彩り豊かな花々が風に揺れ、青空の下で天使の梯子が差している。雅で、実に風光明媚な情景の中、ルミエール宮がティーカップを片手に、瞳を伏せて紅茶を味わっている。
肩下あたりに揃えられた柔らかな癖毛が光の中で金の糸のようにきらめいた。
そして、その美しい情景を最も美しく彩る花がハンコックだった。ソニアとマリーが庭の花を摘み、花冠を編んで微笑み合っている。ハンコックはルミエール宮の向かい側に座り、それを眺めていた。
「ルミエール宮!」
「姉様!」
笑みを頬に浮かべてふたりが駆け寄ってきた。少し前に比べて、ふたりはずいぶん解放的な笑顔を浮かべられるようになった。
それぞれ、花冠をひとつずつ持ち、機嫌をうかがうようにルミエール宮を見上げた。彼女のほうが小さく、椅子に座っているから見下ろす形なのに、ただしく見上げる視線だ。
「その…これ……ルミエール宮に…」
「まぁ、わたくしに?きれいアマス。つけてちょうだい、ソニア」
「は、はい!」
嬉しそうにソニアがルミエール宮の頭に冠をかぶせた。白とピンクの花で編まれたそれは、彼女の明るい金髪に、たしかに見事に映えている。
「姉様にも」
マリーも微笑んでハンコックにかぶせる。水色と淡い黄色で、艶やかな黒髪をさらに際立たせた。
食事会を終え、平穏な日々がしばらく続いていた。
初日の時に見た、おぞましい血塗れの所業はあれ以来起こらなかった。だが、時折他の天竜人との食事会に駆り出され、何回か奴隷を屠った。
たしかにおぞましい所業のはずなのに、昔の仕打ちが酷(むご)すぎて、この白亜の宮殿での生活が相対的にまほろばのように感じてしまう。
ハンコックは何度も憎悪を胸の内で吐いた。
妹たちは、昔よりマシになったことで、明るくなった。それは嬉しいことだけれども、奴隷として尊厳をすべて奪われていることに、なんの変わりがあるだろうか。
自分だけは。
わらわだけは、すべてを呪い、憎み、幸せだなんて思ったりしない。…
絶望するのも、憤怒を燃やし続けるのも、何かに憎悪を向け続けるのも、ひどく、ひどく疲れることだった。
気が緩んだとき、何度も死にたいと願った。
朝が来なければいいと思った。
眠るように永遠に起き上がらない日を夢見た。
諦めてしまえば楽だっただろう。自分の血潮が吹き出すことに縋りたくなった。
けれど、折れなかったのは、ひとえにハンコックが誇り高き九蛇の海賊団だったからだ。海の戦士だったからだ。
天竜人を許せば……ルミエール宮を僅かにでも認めたら、希望を持ったら、すなわち過去を肯定することになってしまう。奴隷である自分たちを認めることになってしまう。受けた仕打ちを受け入れることになってしまう。
苦しみや絶望が風化し、偽りのまほろばに揺蕩う。
そんな甘美な現実はいらない。
ハンコックは奴隷だ。ただそれだけが現実だった。
「姉様も向こうに行きましょうよ」
「見たことがない蝶が飛んでるのよ」
「とっても綺麗なの!」
「興味が持てぬ。毎日鏡で最も美しいものを見ているのに、それ以上のものがあると思うのか?」
ほう……っと溜息をつくハンコックと同じように、ルミエール宮も、妹ふたりも蜜の溜息を洩らした。
「まったくその通りだったわ!ごめんなさい、姉様」
「ふん…」
「あっ……!」
テーブルに手を付き、身を乗り出して謝ったせいで、揺れた拍子にシュガーポットが倒れた。一瞬時が止まる。
ハンコックさえ動けなかった。
テーブルに、さらさらと真っ白な山が出来ている。
「も……申し訳ありません、ルミエール宮!決してわざとでは……」
この天竜人の元に来てから数ヶ月が経っている。この人はほとんど怒らない。けれど、その分自分のラインに引っかかった奴隷には、とりわけ扱いが厳しい。
優雅なティータイムを壊すのは、おそらく、「美しさ」を損ねる……。
マリーが蒼白になって震え、ソニアとハンコックも固唾を飲んでルミエール宮を見守った。
彼女は一瞬眉根を寄せたが、「…まぁいいアマス。割れなかったのだし……」と寛大な微笑みを浮かべた。安堵が岩のように肩に襲いかかり、ドッドッドッと心臓が激しくポンプした。
「すぐ片付けを…」
「あら、あなた達がそんなことしなくていいのよ」
ゴールドのベルを鳴らすと、すさささと素早く奴隷が寄ってきた。雑用をするのは護衛の黒スーツの男たちの時もあれば、ルミエール宮の「鑑賞物」には至らなかった、ランクの低い奴隷の場合もある。
「はい、お呼びですか」
小さな明るい橙の髪の少女が、ニコニコッと陽気な笑顔でルミエール宮を従順に見つめた。
「机の上を片付けておくアマス。あと、そうね、紅茶のおかわりも」
「はい、すぐに取り掛かりますね!」
何が楽しいのか、その少女はまたニコニコニコッと音が鳴るように笑う。他の屋敷ではあまり見ないような、眩しいほどの笑顔だった。だが、目だけはどこまでも丸々としていて何を考えているか分からない。
顔立ちも愛嬌があり、ハンコックたちほどではないが、装飾の多い服を与えられている。
だからこそ、この少女が"雑用"の立場にされていることか、言い知れない不安があった。
ルミエール宮は美しいものが好む。
それは容姿であったり、体格であったり、愛嬌であったり、はたまた他人には分からない彼女の中の基準に沿うものであったりする。気に入ったものにはすこぶる厚遇を与えるが、彼女は期待外れであったり、飽いたものや、美しさが褪せたものには背筋が凍るほど残酷だった。
むごい扱いをするわけではない。
徹底的に無関心なのだ。
ハンコックは、この城で生活するにつれ見えてきた奴隷の階級と歪みに、ルミエール宮からの寵愛が失われる自分を幻視した。
「わたくしは掃除が終わるまで向こうに行っているわ」
「はい、急いで掃除を終わらせます。いってらっしゃいませ!」
本を持って歩き出したルミエール宮の背中をハンコックもシトシトと着いていく。花壇のそばの白いチェアに腰掛け、本を開く。
『聖地マリージョアの歩み』。タイトルにそう書いてあった。
「これは…?」
「歴史の本よ。先生に読むように言われたの」
天竜人は仕事を何もしなくていいと言っても、家庭教師をつけ、意外と勉強させられている。それが活かされているとはまったく思えないが。
「この本にはね、わたくし達天竜人が生まれてきただけで偉いと言われるようになった、祖先の方々の歴史が書かれているのよ。800年前の戦争が理由なんですって」
「800年前…」
世界政府が出来たのと同じ。下々民にも有名な歴史だ。
「先祖ががんばってくれたから、わたくしは今生きているのね。がんばらなくても大丈夫なように。だって、わたくしが戦争なんて、とても想像できないもの」
「……」
「そう考えると、わたくし達はとっても先祖に恵まれているわ。だから感謝しなくてはとおもうのよ。他のひとたちは働かなければいけないんでしょう?」
「…そうじゃな」
「先祖ががんばってくれなかったのかしら。かわいそうに」
血がカッと燃えたかと思った。
なんとか拳を握る。
天竜人の教育なんてこんなものなのか。学ぶのが、ただ自分たちの優位性を誇るものだなんて。
こんな愚かな人間に、自分たちの人生が左右される口惜しさに眼球の裏が痛む。
視線を逸らすと、先ほどの少女が目に飛び込んできた。
小さな身体でせっせと掃除をし、しゃがみこんで机も椅子も磨き込んでいる。
「あの者は…」
「ん?」
「あの、茶髪の。あの者はなぜ雑用なのじゃ?」
「なぜ?だって美しくないでしょ?」
「だが、あの服を見れば一時は寵愛を受けていたと分かる。そなたは何に飽いた?」
「ああ、違うアマス」
雑用に位置する奴隷は、ハンコックたち姉妹や、ステラやテゾーロのように着飾っていない。見た目は整えられているが、見れば雑用とひと目で分かる。ハンコックたちは煌びやかすぎるのだ。
天竜人であるルミエール宮と変わらないくらいに。
あの茶髪の少女だけが、他の雑用と違い、良い服を着ている。
けれどルミエール宮は手を振って笑った。
「違う?」
「あれはステラのお気に入りなの。前の天竜人のところで一緒だったんですって。それで、あの子もここに連れてきてほしいと頼まれたから譲ってもらっただけアマス」
「ステラの…」
ステラは金髪の優しげな雰囲気を持った奴隷で、ルミエール宮の教育係のような立場でもあった。ハンコックには理解し難いことに、天竜人のルミエール宮に慈愛めいた眼差しを注ぐことさえある。