03




降谷さん×部下。風邪っ引きの看病に来る降谷さん。




真っ赤に染まった頬、潤んだ瞳、荒い呼吸。
今の私はどこからどう見ても、立派な風邪っ引きだった。
1枚の膜を通して世界を見つめているかのように、全ての現象に現実味が感じられなかった。ぶよぶよの生温いゼリーに全身が包まれているみたいだ。


「お前、体調が悪いんだろう。今すぐ荷物をまとめて家に帰れ」


そう直属の上司から言われたのは、今から2時間ほど前の話である。この所、面倒くさい事件の処理で3日ほど徹夜が続いていたから、自分の顔が凶悪になっている自覚はあった。食事だって3食ゼリー飲料で済ませていたから、どこかしら機能不全を来していても不思議ではない。
けれど、自分では一切自覚していなかった体調の悪さを、よりにもよってこの上司に見抜かれるとは思ってもみなかった。

上司の名前は降谷零という。潜入捜査や探偵業で何かと忙しい人で、滅多に本庁にいないから、今日会ったのも実に1か月ぶりのことである。そんな相手に目が合って早々に冒頭の台詞を突き付けられ、周りの同僚も一斉に驚きの声を上げていた。つまりはいつも顔を合わせる同僚にも、私の体調不良は見抜けなかったということだ。なのにこの上司様の目は誤魔化すことが出来なかった。

上司の言い付け通り、私は自分のデスクを片付けて即座に家に戻った。他の皆に風邪をうつすことは避けたい。それに実際問題、そろそろ視界が霞んできて仕事にならないとも思ったのだ。

家に帰ったからと言って、出迎えてくれる人がいる訳ではない。仕事柄家族は持たない方がいいだろうと思っているし、ペットの類も飼ってはいなかった。
1人暮らしの怖い所は、こういう時にすかさず手を差し伸べて助けてくれる人がいないことだ。寂しい訳じゃないし、人肌が恋しいとも思わないけれど、不便だな、とは思う。

家族が居なければ恋人に頼ればいいじゃない、と思う人もいるかも知れない。けれど私の恋人というのは多忙を絵に描いたような人間で、お互いの都合が重なってゆっくり会える機会なんてものは3ヵ月に1回あればいい方だ。つまり1シーズンに1回だ。

恋人の名前は降谷零という。このくだりさっきも見たって?ええその通り、先程私の体調不良を見抜いた上司というのが私の恋人である。同僚には一応伏せておいたのだけれど、今日1日で知られてしまったかもしれないな、と自嘲した。

私はだるいと訴えかける体を無理やり起こして、冷蔵庫に飲み物を取りに行った。体調不良時にはアクエリアスよりもポカリスエットの方がいいと言われている。コップに入れた冷たいポカリが熱を持った喉を通っていく。その感触が心地よくて、私はほうと息を吐いた。

(体調管理も出来ないなんて、情けないな……)

私は怠い体を引きずって、再びベッドに潜り込んだ。投げ出された手足が酷く重い。
熱でぼんやりする頭と、ぐるぐると胃の中を掻き回されるような嘔吐感と。2つの不快な感覚に苛まれながら、私は何とか体を休めようと瞼を閉じた。



しばらく経って気が付くと、数時間が経過していた。明かりを点けたまま意識を失ったような気がするけれど、寝室の照明は豆電球のみが点灯していた。
そしてドアを隔てた向こうから、慣れ親しんだ気配が感じられた。それは多忙を絵に描いたような上司様兼恋人のもので間違いなかった。

降谷さん。かさかさに乾いた喉で、小さく小さくそう呼んだ。彼のいるリビングまで到底届くはずもないその音を、けれど彼は聴いていたかのようにドアを開けた。

「……目が覚めたか。何か食べられるか?」

本庁で会った時は、険しい顔をしていた。厳しい表情のまま、お前は今日は役立たずだからさっさと帰れと告げられた。
けれど今は、心の底から私を慈しんでくれる恋人の顔をしていた。

「降谷さぁん……」

子犬が鳴くような声が出た。こんなみっともない姿を見られるのは嫌だったし迷惑を掛けたくはなかったけれど、彼はまったく厭わずに部屋の中に入ってきてくれた。

「どうした?寂しくなったのか」
「入ってきちゃだめです。うつります、よ」
「そんなにやわな鍛え方はしていないさ」
「うう……、すみません。鍛え方が足りなくて」
「そういう意味で言ったんじゃない。男と女じゃ基礎体力が違うだろう」

起きられるか、と言って差し伸べられた手に、私はおずおずと指を絡めた。普段は私よりも温かい手が、今はひんやりとして気持ちよかった。

「汗で張り付いて、きもちわるい……」
「そうだろうな。着替えを出しても構わないか?」
「ええ。そこのチェストの3段目に入ってます」

ベッドの横のサイドボードには、ご丁寧に体を拭うための濡れタオルが準備されていた。着ていた部屋着を脱ぎ捨てて、有り難くそれを拝借する。

「ほら、下着も替えてしまえ」
「……降谷さんのえっち。こっち見ないでくださいよ」
「断る。背中きちんと拭けてないぞ、貸してみろ」

言うが早いか、彼は私の手から濡れタオルを取り上げた。肩を掴んで体を反転させられる。ひんやりしたそれが背中を撫でていく感触に、私は両手を胸の前で握り締めた。ブラジャーのホックが外されて、慌ててずり落ちないように布地を押える。

心臓に悪い清拭の時間は、そう長くはなかった。けれど清潔な下着と部屋着に着替え終わった時には、緊張で強張っていた体から一気に力が抜けて、私は上半身を降谷さんの体に凭れかけた。

「よしよし、よく頑張った」
「降谷さんのせいで、熱が上がった気がします……」
「ただの褒め言葉だな。ところで、何か食べられそうか?」

私はふるふると首を振った。それよりも、今、背中で感じる温もりが離れて行ってしまうことが嫌だった。
忙しいはずのこの人が、私のために時間を作って会いに来てくれたことが何よりも嬉しかった。

「降谷さん」
「うん?」
「治ったら、またビシバシしごいてくださって結構です」

だから今は、あなたの腕の中で守られているだけの女でいさせてほしい。弱弱しい声でそう告げると、厳しい上司様兼どこまでも私に甘い恋人は、肩を揺らしながら穏やかに笑った。

「ああ。だから今は、安心して眠ってろ」

ゆっくりと体を倒されて、頭をひんやりした掌が撫でていく。優しい感触に睡眠欲が刺激され、再び意識が混濁し始めた。

先程覚えた寂しさは、もうどこにも残っていなかった。そのことに安心して、私は大人しく睡魔に身を委ねることにした。



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