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今もなお大きな音が響いている一番端の部屋に向かって、私は足を踏み出した。そこは私たちの泊まるエグゼクティブスイートルームよりも更にワンランク上の部屋であり、クラブ会員でなければ宿泊できない、本物の賓客向けの部屋である。

「あ、あの、大丈夫ですか!?」
「おいおい、中で何が起こってんだぁ!?」

ドアの前にはこの部屋から1番近い距離にある401号室に居たメンバー、つまり沖矢さんと子供たちが集まって、扉に向かって声を掛けていた。

「沖矢さん、一体どうしたんですか?」
「ああ本田さん、安室さん。いえ、こちらの部屋から先ほど大きな音がしましてね、こうして駆けつけてみたんです。そうしたら、今度は誰かが中から扉を叩いているような音が聞こえてきて」
「さっきの停電で、何か物を落としてケガしちゃったのかも!」
「でもよー、それならわざわざこんな風に、ドアを叩いて誰かを呼ばなくてもいいんじゃねえか?」
「確かに……。それなら自分でフロントに連絡して、助けを呼べばいいだけだものね」
「ひょっとしたら、自力で声も出せないような状態なんじゃないでしょうか?」

光彦君が何気なく言った憶測を、真っ先に肯定したのは零さんだった。

「その可能性はありますね。何度もこちらから声を掛けているにもかかわらず、何の返答もないんでしょう?沖矢さん」
「はい。少なくとも10回は声掛けをしていますが、中からは何も返事がありませんでした」
「だったらフロントに言って、合鍵を持ってきてもらいましょう。さくらさん達は引き続き、中にいる人が気を失わないように、声を掛け続けてください」

零さんはそう言って、フロントに内線を飛ばすために一旦私たちの部屋に引き返した。
零さんの足音が遠ざかっていった後で、私の首許のヘッドホンからギルバートの声がした。

「沖矢さん」
「ん?」

沖矢さんは片目を開いてこちらに顔を向けた。ヘッドホンのスピーカーがオンになったままだったことを今更のように思い出し、私も自分の胸元に視線を落とした。

「この音ですが、妙だと思いませんか?誰かが意思を持って叩いているという割には、テンポが規則的すぎるように感じます。まるで同じフレーズを、何度も繰り返し再生しているように聴こえませんか?」
「言われてみれば、確かに……」

その指摘を受けて、沖矢さんは扉に耳を押し付けた。そして新たな違和感に気付いたのか、その表情が俄かに険しくなった。

「皆、少し扉の前から離れてください。もしかしたら、これは僕たちをおびき寄せる罠かも知れない」
「ええっ!?」
「沖矢さん、罠ってどういうことですか?」

私が歩美ちゃんの体を抱き寄せながら訊くと、彼は扉から体を起こしててこちらを振り返った。

「この音は、実際に扉を叩いている音ではありません。触ってみれば解りますが、こちらに全く衝撃が伝わってこないんです」
「っそれじゃ、一体誰が、何のためにこんな音を……」
「解りません。ですが、合鍵が来るまで待っているのも時間の無駄です」
「それなら、僕が部屋の鍵を開けましょうか?」

不意に背後から聴こえてきた声に、私はぱっと顔を綻ばせた。フロントに連絡を入れ終わった零さんが、402号室から戻ってきたのだ。彼の手には私のヘアピンが2本握られていて、ピッキングをするつもりなのだろうということが容易に読み取れた。

「さくらさんと歩美ちゃん、光彦君、元太君は下がっていてください。僕が鍵を開けたら、沖矢さん―――」
「解りました。様子を見ながら扉を開けましょう」

普段は多少ギスギスしていようとも、こういう時の連携はスムーズである。私は指示された通りに子供たちを連れて距離を取り、彼らをそっと見守った。
5秒ほどでシリンダー錠が開き、2人は顔を見合わせて頷いた。零さんがドアノブに掛けた手に力を込めて、それをそっと回す。
そして一気に扉を開いて、ぱっと身を引いた。中から何かが飛び出してくる可能性を考えての行動だったのだろう。

結果的に、その判断は正しかった。

「―――えっ?」

ドンドン、という音は扉を開けても鳴りやまなかった。それどころか、密閉性の高い扉を開いたことで余計にその音は廊下に反響した。
そしてその音圧に押されたかのように、誰かの体が部屋の中から倒れこんできた。

「な、何だぁ!?」
「だ、誰かが倒れちゃいましたよ!」

驚きの声を上げる子供たちを、私は窘めることが出来なかった。私の目は廊下の床に仰向けで横たわる男性の、苦悶に満ちた顔を捉え、掻き毟られた胸元のワイシャツを捉えていた。

そしてその胸元には、1本の細い果物ナイフが突き立てられていた。白いワイシャツは赤い血によって斑に染まり、今もその範囲をじわりじわりと広げていた。

その光景を目の当たりにし、脳がその情報を正しく理解した瞬間、私は自分の喉が急激に委縮したのを感じた。

「―――っ、」
「きゃあああああああっ!」

歩美ちゃんの甲高い悲鳴が、ドンドン、ドンドンと無限に続く音に紛れて広々とした廊下に響き渡った。

その時、キイ、と小さな音が鳴って、私は小さく肩を揺らして音のした方向を凝視した。
403号室の扉が僅かに開いていて、そこから顔色の悪い女性がこちらの様子を窺っていた。

(陽菜さん、)

先ほど部屋で別れた時よりもよほど不安そうな顔をしながら、彼女は無言でこちらの様子を窺っていた。けれど私と目が合ったことに気が付くと、彼女はバツが悪そうに視線を逸らし、ゆっくりと部屋の扉を閉めた。

様々な思惑が交錯する長い夜は、私の願いに反してもうしばらく終わってくれそうになかった。

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