17:00


藤邸を辞した後、私は子供たちや哀ちゃんに別れを告げて、博士の家とは反対方向に足を向けた。今日は零さんが帰ってくるまでに、夕食の準備をして待っていると約束をした。そのための買い出しに行こうとしたのである。

(今晩はビーフシチューにしようっと)

零さんはなるべく早く帰ってくると言っていたけれど、彼の“早く帰る”という言葉ほど当てにならないものはない。だから冷めてもまずくならないもの、煮込めば煮込むだけおいしくなるものを用意しようと決めていた。
実を言うと、お肉の下準備は朝の段階で既に済ませてきた。一口大のサイコロ状にブロック肉をカットし、ボウルに注いだ赤ワインの中に浸して、上から輪切りにしたキウイを敷き詰めておいたのだ。こうしておくだけでお肉の繊維が分解され、ほろほろの食感になるのである。

(付け合わせにはマッシュポテトとザワークラウト、それからガーリックトーストでいいかしら。ついでだからデザートも焼いちゃおうかな)

料理の工程を頭に思い描きながら歩道を歩いていると、背後からパッパーとクラクションが鳴らされた。

「?」

不思議に思って振り返ると、少し後方に赤いスバル―――沖矢昴の愛車が見えた。彼は私が自分の顔を認識したのを見て取ると、私に向かって手を上げた。ハザードを焚いて車を脇に停める。

「送っていきますよ、本田さん」
「えっ、でも」
「いいから、乗ってください。僕もちょうど、あなたと同じ方向に向かう用事があったので」
「沖矢さん……」

いつになく強引な口調に、私は大人しく彼の言葉に従うことにした。もしかしたら、彼の方こそ私に何か話があって、後を追いかけてきたのかも知れないと思ったからだ。
私が助手席に乗り込んでシートベルトを締めたのを確認しても、沖矢さんはすぐには車を発進させなかった。

「あの、」
「今日は随分と張り詰めた表情をしているな」
「……。そう見えますか?」

突然ガラリと切り替わった口調に、私は若干身構えた。私が態度を固くしたことなど気にも留めずに、彼はこちらを振り返った。

「いつも通りに気丈に振舞おうとしている努力は認めるが、ぴりぴりした空気というものは案外他人に伝わりやすいものだ。具体的には、」

彼はここで言葉を区切って、突然私の頬に手を伸ばした。骨ばった大きな手が頬を包み、親指の腹が私の目尻を優しくなぞる。

「黒目が縮こまって、眦がきつくなっていたり」
「ん、」
「肩に必要以上に力が入っていたりすると、心に余裕がないんだな、という雰囲気が如実に解る。―――何があった?」
「…………」

なんて難儀な人だろう、と私は閉口した。こちらが必死に現実逃避をしようとしていても、この人はそれさえ見抜いてしまう。そして見て見ぬふりをするのではなく、こうしてわざわざ“逃げるなよ”と釘を刺してくる。この男のこういう正しさが、今の私には少し息苦しかった。
碧の眼差しが眼鏡越しに私を射抜く。頬に手を添えられているせいで、視線を逸らすことも出来ない。

重苦しい沈黙に包まれた車内で、先に根負けしたのは私の方だった。

「何かあったのか?ではなくて、何があった?と訊くんですね」
「何もないのに、君ともあろう人間がそんなに心ここにあらずと言った顔をするはずがないからな」
「買い被りすぎです。私は別に演技派じゃありませんよ」

あなたや安室さんと違ってね、と私が肩を竦めると、沖矢さん―――赤井さんはゆっくりと瞬きをした。私がここでわざわざ零さんの名前を出した意図を図りかねている表情である。

「何かがあったのは、君の恋人の方か?」
「そうです、と答えれば、あなたは力を貸してくれるんですか?」
「場合によるな。俺は君とは対等な関係を築いていきたいと思っている」
「つまり?」
「つまり、俺が君に何らかの形で力を貸すのであれば、相応の見返りを求めてもいいだろう、という話だ」

君は見返りに何をくれるんだ、と問われて、私は言葉に詰まった。私は彼に差し出せるものなど何一つ持っていない。あるのは唯一、自分自身でしかない。
私が正直にそう答えると、彼はむしろ満足げに頷いた。

「いいだろう。それなら、見返りは君自身でいい」
「と言うと?」
「約束してくれ。今夜は例え何があっても、安室君の部屋から一歩も出るな」
「…………」

私は虚を衝かれて目を瞬かせた。そんなもの、見返りでも何でもないじゃないかと思ったのと、零さんにも全く同じことを言われたことを思い出したせいだ。

昨日の夜、彼はベッドの中で私の肌に触れながら、明日の夜は絶対に自分の部屋にいてくれと何度も口にした。だから私は彼を安心させるために、「それなら、特製ディナーを用意して待ってるわ」と答えたのだ。
彼の身に何かが起こるかも知れないということを知っていて、ただじっと待つことしか出来ない自分の無力さが悔しかった。だけど他ならぬ零さんが私に何もせずに待っていろと言うのであれば、私はそれに従うしかなかった。

けれど、赤井さんが力を貸してくれるのであれば、こんなにも心強いことはない。

「解りました。その条件、呑みましょう」

私はそう言って頬に添えられていた彼の手を握り返すと、ぐっと身を乗り出した。それから彼の横顔によほど唇を近付けると、その耳にそっと頼み事を囁いた。