前後の記憶が曖昧だ。 まるで頭の中に靄がかかっているような感じがしていて、ふと気がついたらそこにいた。 そうして初めに目にしたものが血で汚れたスーツを着た男だったので、少女は飛び上がらんばかりに驚いたのだった。 「あ、あのっ、わ、私はなんの取り柄もないただの一般人で──!」 「知っている」 暗がりの中、男は薄く笑んで長い脚を組み変えた。 アンティークらしい立派な椅子に悠々と腰掛ける姿が実に優雅で様になっている。 「俺もそうだ」 嘘。 考えるより早く口を突いて出そうになった言葉を少女は何とか飲み込んだ。 彼は間違いなく一般人ではない。 でも、どうしてそんな風に思ったのか自分でもわからなかった。 金髪に、まるでオレンジ色の炎のような美しい色をした瞳。 椅子に座って愉快そうに少女を眺めている男は、一見優男と呼んで差し支えないくらい細身の美青年だったが、不思議と弱々しくは見えなかった。 「どうせまた寝ぼけているんだろう」 笑いながら言って男が椅子から立ち上がる。 だが、少女がビクッと身を退いたのを見た彼は、一瞬驚いたように目を見はり、一転して心配そうな表情に変わった。「どうした?」 「あの───」 少女は勇気を振り絞って尋ねた。 「貴方は……誰、ですか…?」 ** 「記憶喪失、でございますか?」 男に呼ばれて駆けつけてきた使用人頭だという中年女性は、怪訝そうな声音と表情で主人に問い返した。 それはそうだろう。 真夜中に呼び出しを受けたかと思えば、突然そんな突拍子もない話を聞かされたのだ。 そうですかと受け入れろというほうが無理である。 「彼女の話を聞く限りそうとしか思えない。就寝前までは異常はなかったのか?」 「はい。特にお変わりなくお休みになられておりました」 使用人頭が説明する間、男は顎に片手をあてて何やらじっと考え込んでいた。 優しげな面立ちがランプの明かりに浮かび上がっている。 その間少女はどうしていたかというと、ただ困り果てて二人のやり取りを見守るばかりだった。 どちらかと言えば、記憶喪失というよりも迷子の気分だ。 何処か知らない場所に迷い込んでしまったような気がして仕方がなかった。 白い薄手のネグリジェを着た少女の肩には、男がクローゼットから出してくれたショールが掛けられている。 純白のネグリジェの袖は幅広のレースになっていて、鳩尾より少し上のあたりが柔らかくゴムで絞られており、室内のアンティーク調の家具と相まって、まるで中世の姫君の寝所に迷いこんでしまったようだ。 こんなわけのわからない状況でなければ素直にお姫様みたいだと喜べたかもしれない。 |