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「この辺りだったか…」
辺りをぐるりと見回しても特に異常はなく、更にその周辺も捜索したが何も見つけられなかった。
「気にし過ぎか…」
きっと隣人にはそう笑われるだろう。
最近、買い出しに行かされてばかりで疲れが溜まっているのかもしれない。
そう思い、強張った筋肉をほぐそうと首を回した時、ありえないものを目にした。
建物のずっと上に黒い影がポツリと揺らめいて、少しずつ遠ざかっていたのである。
「やっぱり…!」
見間違いではなかった。
慌てて追いかけるが、どうやら相手は人魚らしい。
シンが全力で追いかけているというのに距離は開くばかりで、見失わないようにするのがやっとだった。
「くそっ…!」
結局、脱走者の影を見失った頃には、かなり水面に近いところまで来ていた。
恐らくそのまま水上に出たのだろう。
しかも島が近く、更に今夜は満月で水中にまで光が射していた。
里を無断で出ただけでなく、陸へ上がったとなれば最悪だ。
しかも魔女の神殿を通らず直接上がれば、この悪条件の揃った中では人間に見つかり即捕まってしまうだろう。
シンもその危険に晒されているのだが、嫌な予感がしたので意を決して海面に顔を出した。
岩場の多い海岸なのですぐに身を隠すことが出来たが、脱走した人魚の姿は見当たらない。
岩場から岩場へ、隠れながら慎重に捜索していると、どこからか話し声が聞こえた。
慌てて身を隠すと、月明かりに照らされた二つの影が見えた。
「それで…、〜が……でね」
「じゃ…〜、…は…」
小声で話しているようで微かにしか聞こえないが、二つの影は仲睦まじそうに見えた。
その一方の末尾は海に浸かっており、人間でないことが窺える。
シンは頭を抱えた。
このことが露見すれば、あの人魚はただでは済まない。
連れ戻そうにも人間が側にいて近寄れない。
二人は話に夢中で、帰る様子もない。
仕方がないので、いったん里に戻って長老たちに報告するほかなさそうだ。
しばらく様子を見てから、シンは諦めて潜ろうとした時だった。
「きゃっ!」
「うわっ!」
小さい悲鳴のような声が聞こえた。
その声に聞き覚えがあって振り返ると、人魚の体が肩まで海に浸かっていた。
どうやら岩場から落ちたようで、人間が手を差し伸べて再び引き上げていた。
なんて間抜けな人魚なんだ、と思うと同時に、そんな間抜けな人魚が他にいるだろうか、という思いが巡った。
いつの間にか心臓がうるさいほどに脈打っていて、どうか悪い予感が当たらないで欲しいと願いながら、シンはコッソリと二人に近付いた。
しかし、すぐにシンはそれを後悔した。
近付けば近付くほどに二人の輪郭がはっきりと捉えられて、顔も髪も姿も身振りも、その全てに見覚えがあった。
見間違いかもしれない、別人かもしれない。
否定したい一心で二人へ近づいたが、逆に否定する要素を排除する結果となってしまった。
「リル…」
最早、間違えようもなかった。
シンが童話を読んであげた時のように瞳を輝かせ、側に隠れているシンにも気付かず楽しそうに話すリルがいた。
「何故…」
確かにリルは陸の上のことや人間に興味をもっていた。
それでも、シンや祖父の言いつけを守って、素直に聞き分けていた。
それが、まさか決まりを破ってまで陸に上がってるなんて思いもしなかった。
裏切られたように感じたシンは、ショックで何も考えられなくなり、静かに海に潜った。
「一体、どうしたら…」
そう呟いてから、シンはハッとした。
つい先ほどまでは長老に報告しようと思っていたのに、正体が知れた途端にそれを躊躇っている自分がいた。
いくら決まりを破ったとはいえ、妹同然のリルを罪びとにはしたくなかった。