16:20


騰したサイフォンのお湯が蒸気圧の力を受けて、上側のフラスコへ移動していくのを、僕は何とはなしに見つめていた。コーヒーの粉に触れたお湯は焦げ茶色に染まり、徐々にフラスコ内部に溜まっていく。
ドリップ式に比べて抽出ブレが少ないとされるサイフォン式のコーヒーメーカーは、その見た目の美しさから、インテリアとしても人気が高い。子供の頃に初めて見た時は不思議な装置だと思ったものだが、原理を理解した今でも十分面白い仕組みだと思う。

「…………」

そんなことを考えながらコーヒーを香りだけで楽しんでいると、遠くのテーブル席から名前を呼ばれた。「はーい」と愛想よく返事をしながら、オーダー票を手に持ってカウンターキッチンを後にする。
ああ、またしても思考が纏まらなかった。



「安室さん、私、このレモンヨーグルトタルトがいいなぁ」
「それじゃああたしは、こっちのパウンドケーキ!」
「かしこまりました。生クリームも添えておきますか?」
「あっ、はい!じゃあお願いします!」
「安室さーん、こっちもオーダー頼むわー」
「はい、すぐにうかがいますねー!」

お昼のピーク時よりはマシとはいえ、アフタヌーンティータイムの店内には少なくない数の客の姿があった。梓さんもキッチンの中でテキパキと手を動かしていて、とてもではないが気を抜く暇もありはしない。
そんな忙しさに押されて、さっきから僕の思考は碌に纏まってくれなかった。だが、これはある意味で予定通りの状態である。先ほどから僕が敢えてぼうっとしているのは、自分で自発的に何かを考えたり、何か行動を起こしたりせず、大脳をデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)に移行させている最中だったのだ。

DMNは、何もせずに何も考えないでいる状態、大脳のアイドリング状態とも言うべきものである。最近の脳科学研究は、外界からの刺激から独立した思考や自分への内省の機能を持っているとして、このDMNを評価している。クリエイターや研究者などが高度で独創的な思考をするためにはDMNが欠かせないとする指摘もある。
このDMNから通常の活動モードに切り替わる瞬間、いきなり活性化した大脳に思いも寄らないヒントが思い浮かぶと言われているのだ。作家がお風呂に入っている時やまどろんでいる時に面白いネタを思い付くという現象は、まさしくこのDMNから通常の活動モードに切り替わる瞬間の、大脳が一瞬で活性化した例と言えるだろう。

(なんて、所詮はさくらの書いた論文からの受け売りなんだが)

とにかく、今の僕に出来ることは、信じて任せた部下たちからの報告を、心を無にして待ち続けることだけだった。
その時、空っぽになったカウンター席を片付けていた僕の耳に、気になる情報が舞い込んできた。

「おい、聴いたか?ノムさん今、湾岸線の大渋滞にハマってるんだってよ。20分前からちっとも前に進まねえってぼやいてたぜ」
「湾岸線?そういやさっき、ニュース速報で何か言ってたっすね」

話しているのは背後のテーブル席に向かい合って腰を下ろした男たちで、40代と30代の会社員といった風体をしていた。どうやらこれからその“ノムさん”とその妻を交えて4人で飲みに行く予定だったらしく、“ノムさん”から約束の時間に遅れそうだと連絡が来たのだと言う。

「事故でもあったんすか?湾岸線で」
「事故どころじゃねぇや。テロだってよ」
「テロ!?」
「あっ、バカ、静かにしろ!」

穏やかでない単語にぎょっとしたのは、向かいに座っていた30代の男だけではなかった。隣の席に座っていた主婦たちも怪訝そうな顔で男たちを凝視していたし、思わず聞き耳を立てていた僕もカウンター席を拭いていた布巾を取り落としそうになる程度には動揺した。さり気なく振り返り、男たちの様子を窺えば、彼らは自分たちの発言が思わぬ耳目を集めてしまったことに顔を引き攣らせつつ、苦笑いで誤魔化した。
それから2人の男はぐっと顔を寄せ合い、先ほどよりもよほど小さな音量で気になるニュースの話を続けた。

「阿呆かお前は。もうちょっと周りに気を遣え」
「いやだって、コバさんが変なこと言うからでしょ。で、ノムさんが巻き込まれた……テロ?って、一体どんな状態なんですか?まさかノムさん、テロの首謀者に人質として捕まってるんじゃあ」
「いや、一応事態は収まってるんだとよ。というか、ノムさんはたまたまその場に居合わせただけで、狙われたのは全く別の人間らしい」
「なぁんだ。それじゃ、ノムさんから武勇伝を聴くのは出来ないってことっすね」

上司が事件に巻き込まれなかったのだから、それ自体は喜ぶべき結果なのだが、若い男にはそれよりもスクープを逃したというがっかり感の方が勝ったらしい。平和ボケした生温い環境で生きる人間の価値観だな、と僕は無感動に思いながら、中身の減ったグラスにお冷を注ぎ足すべく、彼らの座るテーブル席に向かった。

「で?狙われた相手ってのは無事だったんですか?」
「ああ、それがどうやらダメだったみてえだな」
「ダメって、死んだってことっすか」
「解らん。ノムさんの車からじゃ、そこまでは見えなかったらしい。ただ、ハチの巣になった青いアクセラと、シートに飛び散った血痕だけは辛うじて見えたって話だぜ」

ゴトン、と鈍い音が響いて何かが掌を滑り落ち、直後、足元に冷たい感触が広がった。僕が手にしていた水差しがするりと落ちてテーブルにぶつかり、床に向かってその中身をぶちまけた音だった。

「うおっ!だ、大丈夫かよ兄ちゃん!?」
「あ……っ、すみません!お怪我はありませんか?」
「お、俺らは大丈夫だけどよ……。なあ?」
「はい。濡れてもないですし、ケガもしてないです」
「そうですか。それならよかった」

すぐに拭くものを持って参りますので、少々お待ちください。と一旦断ると、僕は軽くなった水差しを持ち上げてテーブル席を離れた。顔面に笑顔を貼り付けてはいたものの、胸の内では今にも心臓が張り裂けんばかりに激しく脈打っていた。

湾岸線を走っていた青いアクセラ。
ハチの巣になったボディと、血痕の飛び散ったシート。

たったこれだけの断片的な情報では、僕の思い描く人物と結びつく確率はゼロに等しいものだろう。単なる僕の思い違いである可能性が高い。いや、むしろそうであってほしいとすら思う。
だがそれならば、この胸を過る嫌な予感は何なのだろう。心の襞を逆撫でされるような、足元から冷風が這い上がってくるようなこの感覚は、一体何だというのだろう。

―――珍しいな。車を使っていないのか?
―――風見さんに貸し出し中です。俺は都内を移動するだけなんで、特に車も必要ないですし。

そんな会話を谷川と交わしたのは、つい2時間前の話だ。僕の記憶に間違いがなければ、彼の愛車はマツダの青いアクセラスポーツで、その愛車を借りているはずの風見の今日の行動範囲は、東京から千葉に跨っていたはずである。つまり、京葉道路を抜けて湾岸線を走っていても、何らおかしくはない状況だということだ。
だったら、湾岸線でテロリストに襲われた車というのは、まさか―――

(落ち着け、落ち着け。計画に支障が出るような何かがあれば、必ず僕に連絡が入るはずだ)

僕はこれまで、“作業中”に思いがけない事故が起きたり、部下の身に何かが起きたりした場合、何をおいてもこの僕に報告するようしつこく言い続けてきた。あの客の話によれば、例のアクセラが何者かに銃で襲われて渋滞が発生してから、少なくとも20分は経過している。20分もの間、僕に全く報告が来ないなんて、そんなことあるはずがない。

そう、テロリストに襲われた人間が無事であり、意識が戻っているならば、そんなことはありえないはずだった。

「―――ッ」

ぞくり、と背筋を氷塊が滑り落ちる。まさかとは思うが、本当に例のアクセラがあの男の愛車で、その車に乗っていたのが風見だとしたら、

(風見は今頃、)

次の瞬間、最悪の想像に身を震わせる僕の心を読んだかのようなタイミングで、左耳に嵌めていたインカムにノイズが入った。