クリスマスの朝は雪が降っていた。銀の光が寝室の窓から眩く光っている。ベッドのそばにはプレゼントの小山が出来ていて、まさかのサプライズにハリーは嬉しくなった。両親は死んでいるし、今までダーズリーからろくなものをもらったことがなかったら、全く期待していなかった。
「メリークリスマス」
ロンが眠そうな声で言った。
「メリークリスマス」
お祝いの言葉を言うだけで最高の気分だった。ハリーにそう言ってくれる人はいなかった。
ハグリッドから木彫りの横笛、ロンのママからのファッジと手編みのセーター、ハーマイオニーから蛙チョコレート。ダーズリーから送られてきたメモ用紙に、申し訳程度に貼り付けてある五十ペンス硬貨はロンが喜んでくれたので、今までで一番マシなプレゼントだった。
その次の包みは赤い袋に入っていた。手のひらよりも小さくて軽い。
開けると、アクセサリーケースから小さなブローチが出てきた。布で織られた?編まれた?白百合が並んでいる、白と緑と黄色の鮮やかな美しいブローチだった。連なった小粒の真珠が鈍い光を放って揺れている。
つやつやと不思議な照りがある繊細な作りで、柔らかくすべらかで、使い込まれていたような感じだったがくたびれた感じは受けない。見ただけで高価なものだと分かった。でも女性用だ。ハリーにはたぶん使えないだろう。
首をひねっていると、包みの奥のほうに手紙が入っていてた。
『メリークリスマス、ハリー。
これは学生時代、わたしがあなたの母にプレゼントしたつまみ細工のブローチです。リリーの名前にちなんで十四歳の誕生日に贈って以来、気に入って何度もつけてくれた友情の証でした。
彼女が亡くなったあとこれを引き取って、ずっとわたしが保管していましたが、息子のあなたに受け取って欲しいと思い送らせていただきました。気に入ってもらえると良いのだけど。
良いクリスマスを。 S.N』
手の中の小さなブローチが一気に重みを増した気がした。美しいブローチだった。突然光り輝き始めた心地さえした。
母親の形見……。
教科書に書いてあるような綺麗な筆記体だったが、少し丸みのある可愛らしい文字だった。ハリーは『S.N』というのが誰か知りたかった。母親の友人なんだろうか?どうして名乗ってくれないんだろう。残念だったけど、仕方がないかもしれないと思った。
記憶のないハリーでさえ母親の死について考えると胸が痛くなるのだから、友人を失ったこの人はきっともっと辛い気持ちになるに違いない。
ハリーは布で出来たブローチが、万が一にでも壊れないように、金属のピンの部分をそーっとつまんだ。
「それ、なんだい?」
ロンが覗き込んだ。
「ずいぶん綺麗だけど、君そんなの使うの?」
「ママの形見なんだって。誰かが送ってくれたみたい」
ロンが気遣わしげな顔になったので、ハリーはニッコリした。安心してロンがしげしげと眺めた。
「誰が送ってくれたか分かんないけど、粋なことするね。クリスマスに母親の思い出をプレゼントしてくるなんてさ」
「うん」
ハリーは微笑んで百合のブローチを枕元の棚にそっと飾った。照明を受けて淡く反射する光がハリーを照らしてくれている気がする。
もうひとつ小包が残っていた。銀色の透明な液体のような布がてろんと広がる。ロンがハッとして、「透明マント」だと教えてくれた。とても貴重な魔法道具らしい。
ロンは貴いものを恐れ敬うような態度だった。
マントを被って鏡を見ると、首だけが浮いていてその下は完全に見えなくなっていた。
「手紙があるよ!マントから手紙が落ちたよ!こんなすごいもの、誰が送ってくれたんだろう?」
見覚えのない風変わりな細長い字でこう書いてある。
『君のお父さんが亡くなる前にこれを私に預けた。君に返す時が来たようだ。上手に使いなさい。メリークリスマス』
こっちはイニシャルさえ載っていない。裏返しても、目を凝らしても書いてあるのはそれだけだった。
ハリーはジーン……とした。
パパはこれをどうやって使ったんだろう?子供の頃から持っていたんだろうか?ハリーにとってのロンのような親友と一緒に使っていたのだろうか?ハリーは何度か冒険したけど、これがあればどんなに良かったか。ハリーのようにホグワーツを冒険したりしたんだろうか。
指先が震える感じだった。母親の形見に、父親の形見。今までまったく知らなかった両親の面影に触れることが出来た。今日は人生でいちばん幸せなクリスマスだ。
*
ハリーは両親と出会うことに夢中になっていた。母のリリーはたっぷりとした綺麗な赤毛と、知性と優しさで煌めくエメラルドのような瞳をしていた。ハリーと同じ目。父のジェームズはハリーよりちょっと厄介そうなつんつん跳ねる髪の毛で、榛色の目が挑戦的に輝いていた。自分と鏡写しのようにそっくりだったけど、自信に溢れた表情がハリーとは違う。
鏡の中で、両親はハリーの両隣に立っていて、リリーは頭を撫でてくれたり、ジェームズがハリーの背中を叩いたりした。ジェームズはリリーの腰に手を回していて、三人はとても仲が良さそうで……。
両親と会えた深い喜びと、鏡の中の自分が羨ましくてたまらない気持ちでハリーはもみくちゃにされたが、鏡を見るの幸せが体内を満たしてくれるのを感じた。
「ハリー、また来たのかね?」
ハリーは飛び上がった。ヒヤーッと氷水を背中にかけられた気分で振り返ると、ダンブルドア校長が机に腰掛けてハリーを見下ろしていた。
その隣に、複雑な表情を浮かべているノースエル先生も立っている。微笑みを讃えるダンブルドアと違い、悲しそうにも、怒っているようにも見える顔で、唇をぎゅっと引き結んでいる。
「ぼ、僕、気がつきませんでした」
「透明になると、不思議にずいぶん近眼になるんじゃのう」
ダンブルドアは怒っていないようだった。ハリーは少しだけほっとする。
ダンブルドアはこれを『みぞの鏡』だと言った。
この世で一番幸せな人には、この鏡は普通の鏡になる。その人が鏡を見ると、そのまんまの姿が映る。
「鏡が見せてくれるのは、心の一番奥底にある一番強い『のぞみ』じゃ。それ以上でもそれ以下でもない。君は家族を知らないから、家族に囲まれた自分を見る。ロナルド・ウィーズリーはいつも兄弟の陰で霞んでいるから、兄弟の誰よりもすばらしい自分が一人で堂々と立っているのが見える」
彼はハリーだけでなく、ロンの見たものも知っていた。尊敬と畏れを感じた。ホグワーツ内で起きていることを、ダンブルドアは何もかも全部知っている……。
「しかしこの鏡は知識や真実を示してくれるものではない。鏡が映すものが現実のものか、はたして可能なものなのかさえ判断できず、みんな鏡の前でへとへとになったり、鏡に映る姿に魅入られてしまったり、発狂したりしたんじゃよ」
だけど、ハリーが両親と出会うのをちょっとの間だけ許してくれたんだと思った。夢中になりすぎて、現実がどうでも良くなってしまう前までの時間を、ダンブルドアが尊重してくれたんだとハリーは思った。
ノースエル先生はなんにも言わなかった。
眉毛に皺が寄っていて、自分の靴先を静かに睨んでいた。
ダンブルドアは明日鏡をよそに移すと言った。
お別れの時間だ。残念だけど、悲しくはなかった。今ならそうするのは当然のことだと思うし、両親を少しでも知ることが出来た感謝の気持ちでいっぱいだった。
「ノースエル先生、あの、ごめんなさい」
彼女には深夜徘徊を前にも見つかって厳しく叱られている。庇ってもらったのにまた規則を破ってしまったから、失望されたに違いない、と思った。だから一言も何も言わず、ハリーを見てもくれないんだろう。
彼女とようやく目が合った。ヘーゼルアイに深い悲しみが宿っているのを見て、ハリーは胸がズキンとした。
「いいのよ、ハリー。わたしもきっと彼らに会うのを抑えられなかったわ」
ノースエル先生は静かに首を振った。不思議な言い方だと思った。先生にも会いたい人がいるのかもしれない……。
ハリーは立ち上がった。
「あの……さいごに一つ質問してよろしいですか?」
「いいとも。いまのもすでに質問だったしね」ダンブルドアは寛容にほほえんだ。「でも、もうひとつだけ質問を許そう」
「先生たちならこの鏡で何が見えるんですか?」
「わしかね?厚手のウールの靴下を一足、手に持っておるのが見える」ハリーは目をまたたかせた。
「靴下はいくつあってもいいものじゃ。なのに今年のクリスマスにも靴下は一足ももらえなかった。わしにプレゼントしてくれる人は本ばっかり贈りたがるんじゃ」
ノースエル先生がやっと小さく笑った。
「来年から、靴下を送らせていただきますね」
「おお、そうしてもらえると大変うれしい」
くすくす笑ったあと、ノースエル先生はハリーに向き直った。
「わたしも過去を見るわ」
先生の目は穏やかだった。懐かしむように目を細めている。
ベッドに潜り込んだあと、ハリーはダンブルドアが本当のことを言わなかったかもしれない、と思った。ノースエル先生の寂しそうな顔を思い出した。きっとあれはちょっと無遠慮な質問だったんだ……。
*
ニコラス・フラメル。ダンブルドアの友人。賢者の石の共同制作。ホグワーツで守っているのは、永遠の命をもたらす賢者の石だったのだ。
ハリーは禁じられた森でクィレルを脅しつけるスネイプを見た。石を奪われるのは時間の問題だと思ったが、クィレルはなかなかしぶとく粘っているようだった。
ハリー達は誰にも言えなかった。ノースエル先生は元オーラーだけどスネイプと仲がいいし、マクゴナガル先生なんか、秘密を握る上で破った校則を知ったら途端に退学にするだろう。
ハグリッドの小屋で、賢者の石を守る先生方の名前を教えてもらった。ハーマイオニーのおだてが劇的な効果を発揮した結果だ。ハリーとロンは笑うのを必死に我慢した。
「私たち、石が盗まれないように、誰が、どうやって守りを固めたのかなぁって考えてるだけなのよ。ダンブルドアが信頼して助けを借りるのは誰かしらね。ハグリッド以外に」
ハグリッドの巨大な身体が膨らんだ。
「まあ、それくらいなら言ってもかまわんじゃろう……さてと……俺からフラッフィーを借りて……何人かの先生が魔法の罠をかけて……スプラウト先生……フリットウィック先生……マクゴナガル先生……」
ハグリッドが大きな手で指折り数える。
「それからクィレル先生、ノースエル先生も扉に魔法をかけたし、もちろんダンブルドア先生もちょっと細工した……待てよ、誰か忘れておるな。そうそう、スネイプ先生」
「スネイプ?」
三人は顔を青ざめさせたが、ハグリッドはスネイプをまっすぐ信じている。フラッフィーの秘密はダンブルドアとハグリッドしか知らないと聞き、なんとか僅かに安心した。
それに扉の細工は、ハリーたちがかかったあれだろう。
あんなに甲高い音で警報が鳴り、全身を拘束されるのは相当厄介に違いない。でも、双子の話を聞く限り、昼は物騒な魔法が発動しないようだけれど……。
小屋はなぜか蒸風呂のようだった。
窓を開けるのを断られ、チラッと暖炉を見たハグリッドの視線を追う。ハリーはゴクリと自分の喉が動くのを感じた。
「ハグリッド──あれは何?」
やかんの下に大きくて黒い何かの卵がある。聞くまでもなくハリーは分かった。ハグリッドが図書室で読んでいた本──。
「えーと、あれは、その」
悪戯が見つかった子供のように、大きな身体を縮こまらせてハグリッドはモジモジした。
「どこで手に入れたの?すごく高かっただろ?」
「賭けに勝ったんだ。昨日の晩、村まで行って、ちょっと酒を飲んで、知らないやつとトランプをしてな。はっきり言えば、そいつは厄介払いして喜んでおったな」
得意そうな声で胸を反らしている。
ハグリッドは孵したあと、ここで育てるつもりらしい。ハリーでも知っている。ドラゴンは火を吹き、獰猛で、家よりも大きくなり、噛み付く。ハーマイオニーが「この家は木造なのよ」と至極真っ当な指摘をしたが、ハグリッドはまったく聞こえていないようだった。
その時、小屋のドアがコンコン、とノックされた。
ハグリッドの体がびくついた振動で木の家が揺れた。
「誰だ?」
警戒するように、ハグリッドは暖炉の前に座って卵を隠した。
「わたしよ。いい蜂蜜酒が手に入ったの」
「セツナか。入ってええぞ」
ハグリッドの体から力が抜けた。ドアから覗いたノースエル先生は三人をキョトンと見つめた。
「僕たち、ハグリッドのお茶会に招かれていたんです」
「彼とは友人同士で……」
「聞いてるわ、小さなお友達が出来たって。わたしも学生の頃は彼とお茶会をしたのよ」
ハリーにとって、ノースエル先生は「ちゃんした大人」だったので、咄嗟に言い訳めいたものを言ってしまったが、先生はニコニコした。彼女もハグリッドの友人だったのか。ハグリッドはミードグラスを二つ並べたが、「子供たちがいるならお酒はよくないわね」と少しバツが悪い顔をした。
「あの、このことマクゴナガル先生には……」
ハリーは勢いよく頷いた。言われてみれば、外はもう暗いけどまだ就寝時間じゃない。ハグリッドの秘密に比べたらかわいいものだ。むしろ、先生のちょっと内緒を知ることが出来て嬉しかった。
それに、イギリスじゃ昼間や仕事中に嗜むお酒なんて普通のことだ。子供たちの前、といったけど、大人がいる場なら十一歳のハリーでもお酒を飲める。ノースエル先生はすごく真面目なんだろう。秘密とも言えない。もしかしたら日本の価値観なのかもしれない。
「僕たちお邪魔なら……」
「邪魔なんちゅうことがあるもんか!なぁ?それにセツナ、お前さんはホグワーツに来てからずっと気ぃ張っとるだろう。たまにゃあ息抜きせんといかん。おっ、こりゃあ三本の箒で買ったのか?」
ノースエル先生の手からあっという間に瓶を取り、静止する彼女を置いてグラスに液体を注ぐ。氷にとろりとした琥珀色が絡んだ。華やかな香りがふわっと広がって、ノースエル先生は苦笑いしながら「乾杯」とグラスを持った。
ハリー達も紅茶のカップを持つ。カチンと小さく響く音がなんだか大人の仲間入りをしたようで無性にくすぐったかった。
「うーん、やっぱりロスメルタんとこの酒が一番美味い」
「そうだね。彼女の審美眼とこだわりは本物だよ。久しぶりに味わえたわ……」
「次はいつ暇があるんだ?忙しいのはわかっとるが、そろそろ一緒に飲みに行きてぇな。一人飲みは飽きちまった」
「うーん、年度末かなぁ。わたしも行きたいけど、今ホグワーツを開けるのは、ね?」
ノースエル先生は目配せした。ハグリッドは訳知り顔で「そうだろうとも」と頷いている。きっと賢者の石の件だ。
好奇心が湧いたが、彼女にその話を振るわけにはいかない。
「先生はハグリッドとよく飲みに行かれるんですか?」
ハーマイオニーが尋ねた。
「そうね、昔から何度か。学生の頃からの付き合いなの、彼はずっと生徒に親切で、対等な友人のように扱ってくれるでしょう?それが嬉しかった」
「なんじゃ急に、褒めても俺は別に……ロックケーキくらいしか出せんが」
照れくさそうにハグリッドがいそいそお茶菓子を出した。岩のように固いケーキだ。彼女がくすくす笑う。
「分かります。僕に初めて魔法界のことを教えてくれたのはハグリッドなんです。それからずっと優しくしてくれて」
「ハリーまで!もう勘弁してくれ」
「いいじゃない、あなたの美点よ」
それからしばらく談笑した。ハリーは部屋の暑さに汗をかいていたが、ノースエル先生は気にならないようだった。汗もかいていない。でもほんのりと頬が赤かった。
「少し酔いそうだわ。ハグリッド、お湯をもらっていい?」
やかんを指し示している。蜂蜜酒をお湯割りにするんだろう。ハグリッドは頷いたが、暖炉に近付いたノースエル先生にハッとして慌てて怒鳴った。
「待てセツナ、俺が……」
「ハグリッド……」
しかし遅かった。ノースエル先生は一点を凝視している。ドラゴンの黒い卵を。
*