寒い朝にさようなら

日本よりもはるかに寒いカナダの気温は、それだけで私のテンションを下げていく。朝起きて、軽く朝食を済ませた後、指のストレッチをして、それから鍵盤に触れる。その度に、指の動きが悪くて、不安を掻立てた。この不安が過ぎるようになったのには、理由がある。

「……、Thank you」

拙い英語のやり取りの中、何度も首回りを触る。肌身離さず付けていた賢二郎から貰ったネックレスを、1週間くらい前に失くしてしまったのだ。今日もらった電話でも、見つからなかったという情報ばかりが届く。あんなに大事にしていたのに、視界が潤んだ。アレがないと不安だというのもあるし、それを失くしてしまってから調子は下降するばかりだ。そして、失くしてしまったことを賢二郎に謝ろうと思って電話できる?と聞いたとき、賢二郎の都合がつかなかったらしく、後日電話できそうな日を教えてくれたのに未だに連絡出来ていない。なぜなら、1度鈍った決心を奮い立たせるのは難しい。だけど、それを咎めたりしない賢二郎は、多分、私からの連絡を待ってくれている。それなのに、どうしても出来なかった。

「菫ー?」

ルームメイトの呼びかけに、なんとか布団から出て起きる。今日も憂鬱な1日のはじまりだ。






「れんらく、できなくて、ごめんね…」

何度も送ろうとしたメッセージを復唱する。今日は、初めてあのネックレスがないまま迎えたオーケストラのコンサートをなんとか終えた。でも、100%とは言えない出来だった。その評価は簡単に表れる。日本と違って、海外の人はその辺オブラートには包まない。

「今日かなり微妙だったわ」

日本語ではないのが幸いだろうか。言葉を受け取って呑み込み、それを返すのに時間が掛かる。相手もそれは分かっているので、それを咎めたりしない。なんとか表情を崩さずに、「次は成功させてみせるわ」と返すので精一杯だった。結局、その日も賢二郎に返事も出来ずに眠り込む。浅い眠りのなかで、人々が私を罵る。「日本人留学生にはがっかりだ」「他の人が来れば良かったのに」そんな言葉は、どんどん私を苦しめていった。でも、いつも見る悪夢なのに、今日は違った。静まりかえった観客席の中、1人の青年が立ち上がり、私へ拍手を送る。そんなことははじめてで、私を罵っていた観客が、驚いたようにその青年を見つめていた。せめて後からお礼をと思って青年の顔を確認しようと目を凝らした。青年と目が合うと、青年が私の名前を呼ぶ。なんで、私の名前を知っているのだろう。そんな疑問が過ぎった瞬間

pppppppp…

「っ、はい」

アラームに似た音が鳴り響く。宛先も確認せずに応答すると、響いてきたのは愛しい声。

『ワリ、寝てたよな』

第1声は謝罪で。それは、私が言わなければならなかったはずなのに。後悔が押し寄せた後、意識が清明になっていく。掠れた声で、「なんで…」と疑問が零れた。

『また具合壊してねえよな?』

連絡しなかったことを怒られてもおかしくはない状況の筈だ。なのに、次に発せられた言葉は私の身を案じるモノだった。

「怒ってないの?」
『……は?』
「連絡、全然、してなかったのに…」
『電話だけだとお前の状況分かんねえんだぞ。怒るに怒れるかよ』
「それは怒ってるんじゃないの?」
『……怒らないわけねえだろ。第一声がそうじゃなかっただけだ』
「そうだよね」
『……で?』
「で?」
『お前少しは俺の質問に答えろ、この阿呆』

賢二郎に言われた質問を振りかえる。で?の前に言われたのは、

「あ…、身体は大丈夫です」
『……そーかよ。ったく』

深いため息の後、ギシッとした音が響いてきた。恐らくベッドかソファに腰掛けたのだろう。身体から力が抜けていって居るだろう事が、見ていないのに手に取るように分かった。

「あ、あの…賢二郎…」
『……ああ、言い訳をどうぞ?』
「うっ、えっと…ごめん、なさい」
『あ?なにが?』
「……うっ、えっと」
『怒らないから早く言え』
「もうその時点で怒ってるじゃん…」

電話を取ってしまったのが運の尽き。何から話そうかと思案していると、急かすように名前を呼ばれた。カナダが朝と言うことは、向こうは夜だ。きっと、早く休みたいのだろう。

「……この間、電話できる?って聞いたの覚えてますか」
『忘れるわけねえだろ。そっから連絡がなくなったんだから』
「あ、あの日…賢二郎からもらったネックレスをなくして…」
『は?』
「ひっ。警察にも探して貰ったし、思い当たるところも探したの。でも、見つからなくて、アレがないと不安もあるし…いや、その前にもらい物を紛失させるなんて彼女失格だと思って謝らなきゃと思って…。リスケ提案してくれたけど、その時には伝える勇気が無くなってて…それで、ズルズル来てて…その、ごめんなさい」

その言葉の後、すぅ…と賢二郎が息を吸う音が聞こえてきて、私は慌てて耳を離す。

『そんなことで連絡して来なかったのかよ!!安物だつったろ!』
「でも、嬉しかったんだもん!可愛かったし!気に入ってたんだもん!お守りだもんっ!!」
『!!……同じの買って送ってやるから、心配すんな』
「そ、そんなの悪いし、」
『アレがあれば、大丈夫なんだろ。なら、送る。これくらいさせろよ。これぐらいしか出来ねえんだから』

これぐらいしか出来ない。離れている距離は、それをダイレクトに教えてくれる。その言葉はそのまま私に返ってきて、閉口した。賢二郎はこうやって何かをしてくれるけど、私は賢二郎になにか出来てるだろうか。こんなに離れているのに、想うばかりで何もしてあげられない歯がゆさが辛い。早く日本に帰りたい。

「賢二郎……」
『今度はなに』
「会いたいよ…」

か細い声から漏れた言葉は、とても情けなかった。頑張ってるな、って抱きしめて欲しい。身体に刻み込まれてる賢二郎のぬくもりも、匂いも、優しい手も。その全部に触れたい。孤独に闘うこの世界が苦しい。

「演奏も上手くいってない。けど、もっと上手くなって、賢二郎に1番に聞いて欲しい。賢二郎が大好きだって言ってくれた曲を、もっと上手く弾けるようになりたい。ピアノで、賢二郎を1番幸せに出来る彼女で在りたいけど…異国の地は、しんどいよ…」

次から漏れていく弱音。普段なら、言えない言葉も、今日は何故か零れていく。それと同時に頬が濡れていった。それを拭ってくれる大好きな手は目の前にはないけれど、

『菫だけじゃねえんだからな』
「……え、」
『俺だって、……こんなこと言わせんな』

さみしいのも、近くに居ないと落ち着かないのも。会いたいのも。全部、一緒だ。

『今だって、どうせ泣いてんだろ』

それを拭えない辛さが、声だけで伝わってくる。そんな私に賢二郎は、普段はあまり言わない言葉を私に贈ってくれるのだ。賢二郎は、決して私がしんどいときに頑張れって言わない。その代わりに、

『……好きだ、菫』
「……うん、私も賢二郎が好きだよ」
『成長して帰ってくるのを楽しみにしてんぞ』
「ふふっ、じゃあ賢二郎も、もっと格好良くなってるんだろうな」
『はっ、かもな』

普段は言ってくれない愛の籠もった言葉が、これでもかと降り注がれた。あと少し、頑張る。賢二郎の隣に並んでもお似合いだと言われるような女でいたいから。それは今も昔も、この先もずっと変わらない。




20210324








×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -