03
初めての授業は呪文学(チャームズ)だった。レイブンクロー生と一緒だ。
教卓に何冊も本を積み上げて、その上によじ登った先生が教室を見回した。
「こんにちは、1年生の皆さん。呪文学(チャームズ)は魔法使いの最も重要かつ、基礎的な分野です。基本的に魔法は呪文学を素地に広がりを見せます。
1年生の終わりには魔法植物や子ネズミなどの……意思のある存在をタップダンスさせるくらいまで、皆さんが実力をつけてくれるよう望みますよ」
杖を振ると、教室中の教科書がガチャガチャバサバサ音を立てて飛んだり、ターンしたりして、フリットウィックがニッコリ笑った。
「ヒュ〜!」どこからか口笛が聞こえる。
「こりゃいいや! 彼なら僕のユーモアを分かってくれそうだ」
「すごくちいさい……」
先生はセツナの腰くらいまでしか無かった。こどもくらいに見えるけど、顔にはヒゲがくるんと綺麗に整えられていた。
「たぶん、妖精族の血が混じってるんだよ。小鬼とか、ゴブリンとか」
アリスが耳元でコソコソ囁いた。セツナもなぜか小さな声になる。
「よくあるの?」
「ううん、あんまりないと思う」
「なんでひっそり声なの?」
「だって、混血かどうかなんて本人に聞こえたら嫌な気持ちになっちゃうでしょ?」
「そうなんだ……」
たしかに、日本でハーフかどうか聞かれるのは聞かれ慣れすぎてウンザリしたから、そういうものなのかもしれない。
杖の振り方を教えてもらった後、発音をして、いよいよ呪文を唱えていいことになった。
びゅーん、ひょい。びゅーん、ひょい……。
「Wi...Winga-diam Lebiosa……」
机の上の羽根がふるふると震える。セツナはドキドキしながら見守った。やがて、羽根は動きを止めて沈黙した。
「ああ……」肩を落とす。「だめみたい」
「大丈夫よ。私達はまだ初めてなんだし」
メアリーが気軽な様子で杖を振った。「Wingardium Leviosa!」羽根がふわっと浮き上がった。
「ワオ……」
メアリーは呆然と呟いて、杖を左右に動かした。杖の動きに合わせて羽根がふよふよと左右に浮遊移動する。
「すごい……」
「やったわね、メアリー」
既に成功させているリリーがメアリーの肩を叩き、気遣わしげに「セツナ、もう一度やってみてちょうだい」と声をかけた。
頷いて、眉を下げる。セツナは日本では勉強が得意だった。だからいきなり劣等生としてスタートして、情けないやら不安やら恥ずかしいやらで頬が熱くなった。
「Wingardiam Lebiosa!」
さっきより声に力を入れてみる。でも、やっぱり羽根は動かない。アリスが首を傾げた。
「呪文の発音が合ってない気がする。後半の方だよ。vのところが──」アリスの声が歓声に掻き消された。
後ろの方で生徒たちが騒いでいた。
振り返ろうとすると、顔の横をバヒュンと何かが横切って「わっ」と頭を隠す。髪の毛が風でなびいた。
「なに……?」
リリーが不快そうに眉を跳ね上げた。
2つの羽根が目で追えないくらい速く、天井の上や机の下、生徒の間を縫うように飛び回っている。
「ジェームズ・ポッター、シリウス・ブラック!」
フリットウィックが名前を鋭く叫んで杖を振ると、羽根はピタッと空中に停止し見る間に燃え上がって、灰がパラパラと地面に落ちていく。
「一体これはなんということです!」
彼の声には怒りと、窘める色の他に驚嘆も混じっていた。どこか楽しげな顔にも見える。ふたりは目を合わせてニヤッと笑った。
「プロフェッサー・フリットウィック。僕らはただ浮遊の呪文の限界を試していただけです」
「いかにも、サー。俺とジェームズ、どっちがどれだけ速く、なおかつ高度に繊細な浮遊呪文を扱えるか競い合っていたんですよ」
悪びれない態度に忍び笑いがクスクス聞こえた。リリーは眉をますます顰めた。
「他の生徒に迷惑をかけるような使い方をしてはなりません。グリフィンドールから3点減点!」
ジェームズは肩を竦め、シリウスはつまらなそうに視線を逸らしたが、その後に続いた言葉に瞳を輝かせた。
「しかし、初日でこんなに見事に魔法を使いこなす生徒は少ないでしょう。グリフィンドールに5点を加点します。ただし、もう他のテーブルに飛んでいくような方法は控えること」
「「はい、フリットウィック先生」」
ふたりは声を揃えて優等生のお返事をした。
勉学的な資質を持つレイブンクローの子供たちよりも、ジェームズとシリウスは才能があった。
チャイムが鳴るとリリーは教科書を抱えてドカドカと教室を出て行った。セツナも慌てて追いかけて彼女に並ぶ。リリーは憤慨して彼らに対する文句を並べ立てた。
「なあに、あれ! あの人達のせいで授業が中断されたのに、あの得意げな顔ときたら!」
「うん、そうだね」
「あんなこと褒めたら、絶対調子に乗るに決まってるわ。あんな調子で他の授業も妨害されたら困るのは他の生徒なのよ」
「うん」
早口であんまり聞き取れなかったのでセツナはとりあえず相槌を打った。リリーは授業の妨害にとにかく怒っているらしい。
セツナは結局魔法を上手く使えなかった。アリスが何か言いかけていたから、たぶん発音が合っていないんだろう。
自分に比べたら、呪文を成功させるどころか、あんなに緻密に羽根を浮かせて操っているふたりはとてつもなく上の段階に進んでいるように思える。リリーもメアリーもアリスも成功していたし、他にも何人か出来ていない生徒はいたけれど、セツナは不安でいっぱいになった。
授業はほぼほぼ全滅だった。変身術(トランスフィギュレイション)の理論は単語が難しいし、そもそも意味がわからない言葉が多くて話にならなかった。魔法界関連の単語は聞いたことがないものも多くて、セツナは困りきった。
マクゴナガル先生が話した言葉をまず全部……一字一句逃さず全てメモして、分からない単語はカタカナでとりあえず書いておく。変身術でもジェームズとシリウスがいちばんに成功して褒められていた。
授業の最初にふざけた生徒は追い出すと脅されて始まったから、さすがにふざけてはいなかったようだけど……。
薬草学(ハーボロジー)はもうちんぷんかんぷんだった。色んな名前の植物のことを教えられたけれど、聞いたことの無い植物が、なんとかという魔法薬の効能になるだとか、何とかの夜になんとかとか……。
聞き覚えのある植物のいくつかはあったけれど、セツナは知っている魔法薬に関わる特定の効能しか知らない。
ジェームズとシリウスは後ろの方でコソコソして、笑い声が聞こえてきた。リリーが何度も後ろを気にして睨むので、隣にいたセツナも自然と彼らを気にかける形になっていた。
談話室のテーブルに今日のメモを置いて、ため息をつく。今日わからなかったところは今日中に解決しないと置いていかれてしまう。
まずは浮遊呪文の確認をして、授業で出てきた魔法植物と魔法薬を教科書で確認して、夕食後にはマクゴナガル先生のところに理論の質問に行って……。
指折り数えて、また深くため息。
母のシンディーは魔法薬学者だけど仕事で忙しく、叔父のデイヴはまず英語とノースエル家に相応しいマナー、魔法界のことを教えてくれた。この1年で魔法を深める時間を取るのは難しかったが、「そんなに心配しなくても1年生は特に難しくないわ」ってママは笑ってたから大丈夫だと思ったのに……。
シンディーは名家出身で幼い頃から魔法に触れてきたから難しくなかったんだろう。10歳で自分が魔女だと知ったセツナとはちがう。
そうだ、手紙も書いて送らなくちゃいけない。
セツナが立ち上がると、近くにリリーがいるのが見えた。彼女はすごく綺麗だからとても目立つ。それに今はあのふたり組に話しかけられているから、なおさら目立っていた。
リリーはなにやら怒っていた。
聞くつもりはなかったけれど、彼らの会話が耳に入ってくる。
「やぁ、君コンパートメントにいたよね? あの時はごめんよ。君はあのベタベタ髪のスニベリーとは違って、勇敢で賢明な魔女みたいだね。ようこそ、グリフィンドールへ」
話しかけてきたジェームズ・ポッターは、にこやかな笑顔だが勝ち気そうな表情で、リリーはどうしていちいちこの人は偉そうな物言いしか出来ないのかしら? と苛立つのを感じた。
「あなたのことよく覚えてるわ。無礼で傲慢な人よ」
「傲慢? ただ自分に自信があるだけさ。僕はジェームズ・ポッター。君は?」
「さあ。私は忙しいの。部屋に戻るから退いてくださる?」
「初日から忙しいって何するんだい?」
「明日の予習をするのよ」
「へえ!」ジェームズは感嘆の声を上げた。「なんていうか、真面目だね? いいと思うよ」彼は鼻で笑うように言った。
リリーは少し赤くなって、ジェームズの丸くて大きな目を睨んだ。
「大体、あなたなんかにようこそなんて言われる筋合いないわ」
「ポッター家は代々グリフィンドールに組み分けされることが多いんだ」
ジェームズは得意げなのを隠そうともせず白い歯を見せて顎を上げた。
「だから? 家がどうとか興味無いわよ。あなたはあなたでしかないんだから、偉そうにされる覚えはないわ!」
吐き捨てて、髪を頬に叩きつけるほど勢いよく背を向けるとズカズカ女子寮に向かった。ジェームズはキョトンとしてリリーの背中を見つめ、ぼーっとまばたきをした。
「なんだ、あのじゃじゃ馬。相当気が強いな」
からかって鼻を鳴らしたシリウスにもジェームズは答えない。もう見えなくなったリリーが去った方を見て、立ち尽くしている。
「ジェームズ?」シリウスが顔を覗き込んだ。「おい、どうした?」
ジェームズはやっと、ビクッと自分を取り戻した。
「なんだよ、ぼーっとして」
「彼女の言葉、聞いたかい?」
「聞いてたけど。何?」
「家に関係なく、あなたはあなたよ、だってさ! そんなこと言われたの初めてだ。僕たちってやっぱり生まれた時から、どうしても家ありきで見られるだろ?」
「はぁ?」
「賢いし、美人で、平等で、その上グリフィンドール! 彼女って素敵だな、僕ともきっとピッタリだよ」
彼はひとりで興奮してふんふん言っている。シリウスは呆れて何も言わなくなった。
セツナも呆気にとられてしまった。今の会話を聞いた限り、リリーは全く彼に友好的ではなかったはずだけれど、ジェームズはこの上なくポジティブに受け取って喜んでいるみたいだった。
「彼女の名前はなんだろう。ますます知りたくなったよ」
「たしかリ……」
「待って! あの子から直接聞きたいんだよ!」
「あっそ……」
お手上げだ、というようにシリウスは肩を上げた。
*
部屋に戻るとリリーのベッドはピッタリと閉まっている。真ん中のミニテーブルとソファにアリスが沈んで、手紙を書いているのが見えたから、セツナはそっと彼女のそばに寄った。かかった影にアリスが頭をあげる。
「あの、座っても?」
「どうぞ。同じ部屋なんだから聞かなくていいのに」
「うん」セツナは媚びるように笑った。曖昧で、苦笑のような、人を伺う笑顔はクセになっていた。とりあえず愛想の良い笑顔は人を傷付けないし、好意的に受け取られやすい。
セツナもレターセットを出した。
悩みながら文字を書いていく。日本語で書くか、英語で書くか迷った。でもシンディーはイギリス人だから結局英語で書いた。
『ママへ
こんにちは。こんばんはかな。それともおはよう? この手紙を書いている今は夜です。いつ頃届くのかな。
ホグワーツに無事入学出来ました。グリフィンドールに組み分けされたの。ママはスリザリンだったんだよね? 同じ寮がよかった。
でもグリフィンドールになっちゃった。
この寮は悪くないし、むしろ素敵だと思うけど、勇敢さがわたしにあるか自信がないな……。
でも、たぶん友達は出来たよ。まだ友達じゃないかもしれないけど、とりあえず同じ部屋の女の子と朝一緒にご飯を食べて、授業を受けて、夜ご飯も一緒だった。
この手紙もその子たちのそばで書いてるの。
友達かな?
仲良くなれるように頑張ります。
ホグワーツはノースエルの御屋敷よりもずっと変なことがいっぱいで、少し怖いけどとっても面白いです。
勉強は……よく分からない言葉とかばっかりで、まだ1日目だけどとっても不安。あとで先生のところに質問に行くつもりです。でも知らないことを知るのは楽しいからワクワクもしてるんだ。
不安もあるけど、けっこう楽しいです。
だからママ、心配しないでね。
お仕事頑張ってください。大好きだよ。
ママの大事な娘 セツナより』
何回か読み返して、ふうっと息を吐くと「書き終わった?」とアリスが首を傾げて、優しい目で声を掛ける。「うん」
セツナは不思議そうに見返した。
前髪で視界が覆われているから、安心して誰かの目を見返すことが出来る。
「じゃ、一緒にフクロウ小屋に行こうよ」
「うっ、うん!」セツナは嬉しそうな顔をして、すぐにその顔を曇らせた。「あ、でも……」
「夕食の時に出しに行こうかなって」
時計を見ると、まだ1時間ほどあった。
「そうだね。その方がいいかも。フクロウ小屋は遠いから、少し早めに出よう」
「うん」
セツナは迷って、意を決してアリスにおずおずと言った。緊張して目がギュッとなった。
「アリス……お願いがあるんだけど、」
「どうしたの?」
彼女は優しく微笑んで促した。お姉さんみたいな雰囲気で、安心感が胸に湧いた。
「あのね、今日の呪文学の復習をしたいんだけど……アドバイスが欲しいの」
必死な顔で言われたのがそれだったのでアリスは目を丸くして吹き出した。「なんだ、そんなこと? ぜんぜんいいのに」
セツナにとっては、誰かにお願いをしたり、頼んだりするのはすごく大変なことだ。自分で出来ることは全部本当は自分でやりたい。でもセツナは落ちこぼれだから、置いていかれないために一生懸命出来ることをするしかない。
「ありがとう」セツナは安堵して微笑んだ。
「授業で思ったけど、多分vの発音が違うと思う。レヴィオーサ、のところだよ。レビ、じゃなくてレヴィ」
アリスはわざとらしく唇を噛んで見せた。セツナも「レ、ヴィ」と下唇を噛んでふたりで吹き出す。
羽根がなかったので、ナイロンのティッシュを代用に使うことにした。
ドキドキと不安に胸を高鳴らせて、囁くように呪文を唱える。
「Wingardium Leviosa……」
ティッシュは少し端の方が浮いて、ぱたりとへたれた。「失敗だ……」セツナが気を落とすとアリスは「でも少し浮いたよ! 呪文の発音は合ってたし、すぐに成功するよ」とセツナより嬉しそうに手を叩いた。
2、3回繰り返すとティッシュがやっとセツナのところまで浮き上がった。まだ自由自在とまではいかないけれど、成功は成功だ。アリスがギュッと抱きついてきて、セツナはハムスターのように固まった。
「やったね!」「うん……!」
セツナは首だけ僅かに動かして喜びを表した。
「でも、ポッターやブラックみたいにはとても出来そうな気がしないよ」
「あのふたりは別格だよ。1日であんなに出来るなんて」
やっぱりそうなんだ。あのふたりはとても出来がいいらしい。
「ブラックなんて、たぶんお家で厳しく教育されてるはずだし。他の生徒とはスタートが違うの」
「ああ……聞いたことある。魔法族の、王族みたいなお家だって…」
アリスは声をひそめた。
「やっぱり? ブラック家は純血主義で有名だし、魔法界で最も旧い名家なの。一族はスリザリン出身のエリートばっかりだよ。……純血主義も知ってる?」
「うん。ノースエル家もそうだよ」
「え? セツナって"あの"ノースエル"家なの?」
「たぶんね。やっぱり有名……?」
セツナは眉を下げた。魔法界の家系はよく知らないけど、祖父母の思想は知っている
「まあ、けっこう強烈って聞くかな……。それじゃあセツナも?」
アリスは慎重に尋ねた。セツナは慌てて首を振った。
「まさか! わたしは日本の血が混じってるし、10歳までマグルの中で育ったの」
「もしかして末っ子の、海外のマグルと駆け落ちしたっていう……」
虚をつかれて顔を跳ね上げる。「ママのこと知ってるの?」
気まずそうに彼女は頷いた。
「わたしの家は差別はしないけど純血だから……魔法界ではちょっと知ってる人もいるかもしれない」
「そうなんだ……」
「でも、気にしないで。差別する人は基本的にスリザリンに行くし、グリフィンドールにはそんなの気にする人はほぼいないよ」
「本当?」
縋るように聞くと、アリスは何度も頷いた。セツナは安堵した。ただでさえハーフで不安なのに、魔法界の血統についての問題も出て来たら、問題だらけでとても抱えきれない。