夕闇の迫る港を出発して一時間。
フェリーは順調に海路を進んでいた。

旅客フェリー『むーんふらわあ』の船内は、清潔な白い壁と緑の床で統一されていて、いかにも船の中といった印象の造りになっている。
客は家族連れが中心のようだが、畳敷きの大部屋にはツアー客らしき中高年の団体の姿も見えた。

やはり、若い女の一人旅というのは少ないらしい。

レストランで食事を済ませたなまえは、このまま船室に戻るのも早い気がして、少し外に出てみる事にした。
こうして時間に縛られずに自由に行動出来るのは、気ままな一人旅の良いところでもある。
これが仕事ではなく観光なら、もっと気楽だっただろうに。


「わっ!」


甲板に出ようとした途端、どっと強風に襲われてしまい、なまえは慌てて階段の脇の手摺に捕まって体を支えた。
思っていたよりも外は風が強かったらしい。

潮風に嬲られて乱れた髪を手で直しながら甲板に出ると、落下防止用の柵の前に佇んでいる男と目があった。


──見られた!!


強風に煽られて慌てていた様子をバッチリ目撃されていたことがわかり、頬が赤く染まっていく。


「今夜は風が強いようですからね」


クス…、と笑みを浮かべた男は、また夜の海へと視線を戻した。

黒いコートの裾が夜風をはらんで優雅にはためいている。

モデルのような体躯でありながら何処か奇妙な印象を受けるのは、その服装のせいだろうか?
男は、黒いネクタイに黒いスーツ、黒いロングコートに黒い帽子という出でたちだった。

なまえは彼の邪魔にならないように、少し離れた場所まで歩いていくと、同じように柵越しに夜の海を眺めた。

神戸の夜景は既に遠い。
暗い水平線の向こうに、キラキラと微かにイルミネーションの名残りが見える程度だ。

寂しいような切ないような、そんな不思議な気持ちになる景色だった。


「観光ですか? それともビジネスで?」


横から静かな声がかかる。
意外にも話し好きなのだろうかと考えながら、なまえは男に向かって頷いた。


「ええ。九州まで、仕事の用事で」


海へと向けていた身体をこちらに向き直らせて、男が緩やかに歩み寄って来る。


「それは大変ですね。飛行機のほうが早いでしょうに、船旅ではさぞお疲れでしょう」

「そうなんです…経費削減の為らしくて、フェリーのチケットしか用意して貰えなくて」

「おやおや」


思わず愚痴ってしまったなまえに、男は柔和な微笑を向けた。


「ですが、船旅というものも、味があって良いものですよ。こうした思わぬ出逢いもありますし、ね」


「そうですね」


その辺りの男に言われれば陳腐な口説き文句になりそうな言葉だが、何故か不快な気分になることもなく、なまえは素直に笑うことが出来た。

たぶん、それは、この男がストイックな感じのする美貌の持ち主な上に、夜の船の上という、ある種幻想的な場所と雰囲気のせいだったのだろう。

男が帽子の縁に手をかけて笑う。


「失礼、まだ名乗っていませんでしたね。私は赤屍蔵人と申します」


夜の闇の中、ライトの明かりを受けて白く浮かび上がる端整な顔が綺麗だと思った。
赤い三日月のような薄い笑みを浮かべた唇に眼が惹き付けられる。

こくん、と喉が鳴った。


「貴女のお名前は?」

「苗字なまえといいます」


名前を告げた自分の声に、ガヤガヤと賑やかしく笑いあう声が被さる。
見ると、階段から男女のグループが何やら楽しげに話しながら上がってくるところだった。


「やれやれ…ここも騒がしくなりそうですね。──如何です? よろしければ、私の部屋でもう少しお話しませんか?」


まるで糸に操られた人形のように、なまえは赤屍の言葉に頷いていた。


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