凪ぐ視線

8月の下旬。時期としては少し遅いけれど、天気にも恵まれ絶好の海日和となった。

「お姉ちゃん、早く早く!」
「はいはい。慌てなくても海は逃げないから」

朝からテンションが最高潮となっている楓は、バスが来た途端に駆け足で乗り込んでいく。その後ろに私、潔子、菅原が続いた。側から見れば不思議なメンバーだろう。

「きよこちゃん!一緒に座ろう!!」
「うん、いいよ」

唐突に後ろを振り返った楓は、私なんて眼中にないようで、久しぶりに会った潔子の手を掴んで歩いていく。前の方に2人分座れるスペースが空いていたようで、そこに腰掛け、嬉しそうにしていた。

「桜、後ろ開いてるけど…」

隣にいた菅原が窺うようにこちらを見つめてきた。私は小さく息を吐いた後、菅原が指し示した方へと歩みを進める。

「どっちがいい?」
「俺は通路側で良いべ」
「わかった」

ふと前の方へと目を向けると、楓がパチンとウインクを寄越してきた。その横にいた潔子は、にっこりと微笑んだ後頷く。

(余計な気遣いだよ…)

「桜?」
「ねむい…」

恨めしい気持ちを悟られまいと、誤魔化すように呟いた。

「昨日、遅かったのか?」
「準夜だったから…」

今日しか潔子や菅原と予定が合わなかったので仕方がないけれど、3連休の前日が準夜は少しきつかった。

「着くまで寝てるといいべ。肩貸してやろうかー?」
「結構です」
「ったく、釣れないなー」

陽気に響く声を無視して、窓の方へと頭を傾ける。ゆっくりと瞼を下ろすと、自然と意識がふわふわしてくる。うつらうつらとする中、身体が温かい何かに包まれたのを最後に、夢の中へと落ちていった。







「俺さ、誰にでも分け隔てなく優しくて、曲がったことが嫌いな志木の事が好きだ」

高1の冬。体育館の倉庫裏というありきたりな所で、告げられた言葉。今よりも少し幼なげな彼の顔は、いつまでも忘れられないと思う。特別顔が整っているわけでもなければ、何か秀でるものがあるわけでもない私に、人生初の告白をしてきたのは菅原だった。

「ごめん菅原…。私、そういうのよく分からない。菅原のことは好きだけど、それが菅原と同じなのか、分からない…」

ふと思い浮かぶのは中学の頃に出て行った父親の顔。男にだらしない母親を見ていたせいか、恋愛に関しての憧れは薄く、同年代の女子の中では可愛げのない女だったと思う。それなのに、

「焦んなくて良いべ。急にこんなこと言ってごめんな。ただ俺はさ、志木の味方だから」

私自身が秘めていた心の闇に、その時初めて触れられて、望んだ答えではなかっただろうに、優しく微笑んでくれたのだ。

「なあ、志木。志木は男が苦手ってわけじゃないよな?」
「うん。それなら女子校に行ってるし、そもそも男バレのマネージャーなんて引き受けてないから」
「そっか」

そして、私のペースに合わせるように、ゆっくりと心の中へと侵入してくる。まとわりついた氷を、その温かさで溶かしていったのだ。

「志木ー」

2年生に上がった頃には、そう呼ばれるだけで胸が高鳴るようになっていた。その頃には、考え込みやすい私の中に侵入してくるのを許していたと思う。

「菅原、私…私ね、」

ある時、自分の中の陰りを告げた。もしかしたら、菅原なら分かってくれるかもしれないと思ったからだ。

「うん。なに?ゆっくりでいいべ」
「前、菅原は聞いたよね?男の人が苦手なのか?って」
「あー。いや、でも…アレは違うんだろ?」
「うん。そうじゃなくて、私はいつか終わりが来るのが怖いんだと思う」
「終わり?」

男に捨てられる母親の姿を何度も見てきた。母親に男運がないのか男を見る目がないのかは分からなかったけれど、恋愛にはいずれ終わりが来るのが嫌だった。

「あとは、こわい」
「………」
「男の人の、熱を孕んだ雰囲気が、その」

何かをされたわけではないし、被害に遭ったわけでもない。でも、物心がついた頃には、男に乱れる母親の声や吐息が耳を刺していた。自分が見たことのない顔をした、あの母親の顔も。貪りつくように母親に覆い被さる男の姿も。全て気持ちが悪くて、

「志木…無理して言わなくていいべ」
「……違うの、聞いて欲しいの」
「でも、震えてる」

菅原の視線の先には、握りしめた私の拳があった。

「だ、だいじょうぶ」
「志木…」
「菅原に、全部聞いてほしいから」
「俺、焦んなくていいって言ったよな?」
「焦ってないよ。私も、私自身と向き合いたいと思って、それを聞いて欲しいの」

その日は私の過去の話を全部した。菅原は全てを聞いた後、優しく微笑んでくれたのだ。

「ありがとう。…嬉しいよ、話してくれて」

その顔が、あまりにも慈愛に満ちていて、大きな胸の中に飛び込んでしまいたい衝動をグッと抑えた。

「私…菅原のこと、好きになりたいな」

芽生えはじめていた想いを音にすれば、耳まで真っ赤にした菅原が、優しく私の頭を撫でた。その日を境に、距離が縮まっていって、この時の感情を理解していくようになった。

「俺は甘えて欲しいんだけどな?」
「菅原…なんで、そんな、」
「好きだから。……ずっと、そう。志木のことが好き」
「…わ、たしも、そうなのかな」

そのぬくもりを知ってしまったあの日から、私は、どう足掻いたってそれから逃げられなかったはずなのに。でも、今はまだ触れられない。降りかかる闇を払い除けたら、また、

「もう1度、好きになっても良いですか?」
「桜?」

涙で視界が歪んでいく。やさしい笑顔も、温かな手も、全部。

「…起……ろ!桜!!」

消えて欲しくないから。







パチリ、と瞼を開けると焦った顔をした菅原の顔があった。

「あ…」

頬が濡れていて、自分が泣いていたのだと気づく。覚醒しきれていない頭を、なんとかフル回転させていると、菅原の手が私の頬を撫でた。

「ごめん。魘されてたから起こした」
「……ううん。ありがとう」

後方の座席に座って良かったと思う。私のこんな悲惨な状態に気付いている人は、ほとんどいないだろう。菅原は、私が落ち着いたのを見計らって頬に伸びていた手を下ろした。そして、

「あー…桜、あのさ、」
「なに?」
「触れても良い?」
「え、」

先程まで触れていたくせに何を言っているのだろうと思った。ぽかんと口を開いたままでいると、菅原の手が私の背中へと回ってくる。

「すがわら…?」
「嫌?」

誰も気にしてないだろうって、先ほど思ったばかりなのに。羞恥心でどうにかなってしまいそうだ。その時頭をよぎったのは、先日の潔子の言葉。

__だから、周りのことを気にせずに、桜は桜のしたいようにすれば良い。

私はゆっくりと菅原の右肩に自分の額を乗せた。背に回っていた手が労るように撫でる。

「菅原、あの…相談したいことがあって、」

顔をあげれば、優しく微笑んでくれる。

「うん。いつでも聞くからな。……でも、その前に海を楽しむか!」

バスの運転手が次の停車場所を告げる。ふと視線を前へと向けると、停車をお願いするボタンを押そうと嬉しそうに立ち上がる楓が視界に入った。



20210210
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