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事件の翌日、私は毛利探偵事務所を訪れた。帰国してから一度も蘭ちゃん達に直接会えなかったことと、毛利さんを犯人に仕立て上げるのに数々の工作を行ったことから、せめてものお詫びにとドイツで買ってきた菓子折りとビールを持ってきたのである。

「さくらさん!帰国してたんですね!」
「ええ。本当はもう少し前に帰って来てたんだけど、色々とバタバタしてて。ニュースを見てびっくりしたわ。毛利さんも蘭ちゃんも、色々とお疲れ様でした」

どの口が言うか、と自分で突っ込みを入れながら、名目上はお見舞いと称したお土産を蘭ちゃんに渡す。蘭ちゃんのお母さんにあたる妃英理さんもこの日は毛利さんの家に居て、私のお菓子を見て嬉しそうな声を上げた。

「まあ、わざわざ悪いわねぇ。よかったら上がっていかない?」
「あ、いえ。親子水入らずのところ申し訳ないですし……」

お昼時に来てしまったものだから、ちらりと見えた居間のテーブルにはお食事が乗ったままだった。毛利さんがその下で、口から泡を吹きながら伸びているのは一体どうしたことだろう。

「あらそう?でも、今度はゆっくり遊びに来てちょうだいね。蘭からあなたの話は時々聴いていたの」
「そうなんですか?嬉しいな。ええ、次は是非」

私が帰ろうと玄関のドアを押した時、外から誰かが扉を引いたのが解った。あると思っていた抵抗感が全くなかったせいで、私の体は慣性の法則に従って前へ倒れそうになる。

「っと、すみません。大丈夫……」

けれど、それを支えてくれた人影があった。抱えていたサンドイッチの大皿を器用に避けて、私の体を受け止めてくれたのは、零さん、もとい“安室透”だった。

抱き留められた時に至近距離で目が合って、私は昨日の会話を思い出してしまった。
そうだ。彼は昨日から、私の―――恋人になったのだ。

「あ、安室さん。ごめんなさい、ぼーっとしてて」
「いいえ。お怪我はありませんでしたか、さくらさん」

彼は昨日、そこそこ血が噴き出すほどの怪我をしていたはずだ。私が慌てて体を離すと、彼は実に爽やかに微笑んで言った。自分こそ、痛みを隠して今日もバイトに入っているくせに。

「私は何ともありません。安室さんこそ、どこかぶつけたりしませんでしたか」
「平気ですよ。心配してくださって、ありがとうございます」

彼は私が言いたい意味が解っていて、そのうえで平気だと言い切った。これ以上はここで問答しても無駄である。私はそのままフェードアウトしようとしたのに、それを遮るようにコナン君がわざとらしく大声を上げた。

「どうしたの?安室さん。そんなに慌てて出てきちゃって」
「やあ、コナン君。慌ててって、どういう意味かな?」

コナン君は安室さんが持ってきたサンドイッチを指差して、ほら、と言った。

「いつもはきっちり切り揃えられてるのに、今日はちょっとだけ寄ってるし、ラップも重なっちゃってるよ。誰かの姿が見えたから、その人がここから帰る前に急いで来ようとしたんじゃない?」

漫画だったらにっこー、と効果音でもついていそうなイイ笑顔で、コナン君は私を見上げた。勿論それを見逃す蘭ちゃんではない。

「えっ、それって……!」
「あら、もしかして安室さん、さくらさんを追い掛けて、急いで持ってきてくれたの?」

英理さんの悪気のないトドメの一言に、私は頬が熱を持つのが解った。もしもそれが本当なのだとしたら、彼も少しは私に会えると思って浮かれていたのだろうか。
ほんの一瞬でも、私の顔を見たいと思ってくれていたのだろうか。

蘭ちゃんと英理さん、おまけに私からも期待するような眼差しを向けられて、零さんは困ったように眉を下げた。

「コナン君に隠し事は出来ないなあ。そうだよ、さくらさんに会えるかもって、実は少し期待してたんだ」

だから少し見た目が悪いんですが、よかったらと言って彼は手に持った大皿を差し出した。蘭ちゃんはそんなの気にしないでください!と答えて、むしろ嬉しそうにそれを受け取った。
蘭ちゃんと英理さんが奥に下がると、コナン君は面白くなさそうに唇を突き出した。

「なぁんだ、さくらさんが照れてあたふたしてる顔が見られると思ったのに」
「え?……ああ、そういう狙いだったのね」

彼は私が零さんとの仲を揶揄われて、焦っている様子が見たかったのだと言った。だけど私が慌てる様子もなく零さんの言葉を待っていたから、期待が外れてしまったのだ。

「さくらさんの照れた顔は高いんだよ。小学生には払えない」
「人聞きの悪いことを言わないでください。精々カクテル数杯じゃないですか」
「十分、小学生にはきつい値段ですよ。それにあなたの照れた顔は、僕だけが知っていればいい」

そう言って彼は私の頭を自分の胸に抱き寄せた。頭に唇が降ってくる。それは一瞬だけだったけれど、彼の香りが胸いっぱいに広がって、私は人前ということも忘れて頬を緩めた。

「あー、ごめん。僕が悪かったから、惚気はよそでやって」

コナン君はほんのりと頬を染めて、わざとらしく咳をした。零さんは子供には刺激が強かったね、と意地悪く笑って私の手首を握った。

「それじゃ、さくらさんは借りていきます。コナン君も蘭さんも、毛利先生も奥様も、お疲れのところ失礼しました」
「すみません、これで失礼します。蘭ちゃん、もうしばらくこっちにいるからまた遊びに行きましょうね」

部屋の奥に向かって声を掛けると、蘭ちゃんは慌ててこちらに出てきた。是非また誘ってください、という声ににっこりと微笑みを返し、私達は毛利さん宅を後にした。

*****

階段を下りてポアロの前に立つと、僕はさくらの手首を離した。

「さくらさん、今週の土曜日の夜、空いてませんか?」

と訊くと、彼女はスマホを取り出した。スケジュールを確認し、小さく頷く。

「ええ。空いてます」
「それじゃ、その日に2人で食事に行きましょう。あんまり先延ばしにしたくはないので」
「本当に?」

嬉しい、と言ってぱっと表情を明るくするのが可愛くて、僕も作り笑いではない微笑みが零れた。

さっきコナン君に鎌を掛けられた時、彼女がどんな顔をするだろうと少し気になった。僕の恋人になったことをコナン君に知られるのが嫌だというなら、誤魔化す準備も出来ていた。
けれどあんなに期待に満ちた目で、僕から“会いたかった”という言葉を聴きたがるとは思わなかった。

(本当に、彼女は時々びっくりするほど素直になるから性質が悪い)

それに一々翻弄されるこちらの身にもなって欲しい。そんな自分も嫌いではないが。
僕が内心でそんな文句を言っていると、彼女は黙り込んだ僕を見て小首を傾げた。

「安室さん?」
「ああ、すみません。この後、時間があればポアロに寄って行きませんか?」
「ごめんなさい。これから大学の先輩と会う予定があって」
「……先輩って、男性ですか?」

僕が真顔で発した言葉に、彼女はきょとんと目を丸くした。やがて僕が言いたい意味が伝わったのか、ぽかんと口まで丸くした。

「……え?嫉妬……ですか?」
「嫉妬です。そんなに意外ですか?」
「意外、というか……そんなことを言われたのが初めてなので、何だかちょっと新鮮というか」

安室さんって嫉妬とかするんですね、と彼女はおかしそうに目を細めた。
今までは恋人ではなかったから、互いの人間関係に口を出すことはしなかった。けれどもう彼女は僕のものになったのだ。自分以外の人間と会うと聴いて、多少気にするくらいは許されるだろう。

「嫉妬深い男は嫌いですか?」
「嫉妬深い安室さんのことは、……好きです」

安室さんの恋人ってこんな感じなんですね、と言って彼女は照れ臭そうに両手で口元を覆った。今日はどこまでも素直な日らしい。可愛すぎて眩暈がしそうだ。

「先輩って言っても、1人じゃありませんよ。男の人もいますし、女の人もいます。だから安室さんが心配する必要なんてありませんよ」

その答えを聴いて、僕の口から安堵の溜息が漏れた。彼女はそれを見て、益々嬉しそうに笑みを深くする。

「それならよかった。それじゃ、また時間がある時にお店に来てくださいね」
「ええ、安室さんもバイト頑張ってください」

彼女はそう言って、弾む足取りで米花駅へ続く道を歩いて行った。その背中を見守りながら、僕は平穏が戻ってきたことを実感した。

土曜日は、どうやって彼女をエスコートしよう。弾む胸を押さえつけながら、僕はポアロのドアを開けた。


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