10

 今日も今日とて授業が分からない。ため息をつきながらセツナは職員室から重い足取りで寮への帰路をたどる。
 とは言っても、最近は分かることも増えてきている。
 事前に予習をしっかりすれば、早口の授業もなんとか聞き取れるようになってきたし、魔法史なんかはみんな眠っているから、みんなと足取りは同じくらいだ。いや、魔法史だけに限れば、マグル生まれの子よりもセツナの理解は進んでいる方かもしれない。
 分かるようになれば授業も面白い。
 まぁ、相変わらず実践となると劣等生のままなのだけれど……。

 こればかりは何故か分からないが、セツナはちっとも上達しない。魔力がないのだろうか。杖の相性が悪いのだろうか。
 意思が宿っているというから、毎晩ていねいに杖磨きセットで、柔らかな茶色の杖をピカピカにしているというのに。だからセツナの杖は他の子よりも光沢がなめらかで美しかった。宝の持ち腐れだとバカにされる要素になっていたけれども。

 たしかに呪文を唱えるとき、杖から、わずかな反発を感じるような気がしていた。オリバンダーが、杖に認められるとかうんぬん、言っていたかもしれない。
 セツナはダイアゴン横丁に興奮していたし、オリバンダーは早口で何と言っていたからほぼ聞き取れなかった。でもみんなオリバンダーのお店で買っているのに魔法がほぼ使えないのはセツナだけなのだから、おそらく問題があるのは杖ではなくてセツナなんだろう。

 暇さえあれば自習したり、図書室に行ったり、職員室に行っているので、セツナはガリ勉だとバカにされるし、一人行動が多いのでリリー達の会話についていけないことがある。
 最近はリリーとメアリーは、隣の部屋のアンヘリカ達と仲がいいみたいで、セツナは少し居心地が悪かった。
 少しだけあの子が苦手だった。クスクスしながら喋るのが嫌な感じで、自分が恥ずかしくなるのだ。盛り上がっているところに自分から話しかけて輪に入ることなんて到底出来ないし、セツナの声は小さくてどもっているから、周りがシーンとして聞き返されると顔が熱くなって逃げ出したくなる。

 回廊から見える空はオレンジに染まっていて、そろそろ日が暮れそうだ。
 中庭が燃えるように光っている。

 夕暮れの中景色に見とれながら歩いていると、廊下に誰かがうずくまっていた。転んだのか、何かを落としたのかと通り過ぎる間際チラッと横目で見ると、グリフィンドールの男の子が片腕をついて俯いている。
 ふわっと柔らかそうな茶色い髪の毛から見える横顔は、オレンジの光の中でも随分青い。

「だ、大丈夫?」
 セツナは慌てて膝をつき、そっと背中を撫でた。
「……あ、ああ。ごめん、大丈夫だよ」
 ぼうっと顔を上げた彼はたしかリーマス・ルーピン──同学年の優しい男の子だ。ジェームズ達の友達の……。
 セツナの声に、脂汗を浮かべて何か痛みや具合の悪さに耐えるような様子なのに、苦笑するようにニコッと笑い、よろよろと立ち上がろうとした。
 すぐにそれが嘘だと分かる。そしてその姿に共感した。
 セツナも、大丈夫かと問われれば、大丈夫じゃなくてもついヘラッと笑い、笑顔を浮かべようとしてしまうからだ。彼がどうかは知らないが、セツナの場合優しくされるとありがたくて嬉しいのに、お返しも出来ないし、上手い対応も出来ないしで申し訳なく思ってしまうのだ。
 放っておいてほしい、と。

 でも、壁に手をついてなんとか立ち上がるような彼をそのまま置いていくことも出来なかった。
「あああの、今から図書室に向かう途中だったの。だから、その、医務室まで一緒にい、行くよ」
「いや、そんな、大丈夫だよ」
「う、うん。手を繋いでも?」
「あ、うん……」
 嫌かもしれなかったが、一言断り彼の手をそっと握る。片方の手は彼の背中に回し、歩くのをなんとか支えようとした。セツナは小柄だから、イギリス人の男の子を力で支えることは出来ないけれども、どうにかサポートしようとした結果だった。
 リーマスは亀のような歩みでよろよろ進んだ。
 どこか怪我をしているのか、誰かに呪いをかけられたのか、お腹が痛いのか、嘔吐感があるのかセツナには分からなかった。聞こうとしたけれど、耐えるように目を細めている彼に話しかけるのは躊躇われた。多分返事にも体力を使うだろう。

 階段で何度も休憩している彼を見て、先に先生を呼べばよかったと後悔する。担架とかがあったかもしれない。
 多分セツナ自身も少し慌てていて、思いつかなかった。
「ほんとう、ごめんね。待たせてしまって……。ここまで来たら大丈夫だから、君は図書室へ行っても……」
「しゃ、喋らなくていいよ。えっと、あの、ゆっくり行きたい気分だったの」
 ゆっくり行きたい気分ってなに!?
 脳内で自分を罵る。もう少し上手い言い方があったでしょ!
 気を遣わせないような言い方をしたかったのに、口下手なセツナは全然だめだめで、情けなくなる。でもリーマスは眉を下げて、申し訳なさそうだったが──小さく微笑みを浮かべた。
「ありがとう、セツナ。君はすごく優しいんだね」
 彼女は俯き、少し赤くなりながら首を小さく振った。こんなの、優しいうちに入らない。
「ふ、ふつうのことだよ。日本では、だれかを助けると、自分に良いことが返ってくるって考えられてるの。だ、だから気にしないでね。し、親切ポイントを溜めてるだけだから……だから……」

 セツナの声はどんどん尻すぼみになり、ヘラヘラ笑ってうつむく。
 親切ポイントってなに……! 自分で自分が分からない。もう喋らないで! このバカ!

「親切ポイント……。は、ははっ! そっか、セツナはそれを溜めてるんだね」
「う、うん……」
 そんなものを溜めたことはなかったが、今日から溜めることになってしまった。とんだ変人だ。
 なんとかリーマスが申し訳なく思わないように、と思って言葉を重ねた結果、余計なことまでベラベラ喋って、笑われて……。コミュニケーション不足と人見知りが災いして緊張で変なことまで喋るのは、コミュ障の典型だった。

 でも、ほんの少しだけ幸いなのは、リーマスの笑い声に嫌な感じがまったく含まれていなかったことだ。
 バカにしたり、見下す感じじゃなくて、思わず零れてしまった、という風な笑い方だった。
 引かれていなくてセツナは心底安心した。

 なんとか医務室に辿り着いた彼に、マダム・ポンフリーが大慌てで近付いてきた。
「まぁまぁ、遅いと思ったら、ルーピン!」

 ──遅いと思ったら?
 支えている彼の体がぎゅっと硬くなった。
「ありがとう、えー……」
「あ、と、ノースエルです」
「ミス・ノースエル。もう大丈夫ですよ。ありがとうね。さぁさ、ルーピン、横になって」
「セツナ、本当にありがとう」
「うん。お、お大事にね」
 セツナは何か言いたそうなルーピンに、微笑みを浮かべてうなずいた。
「ホグワーツに入って1ヶ月くらいだし、きっと疲れちゃったんだね。ゆっくり休んでね」
「うん……ありがとう」

 彼は安心したように微笑んだ。
 仕方ないけれど、やっぱり申し訳なさそうだった。そんな風に思わないでいいのに。
 リーマスはたぶん一人っ子な気がした。責任感が強そうというか、人にあれこれされ慣れていないような感じがする。

 彼に申し訳なさや、感謝とかをあんまり過剰に感じないで欲しいのは、彼を気遣うだけの目的じゃなく、セツナ自身があんまり他人から謝られすぎたり、お礼を言われたりするのに慣れていなくて、嫌だったからだった。
 日本では当たり前だったから、サラッと流して欲しくて、過剰反応されて目立ったりするのが嫌だった。

 セツナはそのまま、ルーピンに言ったように図書室に行き、ついでに復習をして戻った。こうすれば嘘にならなくてすむ。
 嘘をつくのがセツナは苦手だった。
 嘘をついたら、いずれバレる気がして、小心者のセツナには荷が重い。


 リリー達と夕食を終え、談話室に戻ると、ジェームズとシリウスが会話してるのが聞こえてきた。
「リーマスどこ行ったんだろ?」
「さぁな。授業終わりから見てないよな」
「図書室とかかな?」
「さすがに戻ってくる時間だろ。そういや今日はなんか調子が悪そうだったような……」

 リーマスは彼らに言っていなかったみたいだった。伝えた方がいいか迷う。
 心配かけたくなさそうだったけれど、あの様子だとたぶん医務室に泊まることになりそうだから、ずっと帰って来ないともっと心配をかけることになるだろう。
 でも、ジェームズとシリウスに話しかけるなんて……。
 ジェームズは声が大きくていつもテンションが高くて怖いし、シリウスは数日前のあれからセツナのことをとても冷たい目で見るから、めちゃくちゃ怖かった。
 どうしよう。

 でも知らないふりしたら、後からバレた時に、なんで知ってるくせに何も言わないんだよあいつって思われるかもしれない……。
 悩んだ末、セツナはおそるおそる彼らに近付いた。

「あ、あの……」
 ソファの後ろから声をかけたが、セツナの声があまりに小さくて彼らの声にかき消された。
「あ、あの……!」
「探しに行く?」
「そこまでしなくていいだろ。いつもつるんでるわけじゃねえんだし」
「でもあのカードゲームするには、リーマスがいなくちゃ始まらないじゃないか」
 だめだ。ジェームズは隣の人と話すのになんでこんなに声が大きいんだろう。

 セツナはジェームズの肩を控えめにトントンッと叩いた。
「わっ、何? えーっと、ノースエルだっけ?」
 彼は驚いて振り返った。榛色の大きな目がくりんと丸くなる。シリウスは無言だった。冷たい視線がバシバシ突き刺さっている気がして、セツナは彼を視界に入れないように、ジェームズのネクタイのあたりを熱心に見つめた。
 理由は分からないが、シリウスはセツナを嫌っている。そういう目が分かる。スリザリンが嫌いらしいから、スリザリンに媚びを売るようなセツナが嫌いなんだろう。
 それだけで、こんなに嫌悪感と軽蔑に満ちた視線を向けられるだろうかとも思うけれど、他にも要因があるかもしれない。セツナは人に好かれる要素の方が少ないから、仕方がない。

「あの、ルーピンは医務室に行ってたよ……」
「そうなのかい? なんで知ってるの?」
「図書室に向かう途中で……」
「見かけたんだ? ふーん。どうしたんだろ?」
「ぐ、具合がすごく悪そうだったよ」
「たしかに青い顔してたもんね。分かったよ、ありがとう」

 コクコクうなずき、セツナは素早く退散した。シリウスは一言も喋らなかったが、セツナをずっと見ていたのは分かった。
 怖い。
 ジェームズも怖いが、シリウスの方が怖かった。
 でも任務は達成した。安心して、セツナは寝室に逃げ帰った。


 ベッドに腰掛けて、ルーティンワークになった杖磨きをする。小窓のカーテンをしめようとすると、今にも手が届きそうなほど大きな月がすぐそばで輝いていた。
 ベールのような薄い雲を纏い、鏡のように美しい月が黒い空の上にぽっかりと浮かんでいる。落ちてきそうなほど大きくて、音を吸い込んでいるように静かに光っている。

 今日は満月なのか……。

 セツナは見とれながら、なぜか胸が不思議な感傷に囚われた。月は日本人の心のようなもので、郷愁が湧くけれど、それだけじゃない。
 満月の夜を見ると、母のシンディーと叔父のデイヴィッドの姿を思い出した。たった一度だけ見た光景が目に焼き付いている。
 屋敷の森のそばの小さな小屋で、デイヴが酷く苦しみながら、巨大な狼にバキバキと変身してゆき、シンディーが大きな虎の姿にみるみる姿を変えた。
 ふたつの獣の影が小屋の中で寄り添い、丸くなって眠る。
 
 今のセツナは知っている。
 ハンサムで、優秀で、ノースエル家の長男であるデイヴィッドが何故家も継がずに離れに押し込められ、息をひそめるように生きているのか。
 社交界で祖父母たちは彼を病弱だと通していたし、いつも顔色が悪く、くたびれていたから、本当に病にかかっていたのだと思っていたけれど、その病はウェアウルフィーと呼ばれる感染症だったのだ。

 魔法界のことを学ぶ中で、人狼が忌み嫌われるものだと知ったけれど、あの時のセツナは知らなかった。
 でも、母と叔父がとても切なくて、寂しくて、けれど温かい光景だとセツナは思った。そして、これをセツナが見たと知ったらとても悲しむだろうということも。
 だってふたりは、人目を避けるようにひっそりと家を出て、叔父の調子が悪そうなのも隠したい様子で、彼は心配するといつも申し訳なさそうで、後ろめたそうだった。
 心配されるほどつらそうだった。
 だから、セツナはその光景を誰にも言わず胸の中にしまっている。隠したいなら、秘密を秘密のままで守ってあげたい。
 叔父にとってはきっと、知られるだけで苦しくなるたぐいの秘密なのだ。

 でもセツナにはあの光景を忘れることは出来なかった。
 誰にも入り込めない、セツナにも入り込めないふたりだけの世界があんまりにも美しかった。
 狼と虎が、頭をすりつけあい、体温を分け合うようにひとつのかたまりになって寄り添う光景は、哀しくて切なくて、けれどとても優しい関係に映ったのだ。

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