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エックスデーは突然訪れた。
聖地マリージョアへの襲撃。怒号、悲鳴、血塗れの惨劇。炎を纏う男。
父や母が半狂乱でルミエールの元にやってきて、本当なら自分たちを守るはずの奴隷たちが、次々とどこかへ走り去って行く。
外が燃え盛っていた。
ルミエール宮の城へ飛び込んで来た男は、天竜人を深い深い瞳で一瞥した後、奴隷に向かって叫び始めた。
「おれはフィッシャー・タイガー!同胞どもよ!おれはこの忌まわしき地を更地にするためにやってきた!」
その瞳は炎を照らし、見たこともない輝きに燃え盛っていた。
「ここに奴隷の解放を宣言する!おれが暴れているうちにさっさと逃げろ!首輪は距離を取れば起爆しない!海に向かって──走れ!」
男──フィッシャー・タイガーが吠えながら、城を破壊する。パラパラと倒壊した瓦礫の欠片が落ちてきた。
「てめェら!何をボーッとしてる!心まで屈したか!?鎖に繋がれようと、おれ達は自由だ!おれ達は戦士だ!誇りを取り戻したいなら、生を取り戻したいなら!同胞どもよ──戦え!抗え!タイヨウの名のもとに!」
両親が、震えながら何かを喚き散らしていた。電伝虫に向かって「奴隷などどうでも良い」「早く助けに来い」と失禁しながら話すのも、奴隷たちが恐慌するのも、ルミエール宮には背景にしか思えなかった。
フィッシャー・タイガー……。
彼ほど美しいものを、ルミエール宮は見たことがない。
小さな少女は、太陽の化身にふらふらと近寄った。炎に飛び込んでいく虫のように。
「あなたは……"ディー"なの?」
「……」
彼は、何度か見たことのある魚人という種族の特徴を持っていた。表情の読み取りづらい顔でルミエール宮を見下ろしている。炎を背負った男。
「いいや。おれはただの冒険家だ。てめェは…天竜人か」
「ええ。ディーじゃないのに、わたくし達を食べに来たの?」
「食べる?」
「昔から言われるアマス。悪いことをしたらディーがおしおきに来るわよって。あなたはわたくしを食べないの?」
「おれは誰も殺さねェ。ただ自由を取り戻しに来ただけだ。お前らとは同じにならねェ」
小さな少女に、フィッシャー・タイガーは答えた。
ディーじゃないのに、なぜ彼はこんなに輝いているのだろう。なぜマリージョアを破壊するのだろう。
「あなたはとても…美しいわ」
「……」
「とても…とても美しいわ……。わたくしの奴隷にしたいくらい……」
困惑していた表情が、酷く冷めた顔つきになったのをルミエール宮は見た。それが失望だと知らなかった。それが虚しさだと彼女は知らなかった。
彼はそれ以上ルミエール宮を見てくれはしなかった。太陽の男が城中を暴れ倒しに行く背中を彼女は「あっ…」と見つめたが、彼は嵐のように消えてしまう。
「逃げる…」
ハンコックがつぶやく。美しい三姉妹が呆然と視線を交わしていた。ルミエール宮は事態がよく分からなかったが、太陽の男によって、日常が失われることは分かった。
「お前たちも逃げるの?」
「ルミエール宮…」
三人が彼女を見て怯えた瞳を浮かべた。久しぶりに見る表情。両親は城の片隅で震えていた。阻むものは何もない。逃げることが、フィッシャー・タイガーの言う、自由なのだろうか?
でも、ルミエール宮は心底不思議に思う。
純粋に困惑する。
わたくしの奴隷たちには好きなことをさせてあげているのに、と。生まれた時から自由な彼女は、心からそう思っていた。
「行ってしまうの?」
寂しそうな、けれど悟って凪いだようなルミエール宮にハンコックが深い瞳を浮かべた。フィッシャー・タイガーと同じ瞳。燃え盛っていて、輝いていて、強い感情を感じる瞳。
「こんな地獄など、枯れ果ててしまえばよい。天竜人なぞ全員死に絶えよ!おぞましい!穢らわしい!」
「姉様……」
「ゆくぞ、ソニア、マリー」
ハンコックが、自分のことを嫌いだということを全身で感じたが、ルミエール宮は悲しくはなかった。
ただ、鳥や蝶が空に羽ばたいていくのを見つめることに似た眩しさに、心が震える。
「そう…でも、逃げるってどこへ?奴隷なのに行く場所があるの?」
「わらわ達は奴隷じゃない!人じゃ!ずっと人じゃった!」
今まで溜めてきたものが吹き出したハンコックの輝きにルミエール宮は言葉を失う。今ほど彼女が美しかったことはない。自由に焦がれ、希望を得たハンコックは、壮烈な生に満ち溢れていた。
涙を浮かべたマリーが答える。ハンコックと違い、マリーとソニアは、ルミエール宮に向ける瞳に昏い色がなかった。
「故郷へ…」
「故郷?…帰る場所があったの?」
「……」
「そうなの…」
奴隷に、帰る場所がある。
それは、あまりの衝撃だった。ルミエール宮は頭が真っ白になり、呆然として、頭の中に色々な疑問が浮かぶのを感じていた。
けれど、時間がなかった。
ハンコックが睨むような、悼むような、不思議な目でルミエール宮を射抜き、背を向けた。最後だと分かっていたが、言葉はなかった。それが少し、悲しい。
ソニアとマリーが呟いた。
「さよなら……ルミエール宮」
「ええ…」
小さくなっていく背中を見つめる。
一年以上一緒にいたのに、呆気ない別れだった。
城は随分閑散としていたが、振り返るとまだ他の奴隷が残っていた。
涙目で震えている少女にルミエール宮が声をかける。
「コアラ」
「は…はい!ルミエール宮!」
彼女はもう分かり始めていた。奴隷には帰る場所がある。故郷がある。きっと他のものもあったのかもしれない。家族とか、家とか、仲間とか……。
「何してるの?お前も行くアマス」
「よ、よいのですか?」
「お前にも帰る場所があるのでしょう?」
「は……はい……。家族が……」
「家族がいるのね…」
なぜ奴隷としてここにいるのか、なぜ奴隷として売られたのか、疑問は尽きない。けれど今すべきことがなんなのかルミエール宮はちゃんと分かっていた。
「じゃあ、早く行くアマス。家族のところに帰りたいなら」
微笑むと、コアラの丸々とした瞳がさらに大きく開かれ、涙と一緒に光が宿った。その瞬間、ルミエール宮は初めてコアラのことを美しいと感じた。
この少女が美しくなかったのは、家族と離れ離れだったから?…
分からない。
けれど、たしかに小さな少女は美しい光を放った。
どうしてこんなに朽ちた城や、燃え盛る世界が美しく見えるんだろう。
「ステラ、テゾーロ、アシュレイ。お前たちも」
「あァ…やっとオサラバ出来るぜ」
こんな時でも変わらないテゾーロにルミエール宮はクスクス笑ってしまった。だが、ステラが優しい微笑みでゆっくりと首を振った。
「いいえ、ルミエール宮。私はここに残ります」
「はァ!?」
目を剥いてテゾーロが怒鳴る。
「な…何考えてるんだ、ステラ!外の世界に帰れるんだぞ?ルミエール宮だってそれを許してる!」
「ええ。でも私は…この子を見捨てて行くことが出来ないのよ」
「見捨てる?見捨てるだって?天竜人に何をされたか忘れたのか?」
「忘れていないわ…辛く苦しい日々だった……。でもテゾーロ、ルミエール宮を見ていて分かったの。この子は歪むように育てられているのよ。分かるでしょう?」
「それがどう関係ある?たしかにこいつは少しはマシだった!でも、お前が犠牲になる必要なんかどこにもねェじゃねェか!」
揉め始めた2人を呆れたように見つめ、ルミエール宮はアシュレイに目を向けた。アシュレイも去らないのだろうか。視線を受けて、彼は頷いた。
「はい。俺は家族も故郷もありません。行く場所などどこにも」
「そう。好きにするといいアマス。でも……」
言葉に迷い、言い淀む。なんと言えば良いのか…アシュレイは美しくない。見た目はいいけれど、美しくない。コアラと同じだ。
それはきっと……。
「お前はわたくしのそばにいても…奴隷でいても美しくなれないアマス。でも、綺麗じゃなかったコアラは、さっきとても綺麗になったわ。お前も自由とやらになれば、きっと美しくなれるアマス」
「自由…。俺には、自由がよく分かりません」
そう言われ、ルミエール宮は困ってしまった。
「わたくしにも分からないわ…」
「ルミエール宮は俺がそばにいては嫌でしょうか?」
「ううん、嫌じゃないアマス」
「では…俺は俺の意思でここに残ります」
「お前は奴隷のままがいいの?」
「……。奴隷は嫌です……でも……どうせ外に出ても、同じことを繰り返すだけですから……」
アシュレイは冷淡な表情を歪め、醜い笑みを浮かべた。自分を嘲笑う表情。彼は廃棄処分にされそうだったところを安値で買ったのだ。元々は海賊だったらしいが、片足が不自由になり以前ほど戦えなくなった奴隷だった。
「奴隷は嫌なのね。……嫌だったのね」
小さな手のひらを顎に当て、ルミエール宮は少し考えると、彼の首輪を外した。カチャン、と軽い音が鳴る。
あまりにも簡単に与えられた自由に、アシュレイは言葉を失った。
「逃げたくなったらいつでも逃げるといいアマス」
「えっ…えっ?ルミエール宮、な、なぜ……」
「わたくしは美しいものが好きだから。知ってるでしょう?」
ニッコリと微笑む彼女を、唖然として見下ろす。
「コアラで分かったの。美しくないことには、理由がある。きっと今までの奴隷も……。お前も美しくなれるなら、わたくしは美しくなったお前を見たいもの」
彼の表情が歪んだ。泣きそうに見える。だが、苦しんでいるようにも、痛みをこらえるようにも見えた。
血は出ていないのに、何かが痛いのだろうか。
でも、ずっと無表情で、真っ黒な感情の浮かばないコアラのような目をしているより、ずっとマシだった。
「ルミエール宮。お待たせしました」
どうやら2人の喧嘩が終わったらしい。この2人はどうしてこんな時にこんなにもいつも通りなのだろうか。不貞腐れているテゾーロが負けたことも一目瞭然で、テゾーロが負けることもいつも通りだった。
ルミエール宮はテゾーロとステラの首輪も外した。ステラが優しく頷き、彼女に肯定されたことが、自分は正しいことをしたのだと安堵させる。
そして、たぶん、今までの自分が何かを間違っていたのだということも。
太陽の男は、もう違う場所へ行ってしまったらしく、周囲は静かだった。遠くの方で喧騒が僅かに聞こえる。
自由が何なのか、フィッシャー・タイガーやハンコックの求めたものが何か分からない。けれど、ルミエール宮はそれを知りたいと思った。
そして、誰もいなくなった城で、自分のそばにステラ、テゾーロ、アシュレイがいることが、どうしてかとても…胸に花が咲くような……不思議な暖かい気持ちになるのを感じていた。
ハンコックたちのように、わたくしから逃げることを選ぶことが出来たはずなのに……。
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三姉妹は瓦礫の中を一心不乱に走っていた。
海兵がチラホラと見える。倒れた男たちも。
フィッシャー・タイガーが彼らを倒したのだろうか。
自由になる日が来るとは思わなかった。焦がれてはいても、いつも心が澱んでいて、怒りに満ちていて、でも希望を持つことなど出来なかった。希望を見ることを自分に許すことが出来なかった。
天竜人に弓を引く愚か者がこの世に存在するなんて、考えたこともなかった……。
喧騒から逃れるように、遠く遠くを目指し、ハンコックは走る。一切振り返らない。あんな地獄、もう二度と戻らない。
けれど、妹たちが、ふと足を弛めて後ろを振り返る。
「走れ!」
ハンコックは怒鳴った。
ふたりの考えていることは分かっていた。だが、決して許さない。
マリージョアに、心の一片たりとも置いていくことを許さない。許してはならない。
天竜人に希望など持てやしないのだ。
ルミエール宮は天竜人だった。たとえ、8歳の幼子であろうと、共に過ごすことで彼女の何かに触れた気がしたとしても、苦痛以外の感情を感じたとしても。
自由を得ようとしている今、枷になる鎖は全て置いていく。ハンコック達は奴隷ではなく、誇り高き海の戦士なのだから。
この場所でなければ、この少女はきっと、奪うことが当たり前だと思わずに生きていたのかもしれない。その小さな片鱗を、ハンコックはたしかに見ていた。この地に光はない。天竜人から受けた傷は永遠に消えない。
一生許さない。一生忘れない。一生憎み続けてやる。
でも、ほんの僅かに思うのだ。ハンコックはルミエール宮の中に何かを見た。それは祈りにも似た感情で……このまま、この少女の蕾が枯れることなく育ったら、と。