早くナマエさんに会いたくて。 結局、あのあと一睡も出来ませんでしたよ〜」
「っ、わ、私もです…っ」

さらに浮かれてしまうようなことを、さらりと言ってのけるダリに、ナマエも精一杯の返事を返す。 実際、ナマエも眠ることなど出来なかった。 昨晩からずっと続いたままの胸の高鳴りは、一向におさまる気配が無い。 照れながらも素直に気持ちを伝えてくれるナマエを、ダリは微笑ましげに見つめる。 あまりに優しげな瞳を向けられて、ナマエは思わずダリに見惚れてしまった。

「…っ、さっきはぼーっとしてたけど、考え事?」
「えっ? あっ… その…っ」

ポーッと自身を見つめてくるナマエが何ともいじらしく、可愛らしく、愛おしくて。 ダリは抱きしめたい衝動に駆られるも、すんでのところで何とか堪えた。 朝からそんなことをしてみろ… 絶対に歯止めが効かなくなるぞと、自分に言い聞かせて、何とか理性を保つ。

傍から見れば、何ともお熱いバカップルなのだが… いかんせん。 現在、食堂にはダリとナマエのふたりきり。 突っ込み不在のこの状況に、彼らは完全にふたりの世界へと入り込んでいた。 しかし、ダリからの問い掛けにナマエはハッと我にかえる。 そして、何故か途端に赤くなる頬。 ナマエが照れている理由を何となく察したダリは、意地の悪い笑みを浮かべながら、続けて彼女に問い掛けた。

「さてはナマエさん… 昨日のこと、思い出してた?」
「っ、ッ…!!」
「あはは、顔真っ赤にして、ほーんと可愛いなぁ…」
「、…っ〜〜!!!」

そう言って、カウンター越しに腕を伸ばし、これでもかと優しい手つきでナマエの頭を撫でるダリ。 愛おしそうに細められた瞳。 穏やかながらも熱のこもった声色。 そんなダリの "いつもと同じようでどこか違う姿" に、ナマエの頭の中は爆発寸前であった。

「( まっ、待って待って…! 今日のダリ先生…っ、甘すぎないっ? 話し方も、いつもより砕けた感じになってるし…っ! こんなことされ続けたら、確実に身がもたないってば…っ )」

昨晩から続きっぱなしの、自身を取り巻く甘すぎる雰囲気。 そんな環境に、ナマエの体はすでにいっぱいいっぱいだった。 何か話そうにも、上手く言葉が出てこない。 口をぱくぱくと動かすことしか出来ないナマエを、これまたダリは愛おしげに見つめるものだから、ナマエの胸の音は鳴りっぱなしの堂々巡りである。

「ねぇ、ナマエさん。 僕、このきんぴらごぼう、味見したいです。 …あーんってしてくれませんか?」
「あっ、あーん、ですか…っ?」

昨晩ナマエが作り置きしておいた、きんぴらごぼう。 あとで小鉢に盛り付けようと冷蔵庫から取り出していたそれに、ダリは目敏く気がついていた。 ここぞとばかりに、おねだりをするダリ。 『ダメですか?』 そんなしおらしい態度で言われてしまっては、ナマエに断れるはずもない。 …確実にこの男、確信犯である。 例えそうだと分かっていても、ナマエの右手は無意識に箸を握っていて。 緊張で少し、震える手。 ナマエはきんぴらごぼうをひと口分、箸でつまむとダリの口元へゆっくりと近づけていく。

「ど、どうぞ…っ」
「…あー、んっ………… うん、美味しい! …やっぱり、ナマエさんの料理が、1番だなぁ」
「…!」

それはそれは幸せそうに、ダリはしみじみと呟く。 そんな彼の言葉に、ナマエは何とも言えない感情が湧き上がってくるのを感じた。 ナマエにとって "料理" というものは、何にも変え難い大切なもの。 料理人として、そして彼の恋人として… ナマエにとって、今のダリの言葉は他のどんな言葉よりも、嬉しくて堪らないものだった。

「いやぁ〜 もう何日も食べてなかったから、ナマエさんの手料理が恋しくて恋しくて…! あぁ〜! やっと食べられる…っ!!」

グッと拳を握りながら熱弁をするダリ。 もう何日もナマエの料理を口にしていなかった彼は、心の底からこの日を待ち望んでいた。 そして何より、朝食前のふたりだけのこの時間が戻ってきたことに喜びを隠せない。 余裕そうに見えるが、彼もまた。 ナマエと同様、相当に浮かれていたのである。

「あの、ダリ先生…っ!」
「うん?」

ダリがナマエとの時間の大切さを噛み締めていた、その時。 ナマエがダリの名を呼ぶ。 その声には少し緊張の色が混じっていて。 そのことに気づいたダリは、出来る限り優しい声で返事をする。 そんな彼の優しさを感じたナマエはまた、性懲りも無く胸を高鳴らせるけれど、何とか心を落ち着かせた。 一度だけふぅ、と小さく息を吐き出し、ナマエはダリを一直線に見つめる。 そして…

「もしダリ先生がよければ…っ、明日からお昼のお弁当、作ってもいいですか…?」
「へっ?」
「朝ご飯と夕ご飯はみんなの為に作ってるから… お昼ご飯はダリ先生の為だけに作りたくて。 …ダメ、でしょうか?」
「……………」

しおらしく、上目遣いで。 先程の "あーんのおねだり" の時のダリ同様、ナマエは可愛らしくダリに問いかける。 もっとも。 ダリとは異なり、無意識の行為ではあるのだが…

先程のナマエの緊張した様子を見て、勘の良いダリは何か自分を喜ばせることを伝えてくれるのではないかと、勝手に予想していた。 しかし…

" ダリ先生の為だけに作りたくて。"

この展開は予想外。 あまりの可愛さに、暫し呆然としていたダリだったが、その言葉の意味を理解したその瞬間。 未だかつてない衝撃が、ダリの胸に襲いかかる。 自分は特別なんだと実感できるナマエの言葉が、嬉しくて嬉しくて堪らない。 それに何と言っても、男の憧れ。 "手作りのお弁当" である。 そんなもの、嬉しくないわけがない。

「( "僕の為だけに" って… 何それ可愛すぎるだろ… )」
「ダリ、先生…?」

馬鹿みたいにああだこうだと悶えるダリだったが、あくまでそれはダリの心の中でのこと。 一言も発さず黙り込むダリを、ナマエは不安げに見上げている。 そんな彼女の姿にハッとして、ダリは慌てて口を開いた。

「っ、あぁ! すみません…っ! ナマエさんがあんまり可愛いことを言うものだから、つい言葉を失って…!」
「っ、! か、可愛いことって…」

バカ正直に自分の気持ちを告げてくるダリに、ナマエはまたもや頬を赤くさせる。 そんなナマエとは対照的に、彼女の反応が愛おしくて仕方ないダリの頬は、だらしなくニヤニヤと緩んでいく一方だ。

そんな甘ったるい雰囲気を暫し堪能したあと、ダリは表情を少し引き締める。 そしてナマエを真っ直ぐ見つめながら、真剣な声でその口を開いた。

「ナマエさんの負担にならないのなら… お弁当、よろしくお願いします!」
「! …はいっ! お任せください!」

ダリの返事を聞いたその瞬間、ナマエはパッと花が咲いたような笑顔を見せる。 その屈託のない愛らしい笑顔に、ダリもまた、笑顔を浮かべるのだった。



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