これの続き










スクール鞄のファスナーをゆっくりと開けた先で、やはり真っ先に目に飛び込んできたそれ・・に思わず固唾を呑んだ。
タッパーに詰めて持参した形の悪いチョコやクッキーとは違い、とびきり丁寧にラッピングを施した、それもまた特別形の綺麗なトリュフチョコレートとクッキーを詰め込んだ小箱は一際存在感を放ち、絶対に手放すんだぞと無言の圧力を放っている。
どこからどう見ても本命でしかない小箱だが、果たして小箱の要望通りに手放せるかどうか。

まさかここまで自分が意気地なしだとは思いもしなかった。
否、思い返せば意気地はある方だ。
未就学児だった頃から一丁前に好きな男の子にはチョコをプレゼントしていたし、受験でサボってしまった去年以外は欠かさずにバレンタインデーという行事をこなしていた。

一つ違いがあるとすれば、チョコを贈る相手との距離感だろうか。

好きだからバレンタインデーにチョコをあげる。
あげはするものの、だからと言って相手からも同じ思いを返してほしかったわけではなかった。
ホワイトデーだって、お返しに「俺も好きだ」という返事を添えてほしかったわけではない。
ただ、自分が"好きな人のためにチョコを用意する"というイベントを楽しみたいがための、所謂エゴまみれのバレンタインを過ごしてきた。

だけど、今年はどうだろう。
本命チョコを渡すことに対して、前ほど気楽に考えることができないでいる。

彼───紗月くんとは、この机を通して知り合った。
定時制の生徒として私の机を使っていた紗月くんが、机の中に消しゴムの忘れ物をしたことがきっかけだった。

はじめは忘れ物を教えるためにメモ書きを残したつもりが、意外にもメモで交わす一言だけのやり取りが二人の間で弾み、連絡ツールが発達したこの時代にペンフレンドのような存在になった。
一度だけ直接会ったことがあったけれど───とは言ってもすれ違った程度だ───、まだお互いの名前を知る前だったので、彼のなかで私の顔と名前が一致しているかどうかは正直怪しい。
それでも私のなかには"紗月くん"がしっかりと棲みついて、いつの頃からか好きだという感情を自覚した。

直接話したこともない人を好きになるだなんて、と自分に呆れかけたこともあったが、世の中にはチャットで恋愛を楽しむ人もいるし、何よりも文通が主流だった時代はペンフレンドを好きになることも普通にあったらしい。
そう考えると気が楽になって、紗月くんへの恋心に少しだけ勇気が出た。
けれど、チョコを渡す勇気まではいまだ燻っている。

心なしか甘い残り香が漂う教室はいつもとは違った雰囲気があり、それが余計に気持ちを疼かせる。
美味しくなかったらどうしよう。
細心の注意は払ったけど、髪の毛とか、異物の混入があったらどうしよう。
友達は美味しいと言ってはくれたものの、友達の作ったお菓子の方が断然美味しかった。

早くしないと、もうすぐ夜間の人たちが来てしまう。

意を決してスクール鞄に手を差し込み、片手で掴んだ小箱をそっと机の中に忍ばせる。
いつも使っているメモと同じものを一枚千切って、紙面には机の中のものを受け取ってほしいとメッセージを書き残した。

人気のまばらな廊下を歩いている間も、昇降口で靴を履き替えている間も、何度も教室に戻ってしまいたくなった。
教室から離れれば離れる程、机のなかに置いてきたお菓子に対する自信もなくなり、彼に好意を示すことへの不安も大きくなる。
作ろうと心に決めた時はあんなにもわくわくしていたのに、いざ手元を離れるとどうしてこうも後悔にも似た感情に苛まれるのだろうか。

無理やりにでも歩かないとすぐにUターンしそうになる足を動かしていると、前方から私服の二人組が歩いてくるのが見えた。
盗み聞きをするつもりはなかったのだけど、お互いの間隔が縮まるほどに彼らの会話が鮮明に耳に届くようになる。


「昼に比べると女子の数少ないし不利だよなぁ」
「まあでも、義理すらもらえるかもわかんねぇ他クラスの女子が多いより、義理でも高確率でくれる女子がクラスに多い方がよくね?」
「それもそうか」


同じ学校の、夜間の人だと理解する。
ちょうど彼らと同じ夜間の紗月くんについて悶々としていたので、少しだけ動揺してしまった。
夜間のクラスはひとクラスしかない。
そうとなると、彼らは必然的に紗月くんと同じクラスの人だ。
紗月くんと同じ教室で、同じ時間に同じ授業を受けるのだと思うと少し羨ましく思えた。

夜間は女の子の割合が高いのか、と本来であればあまり知り得ない情報に妙な感動を覚えていると、彼らの次の言葉に無意識に足が止まる。


「あー、でも昨日の席替えで廊下側になったのだけが無理。この時期まじで寒ィ」


席替え。
その四文字を理解するが早いか、私は弾かれるように踵を返して来た道を戻った。

席替えをしたということは、私の机を使う人が紗月くんではない別の人になっているということだ。
どうして教えてくれなかったのかと考えかけたが、そもそもあのやり取りは二人でひっそりと行っていたことだ。
自分の席でもなんでもなくなってしまった机のなかにメモを残すなんて、下手をすれば偶然目撃していた人に不審がられてメモを見られていた可能性もある。

つい数分前に歩いたばかりの廊下を駆け抜けて、まだ誰もいない教室に転がり込む。
一目散に自分の机へと駆け寄り、机の上に貼り付けたメモ帳を毟り取って、同時に机のなかから例の小箱を救出する。
なんで戻ってきたんだよ!と小箱に文句を言われているような気持ちになったけれど、それ以上に安堵感が勝った。


「……どうしよう」


完全に行き場を失った小箱を両手で抱えて、一人きりの教室で呟く。
彼の出席番号がわからない以上、靴箱を探し当てることもできない。
門前で待ち伏せするのもあからさますぎる。

バレンタインに、こんなにもまごついたことはなかった。


「勝負するまでもなく今年も僕の勝ちでしょ」
「まだわかんねェだろンなことは!───って」


反射的に、教室の入口を振り返る。
紗月くんの顔を見たのは、彼の名前を知ったあの日以来だった。
一瞬にして、教室のなかに柑橘系の香りが満ちた気がした。


「お前……」


ドクン、ドクン、ドクン。
鼓膜のすぐそばで、信じられないくらいに早い鼓動が鳴り響く。
それ以外の音が聞こえないくらいだった。

紗月くんは鋭い目尻を丸くさせて、驚いた様子で私を見つめている。
隣りの男の子は「知り合い?」と首を傾げて交互に私と紗月くんへと目を配った。

手の中の小箱を、一度だけぎゅっと握る。


「───あの!」


顔じゅうが熱い。
制服の下にも、汗が滲んでいる気がする。
賢明に紡いだ声は、情けないことに少しだけ震えていた。

話しかけたはいいものの、正直切り出し方がわからない。
他の人がいる手前、この場でチョコを渡すのも正解とは思えなかった。

二の句を告げられずにいると、一足先にハッとした紗月くんがこちらに近づいてきた。


「ちょっと来い」
「えっ」


腕を掴まれて、そのまま教室から連れ出される。
彼の真後ろについて歩くだけで、あの柑橘の香しさがダイレクトに伝わってくる。
紗月くんの手は大きくて、同じクラスの男の子よりもごつごつしているように思えた。

混乱と動揺、それからほんの少しの冷静さをもって彼を観察していると、特別教室が寄り集まる棟に繋がる渡り廊下に出ていた。


「お前、"名前"だよな」


振り返りながらそう訊ねてきた紗月くんの言葉に、胸がきゅっと高鳴る。
顔も名前も覚えられていないとばかり思っていたので、あの日から彼の記憶に自分がいたことが嬉しかった。


「う、うん、そうだよ。紗月くん、私、名前です」
「俺のことも知っててくれたんだな!」


私が彼の名前を紡げば、紗月くんは目尻を緩めて快活に笑った。


「俺、一回でいいからお前と話してみたかったんだよ」
「!わ、私も!」


改めて聴く、紗月くんの声。
少しだけ高くて、元気な印象と一緒にどことなく色っぽさもある。
ピアスがたくさんあいている。
身に着けているアクセサリーも、一つひとつの存在感が凄い。
おでこの形が綺麗だ。
時折見える犬歯がかわいらしい。

初めての距離で、紗月くんをしっかりと焼き付ける。


「文字を通して、文字だけじゃわからない紗月くんがすごく気になった」


後手に持った小箱を、最後に一度だけ意識する。


「気になって、知りたいって思った」


手を解いて、小箱を紗月くんの前に差し出す。


「受け取ってください」


直接チョコを渡したのは、初めてだった。
完全犯罪を実行するみたいに、靴箱に入れたり、家のポストに入れたり。
面と向かってチョコを渡すことが、こんなにも緊張することだなんて知らなかった。

箱を持つ手が震える。
顔の熱さなんて、もうどうなっているのかさえもわからない。
紗月くんの顔が、見れなかった。


「───い、いいのか…?」


固まった空気を解いたのは、紗月くんだった。
なぜか神妙な面持ちで箱を見下ろしていて、おかげで少しずつ冷静さを取り戻す。


「うん、もらってほしい、です」
「お、オウ……」


まるで国宝に触れるみたいな手つきで、紗月くんの手が箱を攫っていった。

そして、ギョッとする。

泣いていた。
紗月くんが。
手のなかのチョコレートを見て。
目尻に涙を浮かべていた。


「え?あ…え?」


泣くほど嫌だったのだろうか。
まさか泣かれるとはこれっぽっちも予想していなかったので、突然の出来事に今日一番の動揺が沸き上がった。


「ッ、悪ィ!すげェ嬉しい!」


私の視線に気づいたのか、素早く涙を拭った紗月くんが満面の笑みを浮かべる。
たったそれだけのことで、胸のなかにじわっとした温もりが広がった。
よかった、嫌だったわけじゃなかったみたいで。

おもちゃを買い与えられた子ども顔負けの様子でうきうきしている紗月くんを眺めて、つられて笑みがこぼれた。


「そうだ、連絡先教えてくんね?」


渡して満足するはずだったのに、彼からの言葉に、ついその先の欲が顔を出す。
返事なんて要らないと思っていたのに、紗月くんとの"これから"を期待する自分がいる。


「俺も、名前のこともっと知りてェんだ」


今度は私の目尻が微かに濡れた気がした。







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