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 快晴だった。朝六時半には皆起床し、あわただしく動き始める。立海はシード枠だ。だから、試合が始まるまで多く練習ができる。
 刹那はあまり眠れなかった。元々人と寝る習慣がない。それに相まって人間不信の気がある。周りに他人がいると安眠できない。心を許している誰かがいれば、安心して眠ることが出来るのだが、ここには祖母も、母も、侑士も、ミチカもいない。連泊するうちに慣れるだろうか。

 アップをする選手たちを横目にマネージャーたちが大量のドリンクをジャグに準備し、いつでも自由に飲めるようにしておき、ボールカゴを運び込み、タイムやスコアのために散らばる。

 張りつめたような、膨れ上がるような、独特の熱気が渦巻いていた。表面張力みたいに、目に見えないなにかが緻密なバランスで維持されている。気安く触れたらパツンと割れてしまいそうだ。
 これが大会前の空気……。
 刹那も飲み込まれそうだ。
 自分が戦うわけじゃないのに。鼓動が早くなるほどではないけれど、足元が浮つく感覚になる。緊張とも、興奮ともちがう。

 会場も大量の人間と、その人間たちから生まれる空気で熱を放っていた。真夏のべたつく暑さだけではなく、360度から押し潰されるような圧迫感と緊迫感に、肌がざわざわする。
 県大会は五月で、刹那はまだ入部していなかったから、この独特な雰囲気を味わうのは初めてだ。
 立海が辛子色のジャージをはためかせて歩くと、ザッと自然と道が開き、全身に無数の視線が突き刺さるのを感じた。警戒、敵意、畏怖、観察、数多の意味合いを含んださまざまな切るような視線。
 刹那は衆目をあつめる造詣をしている。だから無遠慮な目には慣れていると思っていた。
 けれど、ふだん自分に向けられるものとはまったく意味合いの異なる、闘争心が剥き出しになった、獣のような視線は肌がピリピリとざわめいて、喉が思わずクッと締まりそうだった。
 これが王者立海に向けられる視線。

 その中を肩で風を切って歩く幸村精市は、至極威風堂々と、揺るぎない。三強は何食わぬ顔で前を睨んで大股で歩き、丸井や切原、仁王などは余裕そうに何か言い交わして笑っている。
 一軍の中に混ざる由比も、大して視線に押されている様子はなく、ニコニコと能天気そうな、平素の朗らかな態度のままだった。
 ふぅ、と小さく息を吐いて、刹那もまっすぐに前を向き、背筋を伸ばす。これが王者の見ている景色。マネージャーにならなければその重圧など、一端すらも想像することが出来なかっただろう。

 立海の試合はまだ先だった。開会式の後、練習時間までそれぞれ分かれる。刹那は稲葉先輩と共に行動することになっていたが、彼は一軍について行くようだった。
 自分の場違い感がすごい。

 稲葉は実力こそ劣るが、その視野の広さや、立海のために尽くす在り方はとても大人びている。本来なら二軍レベルの実力だったが、本人の希望もあり三軍のリーダーに留まっているらしい。それは三軍の底上げのためだ。
 彼は穏やかで優しいように見えて、けっこう割り切った冷たいところがあり、三軍の選手をよく観察している。そして多少実力がある選手よりもやる気がある選手をサポートし、二軍へ昇格させる。
 試合で立海の勝利へ直接貢献出来るような実力のある選手というのは、手を加えなくとも仁王や丸井や桑原や切原のように、勝手に自分の力で上がっていく。稲葉がサポートするのは、強い選手ではなく、立海の勝利のために一体感を持って努力できる、チームの統率に貢献できる選手だった。

 輪を乱す選手も、やる気のない選手も王者立海にはいらない。
 新入生が入ってくる前に、今三軍にいるあまりやる気のない選手やマネージャーは、部長の幸村から全国が終わった後に「自主退部」を勧められるらしい。その選手たちの名前を伝えたのは稲葉だ。
 ただ、ダラダラと部活に所属することも許されない。
 幸村は正直言って勝利しか見ていないから、三軍をいちいち観察したりなどしない。この考え方は稲葉のものだ。背筋がゾクッとする。

 稲葉先輩がもうそろそろ試合が始まりそうなコートの観客席に腰掛けた。一軍も近くに散らばっている。一軍はレギュラーと準レギュラーを指すもので、ほとんど話したことの無い三年生や、三年生マネもいるので、すこし居心地は悪い。
「今から始まる試合がどこかは分かる?」
「はい。青春学園と緑山中ですよね。学校HPの記録ではどちらも例年さほどの記録は残していないようですが、青学の方は去年からまた伸び始めているみたいですね」
「ああ。この試合にレギュラー陣が集まってくるなんて異様だろ?」
「はぁ…」
 異様なのか。団体行動の一環だと思っていたから、そう言われてもピンと来ない。
「第一に警戒するとなったら青学だからさ。二年の手塚国光は個人では全国区の選手だし、真田レベルに匹敵する。それに、理由は知らないけど妙に手塚にこだわっているようだしね…」
「以前負けたことがあるそうだ」
「柳くん!」

 いつの間に背後にいたのか、柳がそう口を挟み、刹那の隣に座った。バインダーに挟んだノートにメモを取る彼女に「良い心がけだな、白凪」と口元を緩める。

「へぇ、あの真田が負けたんだ」
「小学生のことらしい。詳しい話は聞かせてくれなかったがな。それに俺も個人的に青学は動向をチェックしている」
「柳くんも手塚くんを?」
「手塚ももちろんだが、青学は二年の層が厚い。特に不二という男は天才と呼ばれているらしいが、なかなかデータを取らせてくれなくてな。他にも…」
 何やら含みのありそうな沈黙で柳は口を閉ざした。視線の先には青学の選手たちがいるが、誰を見ているのかは分からない。眼鏡をしている少年が手塚、茶髪の少年が不二、らしい。刹那は男子という生き物が嫌いなので、他の男の子は全員同じに見えた。ふと、眼鏡の少年がふっと顔を上げて、こちらを見た。手塚国光ではない眼鏡っ子だ。柳や刹那のように、ノートを持っているのが印象に残った。

「三年もある程度の実力はあるが、俺たちの敵ではない。部長の大和も故障がたたって以前より弱体化している。故に青学自体は今年は大した驚異ではないが、手塚だけは幸村に匹敵する可能性すらある」
「そんなに強いんだ…」
 要するに、来年のために今からデータを取るということだろうか。有力な選手の情報など刹那には分からないから、柳が独り言のようにつらつら教えてくれることを熱心にノートに書いておく。
 幼い頃からテニス界で有名だった人など刹那には知る由もないし、噂などが流れている人だってテニスに触れていなければ分からない。
 刹那はせいぜい、大会に出場する学校のホームページに載っている成績や、大会のホームページに載っている勝敗から推測することしか出来ないのだ。

 試合は青学が3-0で勝利した。
 シングルス3に手塚選手が出ていて、彼が圧倒的に強いことは分かったが、ダブルスではラリーの応酬を見てもある程度拮抗していたことしか分からなかった。
 多少ポーチのタイミングだとか、今打った球がロブだとか、なぜそのタイミングで打ったかだとか、そういうことをなんとなく分かるようになってきたが、だからといってどう試合展開が有利だとか、どちらの選手がどう優れているだとか、分析に必要な視点が刹那にはまるでない。
 どうしたら分かるようになるだろう……。
 分からないなりになんとかメモを取った、ビッシリと黒文字で埋まる手元のノートを見て、その展望の遠さに、刹那はため息をついた。


 立海の試合は、始まる前の周囲の視線の重苦しさに少し強ばっていた刹那を嘲笑うように、呆気なく終わった。本当に、笑ってしまいそうになるほど呆気なかった。
 当たり前のように6-0を3ゲーム続けるストレート勝ちで、1セット30分もかからなかったと思う。
 ダブルス2で丸井と桑原が出たが、二人に気負った様子はなかった。そして、山も谷もなかった。練習通りに丸井が前衛で攻撃に徹し、桑原が傍目から見れば気の毒になりそうなほどコート全面を走り回って守備に徹している。そして、緩いボールが来れば丸井がボレーを決めて点を取る。
 本当に普段の練習や練習試合とさして変わらない……というか、レギュラー陣で試合をしている時の方が盛り上がっているんじゃないかと思うくらい、淡々とした試合だった。
 丸井が「天才的妙技」とか言ってる、たしかに理屈が全く分からない凄技も出なかったし、誰もリストバンドを外さなかったし。刹那が気負っているのが馬鹿みたいに思える試合だ。
 立海の誰も、立海の勝利を疑っていない。

 また、稲葉と共に他校の試合を見て、その日はホテルに戻る。また明日二試合あり、最終日に決勝がある。
 ノートはマネージャーを始めてから、三冊目に入っていた。それももう今日で埋まり、新しく四冊目を準備する。
 覚えなければならないことも、教えられることも、やらなきゃいけないこともたくさんあって、目が回りそうだ。会場の雰囲気でなんだか肩が凝ったような気もするし。

 ただ、不思議なんだけれど、なんだか楽しいな、と思った。

 これはすべてくだらない復讐のための遠回りな手段でしかないはずなのに。

 勉強で困ったことはなかったし、褒められることも多かったし、努力することは当たり前だった。
 だが、自分があまりにも無知で、知りたいことを突き詰めるための前提の知識や手段もないというのが新鮮で……誰かに詳しく教えてもらい、育ててもらう状況も新鮮で……その全てが「立海の勝利」というひとつの目的に向かって進んでいるのも、誰かと同じひとつの目標に向かって努力するのも新鮮だった。
 これが部活の楽しさなのかもしれない。
 スポーツ漫画でよくある熱血感や、部員との絆のようなものを解釈して分かっていた気になっていたけれど、それに自分が触れるのは初めてだ。
 こんな気持ちなのだろうか。
 ただただ、不思議な感じだ。
 ずっとひとりでいたし、自分が集団に馴染めるとも、馴染みたいとも思ったことがないのに、部活というのは否が応でも誰かと繋がっている。そんな感覚が不思議なのに、嫌ではない。それがやっぱり……不思議だ。
 刹那はこの気持ちをうまく言い表せる言葉がなかった。

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