灰青方位

夏休みが終わり、慌ただしい日常が戻ってきた。と言っても、特段何かが変わるわけではないけれど。強いて言えば、私の所属する病棟のスタッフのご懐妊が重なり、勤務がハードになってしまった。2人のうち1人は悪阻が酷いようで、来れない日が続いている。とは言え、おめでたいことではあるし、困った時はお互い様なので根気強く働いた。ただ、

「志木さん…」
「仕方ないですよ。大丈夫です。妹なら分かってくれますし、叔父に行けないか頼んでみるので」

今月末に小学校の運動会がある。だけど、こんな状況なので仕事の休みが取ることが出来なかった。楓の活躍する姿は見たかったけれど、こればかりは仕方がない。申し訳ない気持ちで楓にそのことを告げると、一瞬だけ、眉を落とした後、

「私は運動会頑張るから、お姉ちゃんはお仕事がんばってね!」

と笑ってくれた。今年はリレーの選手にも選ばれたと言っていたから、すごく見に行きたかったのだけど、本当に残念だ。無理して笑う楓を抱きしめて何度も「ごめんね」と謝る。「大丈夫だよ」と笑ってくれたけど、その言葉が更に私の胸を締め付けた。

「じゃあその代わり、今度レシーブ教えてね!そしたら許してあげる」
「分かった。言っとくけど、お姉ちゃん中学校の時は凄い選手だったんだからねー」
「そうなのー!?」

それから楓は、あの日ビーチバレーをしたことをきっかけに、地元のバレーボールクラブに入った。海に行った翌日に「バレーボールをやりたい」と言われた時には、なんだか嬉しい気持ちになったものだ。菅原にそのことを話してみると、小学校の体育館で、毎週水曜日と木曜日に練習があると教えてもらい、それを聞いた週に早速見学に行った。そこから話は、トントン拍子に進んで行き、今ではすっかりバレーボールの虜だ。

「お姉ちゃんは、ポジションは何してたの?」
「リベロだよ」
「守り専門の人?」
「そうだね。だからレシーブが得意」
「あ!ビーチバレーの時、いっぱいボールあげてたもんね!」
「よく覚えてるね」

バレーボールを大層気に入った楓は、痣だらけの腕を見せながらも嬉しそうに笑う。私もよく痣作ってたな、と懐かしくなった。

「この痣は私の勲章!」
「勲章なんて難しい言葉、どこで覚えてきたの?」
「海に行った時に、潔子ちゃんが言ってたの」
「潔子が?」
「うん。脚の怪我の痕を私が見つけちゃったときにね…」

そう言えば、潔子は中学の時に陸上でハードルをやっていたので、脚に怪我の痕がいくつかあったっけ。高校の時は、それを気にしていたこともあったけれど、今はそんなことないのだろうか。

「良いこと言うね潔子」
「流石、お姉ちゃんの親友だね!」

楓は、ランドセルを背負い玄関へと駆けていく。

「行ってらっしゃい」
「行ってきます」

そんな楓を見送った後、ピロンピロンとスマホが鳴った。内容を確認して[OK!]とスタンプを送る。







その日の夜。指定された喫茶店へと向かうと、今朝メッセージを送ってきていた菅原は既に到着していたようで、「こっち!」と手を振って場所を教えてくれる。4人がけのお洒落なソファーテーブルに腰掛けていた菅原の姿に見惚れてしまったけれど、それを悟られないよう平然と駆け寄る。

「待たせちゃってごめんね」
「いや、俺もさっき来たところだから大丈夫だべ」

約束の19時からは、10分程過ぎている。本当は結構待ってくれたのだろう。なのに、そう言ってくれる菅原は、本当に優しいと思う。

「練習って今日は21時までだっけ?」

楓は、この間から入ったバレーボールクラブの練習に行っている。

「うん。それぐらいに体育館に迎えに行く予定」
「レシーブ苦手らしいぞー?」
「らしいね。でも、すぐに上手くなるよ。私の妹だもん」

差しかけてあったメニューを手渡され、そちらに視線を移す。

「夕飯は?」
「楓と軽く食べたよ」

だから飲み物で良いかなと、ウィンナーティーを頼んだ。菅原はアイスコーヒーにするようだ。店員さんに注文を済ませた後、

「…で?」

と問われる。真似をするように「…で?」と首を傾げると、おいおいと口を尖らせられた。

「桜が言ったんだろー?相談したいことがあるって」
「ああ、」

海に行った日、行きのバスでそんなことを言った気がする。

「だから、俺、連絡待ってたのに一向にその兆しがないし?挙げ句の果て、良いバレーボールチームは無いか?とか言い出すし?」
「ごめんごめん」
「大丈夫なのかよ?」

その問いに閉口する。呆れられるかなと不安になって、菅原の姿を盗み見ると、前のめりな状態で私のことを見つめていた。どうしようと眉間に皺がよると、不意に菅原の手が伸びてくる。

「眉間に皺寄ってるべ」

乾いた笑みが溢れた。少しだけ菅原に触れられたところが熱くなっていく。

「にしても、今日の服可愛いなー。新しいやつ?」
「えっ…あ、先月水着買いに行ったときに、潔子と選んだやつだけど…」

赤の小花柄模様が施されたクリーム色のワンピースに、ブラウンのカーディガンを羽織ってきた。特別おめかしをした訳ではないけれど、"可愛い"と言われただけで、こんなにも舞い上がってしまう。

「お待たせ致しました」

そんな軽口を零していると、注文していた品が届く。思いの外早く届いたそれを受け取ると、「乾杯する?」と菅原が言い出したので、「一体何に対する乾杯?」と問えば、「久しぶりのデートに?」なんて言うので、デコピンをお見舞いしてやった。

「いてっ…容赦ねえなーもう。で、解決したの?」

その問いはノーだ。

「やっぱりしてなかったのか。そうやって、溜め込むのは桜の悪いとこだぞ」
「んー、分かってるんだけどね、」

こっちもバタバタしていたし、菅原も運動会の練習や準備などで忙しそうにしていたからタイミングが掴めなかったのだ。

「どうせ俺が忙しいんじゃないかとか気にしてたんだろー?」
「う、」
「おっ?当たり?」
「なんで少し嬉しそうなの」

ウィンナーティーにシロップを少し注いで、かき混ぜる。口に含むと思いの外甘さが口に広がった。少し入れすぎたかもしれない。

「俺には、そんな気使わなくて良いべ」
「……そう言うわけにはいかないよ」
「良いんだよ。寧ろ使われずに頼ってくれた方が嬉しいし」
「……うん」
「桜は優しすぎんだよな。まあ、そこが良いとこでもあるんだけど」

カラン、と氷が鳴る。グラスには、いくつか水滴が出来ていた。

「大したことないと思うかもしれないんだけどね、」
「うん」
「私が考えすぎと言うか…」
「うん、大丈夫だから。思ってること言ってみ?」

あの日、出て行った父親の後ろ姿が目に浮かぶ。考えただけで怒りが込み上げてくるけれど、きっと、感情的になってはいけないのだ。淡々と、言葉を紡ぐ。

「父親が、私たちに会いたがってるみたいで、」
「…うん」
「私たちというか、楓になんだけど」

ようやく溢れた悩みに耳を傾ける菅原は、精悍とした顔つきをしていた。



20210213
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