このご時世、引越し先でご近所トラブルに巻き込まれてしまう事は少なくない。
しかし、まさか自分の身にそんな問題が降りかかるとは誰も思わないだろう。


「寝不足ですか、なまえさん」


カウンターテーブルの上にティーカップを置いて赤屍が微笑む。
ふあぁと欠伸をしたなまえは、ちょっと赤くなって小さく頷いた。
こっそり他所を向いてバレないようにしたはずなのに、目敏い男である。

黒衣の運び屋はこの喫茶店ホンキートンクの常連客で、なまえはこの店で働くウェイトレスだった。
──まあ、しかし、『ただの客と店員』と呼ぶには、数回のデートを重ねた微妙な関係ではあるのだが。


「お隣から夜遅く話し声が聞こえてきて……最近あまり眠れていないんです」

「それは困りましたね。確か、最近そこに引越したばかりではありませんでしたか?」

「はい…まだ今のアパートにきて一週間です」


水を向けられるまま、なまえは寝不足の理由を語って聞かせた。

基本、この赤屍蔵人という男は話し辛い相手ではない。
物静かな男ではあるが、無口で無愛想といったわけではないし、絶妙な相槌を打ってくれたりと、むしろ意外に聞き上手であったりもする。

「苦情を言ったことは?」

「実は何度か言いに行こうと思ったんですけど、ちょうど留守だったらしくて、まだ直接隣の人に会った事はないんです。もしかしたら昼間はいないのかも……でも、夜に行くのはなんだか怖くて…」

「話し声は夜に聞こえるのでしたね。確かに、相手がどんな人間かも解らない内に、女性が夜間一人で直接苦情を言いに行くのは不安でしょう」


普段から物騒な噂ばかり耳にする赤屍だが、常識的な物の見方も出来るらしい。
何よりもこうして親身に相談に乗ってくれていることが嬉しかった。


「もし良ければ、今夜伺いたいのですが、いかがでしょう?貴女の部屋で実際にどの程度ひどいものであるか確かめさせて下さい」


赤屍は少し考えたあと、なまえに向かって言った。


「その場で注意して構わないようでしたら、私が行きます。声がしているのなら在宅しているはずですからね。直接苦情を言って後々貴女が困るようならば、隣人ではなく管理会社に相談すればいい。その場合も私が同行しましょう」

「でも…それじゃあ、赤屍さんに迷惑が…」


それは確かに願ったりな申し出だったが、なまえは即答出来ずに口ごもった。


「構いませんよ。貴女が困っているというのに黙って見てはいられません」

「赤屍さん…」

「私を頼って下さい。──ね?」


はい、と頷いたなまえの手に、赤屍の手がそっと重なる。
手袋越しに不思議とあたたかな体温が伝わってくる気がした。


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