生理ネタ強めです













今日一日の気分が分厚い分厚い壁の向こう側に広がる海底と同じ色であることは、私にとっては昨晩からの決定事項だった。
大好きな銘柄のアイスクリームでさえも、この気持ちは絶対に変えられない。

この期間だけは椅子との喧嘩が増えることも困る。
基本的に座りっぱなしになる仕事のため、各人に与えられているチェアは体の構造に合わせて云々の高品質なものだと言うのに、この時ばかりは手放しで全身を預けることができない。

出勤前のカフェで購入したホットミルクのミルク・・・を豆乳に変えてもらったものも、毎月の恒例だなと思える。
全身の倦怠感を解いていく優しい味が、嬉しくもあり悲しくもあった。

働き方改革が進みつつあるとは言え、引き継ぎもしていない状態で当日欠勤は憚られる。
そもそも、基本的には休むほど具合が悪いわけでもないのだ。

平常時と比較しても業務クオリティは下がらないし、モニターを直視できないほど頭が働かないということでもない。
稀に座っていられない程に痛む時もあるが、今日はその兆候も見られない。
ただ先月同様に下腹部が熱を持ち、ゆっくりと痺れているような怠さが腰の周りにぶら下がっているくらいなので、私のなかで休むという選択肢はなかった。

つまり、今月の生理は大人しい方だが、生理期間というだけで気持ちは心底ブルーと言うことだ。
痛みがない分、マシだと思うことにしたい―――前に痛みが酷かった時に婦人科に行こうと誓ったはずなのに、その後の生理期間が安定していたことで億劫になってしまった―――。


「名前、おはよう」


もぞもぞと座り直したところで、長い指先がデスクの表面を二度叩いた。
ベースコートだけを塗った爪の持ち主にハッとして顔を上げれば、ホットミルクの赤いカップとは異なる白のカップを手にした同僚のグレースがこちらを見下ろしていた。


「おはよう、グレース」
「今日はコーヒーじゃないのね」
「カフェインNGの日なの」


両手の指をクロスさせてそう返せば、グレースは僅かに眉を持ち上げた。
生理期間に出る症状は人によって異なるものの、摂取を控えるべき成分は変わりない。
きっとそれで察してくれたのだろう。

デスクの上に置いていた赤の隣に、白のカップがコトンと並ぶ。
意味もなくその様子を眺めていた私を影が覆った。


「いつも思うけど、顔を見るだけじゃわからないわ」
「まあ、今日は体調も酷くないし」
「そうじゃないわよ。肌が荒れないのねって話」


グレースの指が顎を掬って、右へ左へ上へ下へと動かされる。

生理前、生理中を問わず、私はどちらかと言えば感情面や体調に現れるタイプだ。
しかし肌の質感が通常運転とは言え、私から言わせれば彼女ほどの肌荒れとは無縁な人にこうも至近距離で観察されるのは恥ずかしい。


「ありがたい話ですよ、お肌に影響が出ないことは」


それとなくグレースの指から抜け出して、照れ隠しに赤色のカップに手を伸ばして中身を呷る。
最後の一口が、舌の上を伝って喉奥へと流れていった。


「でもそれじゃあ私が名前の体調に気づいてあげられないでしょ」
「気づいたら優しくしてくれるの?」
「もちろんじゃない」


そうは言うものの、グレースはいつだって優しい同僚だ。
変わらない業務量を抱えているにも関わらず、常に周囲に気を配っては手を貸している。
もちろんその対象には私も含まれていて、驚くほど完璧なタイミングでコーヒーや甘味を差し入れてくれたり、少しでも手こずれば親身になって解決してくれる。

冗談のつもりで叩いた軽口に思いの外真剣なトーンが返ってきたものなので、言葉に困って中指の腹で下唇を軽く押さえつけた。


「あ」


ぽんぽんと動かしていた中指を、僅かに左右にスライドさせる。
私のデスクから自身のデスクへと翻ろうとしていたグレースが、脚を止めてくるりと半身だけ振り返った。


「どうかしたの?」
「肌には出ないけど、唇にはちょーっとだけ出る」
「唇は荒れるってこと?」
「うん。リップパックもしてるし、最後にグロスもするから忘れてたけど、今触って思い出した」


グロスの剥げた唇は今やティントのみが乗っている状態で、指の腹に僅かなささくれをダイレクトに伝えてくる。
荒れるとは言っても普段と比べると多少という程度であり、血が出たり皮が裂けたりする程ではない。
それでもこれは確実に、唯一顔に表れる生理中の症状だ。

私はポケットにしまっているティントをおもむろに取り出して、「これ最近のおすすめ」とグレースに見せびらかす。
その海外メーカーのティントは、プチプラの割に保湿力が高く、何より塗り広げた時の色の広がり方が可愛くて気に入っている。

唇の流れで紡いだ一貫性のない話題だと言うのに、しっかりと興味を示してくれたグレースは再びこちらへと身を寄せた。
ささやかな雑談が、始業前の私の楽しみだった。


「今つけてるのもそれ?」
「うん、これよ」


容器に記されたカラーナンバーと私の唇を交互に見やり、グレースは「綺麗な色ね」と零す。


「それより、全然荒れてないじゃない」
「当社比で荒れてるの」


確かにパッと見は荒れているようには見えないのかもしれないが、普段から美容やケアに余念がない私からすれば、平常と異なるコンディションは敵にしか思えない。

特に、グレースは私から見ても美しいひとだったので、そんな彼女の隣のデスクで働くともなれば余計に意識してしまう。
彼女に、少しでも綺麗と思ってほしいのだ。

不満を訴えるように唇を突き出してこれは荒れているのだと体現していると、グレースは何を思ったのか、人差し指と中指で私の唇をふにゅりと挟んで不適な笑みを浮かべた。


「素敵な唇よ。キスしたくなる」


じん、とおでこの生え際が熱くなった。
今度こそ言葉を失った私を見て、彼女はさらに追い打ちをかけてきた。


「次からは名前の唇をよく観察するようにするわね。心配だもの」


なんとなく、心配の部分が取って付けたように聞こえたのは気のせいだろうか。

朝起きた時、生理がきたことで今日一日は憂鬱な気持ちで過ごすのだと確信していたのに、それがどうだろう。
たった数分のやり取りだけで、これほどまでに気分が明るくなる。
仕事終わりに大好きな銘柄のアイスクリームを買って帰り、このことを思い返しながら部屋で深く味わいたい。

多くの人を魅了するグレースからもらった言葉はどれも、私の自己肯定感をこれでもかと擽ってくれた。


「……グレースには叶わないね」
「あら、私も貴女には叶わないわよ」


いつの間にかグレースがポケットにティントを戻してくれていたことも、空になった赤いコップを足下のゴミ箱に捨ててくれたことにも今になって気づいた私は、本日初めて手放しに全身をチェアに預けることになった。







あとがき







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