02

 聞いてもいないのに、興味の欠片もなさそうな声でルミエール宮が話す。ハンコックたちに向ける声音とはまったく違った。

「あれは全然美しくないし、わたくしのコレクションとしてはまったく欲しくないのだけど。ステラが嬉しそうだからきれいにしてやってるアマス」
「……あの者の何がそなたにとって美しくないのじゃ」
「何が……?」
 彼女の美意識を確認するための問だった。彼女は首を傾げた末、考え込んでふつりと黙った。
 やがてゆったりと考えをまとめるように口を開く。

「んー……」
「……」
「あれは…笑ってるけど、笑ってない」
「!」
 それは幼い、8歳の子供が言うには鋭い意見だった。そして、ハンコックが少女に感じた違和感を的確にあらわす言葉だった。
「笑いたいなら笑えばいいし、泣きたいなら泣けばいい。怖いなら震えたらいい。でもあの子はいつも…笑ってるけど……笑ってない……アマス。べつに好きにしたらいいけど……美しくはないわ」

 よく分からなかった。
 ルミエール宮の言うことは理解出来る。あの少女の違和感は。けれど、それが「美しくない」ことに繋がる理由は分からない。
 ハンコックがさらに質問を重ねようとしたところで、ルミエール宮が「あら」と顔を上げ、立ち上がった。
 まっすぐに前を向き、瞳を輝かせる。

 花をつけた木の上にソニアとマリーが座って、足をぶらぶらさせて景色を眺めていた。ルミエール宮がそちらに向かっていってしまい、ハンコックは機を失した。
 それがルミエール宮の「美しさ」について知る、最後の機会だった。
 ふたりが分かり合うことは、それから二度となかった。

*

「ふたりとも楽しそうね。そこへはどうやって登ったの?」
「あ、ルミエール宮!こちらに来ますか?」
「ええ。わたくしも行きたいアマス」
「蛇になりますね」

 ソニアが大蛇に変わり、シュルシュルと身体を巻き付けてルミエール宮を持ち上げる。彼女はキャッキャッと幼い歓声を上げた。

「わぁ、木の上に来るなんて初めて!木の葉の音が耳のすぐそばでするわ」

 うっとりと目をとじ、足をブラブラさせて遊んでいる。ハンコックはそれを少し離れたところで眺めていた。ソニアもマリーも彼女と居ることに随分緊張しなくなっていて、自主的に動くようになっている。
 後ろでは茶髪の少女があくせく働いていて、見えないところ──宮の厨房や地下では料理や洗濯などの雑用をしている大量の他の薄汚い奴隷がいる。
 そんなことを微塵も感じさせないほど、目の前の光景は平和でのどかだ。

 金の縁を纏った不思議な蝶にルミエール宮が手を伸ばし、風が金髪をさらった。

 ふと、目の前を茶髪の少女が通り過ぎて行った。木の上をちょこんと見上げ、「お掃除が終わりました!」と平坦な無邪気な声で報告する。

「あら、早いの──あっ」
「ルミエール宮!!」

 ソニアとマリーの悲鳴が轟いた。ハンコックは思わず立ち上がったが、動くことが出来なかった。振り返ったルミエール宮がころんと木の上から転げ落ちるのを全員が呆然と眺める。
 咄嗟に、蛇に変身していたソニアが、なんとか髪を伸ばして頭から転落するのは免れたが、ゴキンという、鈍い音が響き、ゴロゴロと何度かルミエール宮が衝撃で地面を転がった。

「─────!」

 全員が声もなく、一瞬静寂が満ち、誰かが「だ、大丈夫ですかルミエール宮…!」と心底怯えきった声を上げた。それを皮切りに彼女に駆け寄り、ハンコックも重い足取りで彼女の傍に近付いていく。

「い゙…ううっ……い、いたい……!!う……うううう!!」

 幸いなのか不幸なのか、彼女には意識がハッキリとあり、呻いたかと思うと泣き喚き始める。茶髪の少女が「お、お医者様を呼んできます!」と走り去り、ハンコックは安堵と恐怖の混じる気持ちでルミエール宮を見下ろした。

 これは誰の咎になる?
 まさか木に登らせたソニア?声をかけたあの娘?守れなかったわらわ達全員が?

 ソニアとマリーはそんなことに思い至っていないのか、泣きそうになりながらルミエール宮の身体を確認している。

「きゃあっ、あ、赤いのが!赤いのが!」
「どうされましたか?どこか酷く痛みますか?」
「ひ、膝から赤いのが出てるの!これ血って言うのでしょ?これが流れたら壊れちゃうアマス!わたくしも壊れちゃうの?」
「──そのくらいでは人は壊れぬ」

 転がった際に出来た打撲や擦り傷から血が少しだけ垂れていた。それを見て半狂乱で泣くルミエール宮にハンコックは冷え冷えと心臓が冷えるのを感じた。
「本当?でも、アシュレイは壊れちゃったわ!それに、それに、すごく痛いの!手が変なの!」
「見せてみよ。……ただの骨折じゃ。すぐに治る」
「本当?本当ね、ハンコック?」
 縋るようなルミエール宮がまだ少女だということを思い出した。普段、無邪気なのにふと見透かすような不思議な大人びたところがあり、たまにルミエール宮のことが得体の知れない者に思えることがある。だが、今の彼女はただ初めての怪我でパニックになるいたいけな幼子そのものだ。
 これはチャンスだと思い、ハンコックは優しく彼女の背を撫ぜた。
「ソニアが助けてくれねば、ルミエール宮もアシュレイという奴隷のようになっていたかもしれぬ。ソニアは役に立つ奴隷じゃろう」
「うん…うん。ソニア、ありがとうアマス」
「いえ、元はと言えば私が…」
「ソニア」
 青ざめて余計なことを言おうとしていたソニアをハンコックは素早く制し、鷹揚に微笑んでみせた。勘づかなくて良いことを勘づかせなくて良いのだ。

「ルミエール宮、まだ痛むか?」
「ええ、すごくすごく痛いの……」

 ヒクッ、ヒクッと泣きながらも、徐々に落ち着いて、彼女はハンコックの胸にゆったりと背を預けた。まるでもたれかかるような、ハンコックがルミエール宮を抱きしめるような体勢に思わず体が固くなり、反射的な嫌悪感と、言葉にしがたい拒否感が浮かんだ。これを受け入れることをしたくなかった。何かが変わってしまう気がして。
 だが、ハンコックはそんな自分を律し、ルミエール宮の背中を撫ぜ続けた。

 小さな声でポツリと彼女がつぶやく。
「きっとアシュレイはもっと痛かったのね……」

 ルミエール宮を見下ろす。ハンコックはその時浮かんだ自分の胸に浮かんだ感情を言語化出来なかった。けれど、その時たしかに何かを……ルミエール宮に何かを……。


 数週間が経ち、宮に日常が戻ってきた。怪我をした彼女も回復し、庭を奴隷に抱えられながら散歩している。ルミエール宮を抱えているのは、褐色に赤い髪のアシュレイという奴隷だった。
 死に体だったあの男は驚異的な治癒力と天竜人に与えられた最先端の医療技術によって、日常に戻るまでの回復を見せたのだ。
 きっと戻らない方が良かっただろうに、とハンコックは彼を眺めた。同時に、咀嚼しがたい感情に胸がもやもやとしていた。

 ルミエール宮が回復してすぐ、褐色の男も目を覚ました。
 その時、見舞いに行く伴としてハンコックとステラが侍っていた。

 彼女は男を見て安堵と喜びを浮かべ、しゅんと眉を下げた。
「ごめんなさい、アシュレイ」
 ビクッ、と肩が揺れるのをハンコックは抑えられなかった。男も目を見開いている。
「そ、そんなことを仰らないでください…!」
「どうして?悪いことをしたら謝らなきゃいけないって、お母上様に教えられてるアマス。ね、そうでしょ、ステラ?」
「ええ。きちんとごめんなさいが出来て、とっても良い子ですよ」
「ふふん、わたくしは良い子だもの」
 ちょんと胸を張って、すぐに肩を落とした。
「わたくし、この前怪我をして、血が流れましたの。すごくすごく痛くて…アシュレイはわたくしより、たくさん血が出ていたでしょう?わたくし、痛くするつもりも、お前も壊すつもりもなかったのよ」
「はい、分かっております」
「かわいそうに……痛くしてごめんなさい」

 男は声もなく感動に打ち震え、ステラは慈愛の瞳でルミエール宮の頭を褒めるように撫でていた。ハンコックは強烈な居心地の悪さと、猛烈な反発心に苛まれ、動揺する自分に困惑していた。
 この少女は…もしかしたら、自分が思うような天竜人ではないのかもしれない。そんな風にわずかでも感じてしまった自分自身を、心の中で殺す作業に腐心する。

 ルミエール宮が懐から例の趣味の悪い銃を取り出した。男を撃ち殺さんとしたあの銃に、男が怯えを浮かべる。ルミエール宮はおもむろにそれを男に差し出した。
「お父上様からいただいたものだから、捨てることはできないアマス。それにきっと、お父上様がくださるということは、わたくしに必要なものだと思うの。でも、わたくし、きっと上手くこれを使えないわ」
「……?」
「だからお前に預けるアマス」
「俺に……?」
「お前はわたくしの護衛なのだから、お前が必要だと思う時にこれを使うアマス」

 分からない。心の中に吹き荒れる感情がどういうものか分からない。
 ハンコックは唇を噛み締めた。なぜ、こんなに眩しいもののように見えるのだろう?地獄の中に何を見ているというのだ?
 自分を罵って、受けた仕打ちを何度も反芻した。
 こんな場所は地獄だ。泥濘だ。こんなところ……天竜人など……全員……全員!
 目を逸らし、心の中の地獄に浸る。
 だが、蕾を感じたことは、打ち消せなかった。ずっと。

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