38

 息を潜めてジッと闇に同化する。フィルチや教師はいない。
「フェレブライ」
 囁くと、インクを垂らしたような重たい闇の中でも、くっきりと浮き上がるように周囲が見え始めた。絵画や肖像画も眠り、自分の吐息だけが耳元で反響している。
 クリスマス休暇の時は教師の気が緩んでいたから深夜徘徊していたが、学期中に夜間外出禁止を破るのはほぼ初めてだった。去年の学期末パーティー以来かもしれない。
 ローブを細い指でキュ、とつまむ。
 新雪の肌はぼんやりとした頼りない蝋燭に照らされ、闇の中で真珠のように薄く光を帯びていた。

 音を立てないようにそっと忍び足で進む。本当はリドルに教えてもらった目くらまし呪文をかけたかったのだけれど、高学年の内容で、まだ完璧に扱えなかったのだ。
 シャルルは秀才だが、天才ではない。
 理論を理解し、反復練習を何度も繰り返して今の実力を保っている。一日で成功させられるほどの難易度ではなかった。それが少し情けない。

 玄関ホールの巨大な扉を僅かに開くとギィギィと軋む音が静かな空間に、思った以上に響いた。心臓に汗をかきながら素早く潜り、急いで木の影に隠れる。
 幸い、誰かが気付いた様子はない。
 シャルルは小走りでハグリッドの小屋に向かった。
 絶対成功させたくて、プレッシャーと興奮が鳩尾のあたりに鈍痛をかけてくる。
 後から気付いたのだが、シャルルは当たり前のように「ジニー」の名を出していて、リドルも当たり前のように「ジニーにさせたこと」を話した。その会話の中に少しの齟齬もなく、リドルはシャルルがジニーについて知っていたことに気付いていたことを表している。
 その上でジニーを操っていたことを教えてくれたのは、前進のような気がした。信頼はされていないだろうけれど……少しでもそれに答え、役に立つと思わせたい。

 ハグリッドの小屋へは初めて来た。
 みすぼらしい小さな木の部屋で、スチュアート邸の庭の隅にある箒置き場よりも粗末だった。
 奥の方に禁じられた森が見える。月が照らす中でも、その森はサワサワと揺れ、深い闇が黒々と渦巻くようで不気味だった。何かに見られているかのような気分に、足を踏み出すのが躊躇いそうになる。去年この森に連れてこられたドラコはさぞ恐ろしかっただろう。
 髪をひとつに纏め、お団子にしている首筋が冷気でゾーッと撫でていくようだ。シャルルは目深にフードを被った。

 裏の方の畑のそばに鶏小屋があった。
 柵で囲まれ、その柵に魔法がかかっている。焦げ臭く、酸っぱいような香りは木酢液かもしれない。獣避けだろう。それから鼻にツンとくる匂いは吸血性の魔法生物避け。
 調べた限り、森番は鶏が死んでいることを人為的だとは考えていないらしい。都合がいい。
 鶏は昼行性なので、小屋の中で自分の羽根に顔をうずめるようにして寝ている。起きないようにそろっと近づき、十数匹いる鶏たちに「シレンシオ」をかける。
 こんなにたくさんいるのに、ジニーのやり方は悠長すぎる。到底全て殺しきらないだろう。
 シャルルは魔法生物の知識には詳しいが、家には生き物はハウスエルフしかいなかったので、頭を隠している雌鳥と雄鶏の区別がつかなかった。それに、雄鶏だけ殺したらあからさますぎる気がする。

 唇を舐め、周囲を用心深く見回し、シャルルは囁いた。
「ディフィンド・マキシマ」
 血飛沫が月夜の中に飛び散った。突然死んだ仲間に、鶏達が起きてバサバサと走り回り始める。シャルルは焦る気持ちを必死に押し殺し、何回か同じ呪文を繰り返した。
 バタバタと倒れていくのを、何とも言えない気持ちで眺める。やがて小屋の中で動いているものはいなくなった。
 張り詰めた静寂。
 自分の肩が上下に激しく動き、杖を握った手のひらが震えて、背中に汗がつたった。
 最後に鶏小屋の網を壊した。
 獣が噛み破ったように見えるだろう。

 自分の起こした惨状を検分するように眺め、やがてシャルルはローブを翻してその場を後にした。

*

「はーっ……」
 地下への階段前に辿り着いたシャルルはようやく息を深く吐いた。熱くなった血がせわしなく巡っている。絵画たちの寝息がさざなみのように石壁に跳ね返る。
 虫や蛙や鼠以外の、あれほど大きな形の命を奪うのは初めてだった。
 暗闇の中で舞うように吹き上げる鮮血も、声を縛られて生まれる前に消えた断絶魔も、引き絞られるように苦悶に蠢いていた体も。
 凄惨な光景は甘美というには恐ろしく、怖気付くには悦楽的すぎる。
 高揚感と慄きが波のように満ちては引き返し、シャルルの細い身体を翻弄していた。

 壁にもたれて息を落ち着かせ、ルーモスもつけずに階段をそっと降りると、中腹でニタニタとした甲高い声が背後から忍び寄った。
「いーけないんだ、いけないんだ……夜中にフラフラしてる悪い子だ〜れだ?」
「ッ」
 シャルルはあやうく叫びそうになったが、驚きのあまり鳩尾を打たれたように声も立てられなかった。ポルターガイストのピーブズだ。嫌なやつに見つかってしまった。
 もう充分視界を阻害しているローブのフードを、さらにぐいと引っ張った。
「せ〜んせに言ってやろ……だってチビちゃんがいけないんだものね?悪い子、悪い子、捕まえるぞ」
 歌うように暗い目を細めて、ぷかぷか、空中を泳いだり回っている小男を前に、シャルルはパニックになりそうな気持ちを抑えて、脳が高速で回転していた。

 スリザリン生なら、血みどろ男爵の脅しが使える──ピーブズが唯一恐れるのがスリザリンのゴーストだ。
 でも今、シャルルはフードで顔を隠し、緑のローブではなく私服用の無地の黒いローブを着ている。目立たないようにするため、そして万が一見つかった時寮から点を引かれないようにするため。黒髪もフードで見えていないはず。
 暗闇の中で俯いていた彼女は、チラッと宝石の目をまたたかせ、素早く杖を抜いた。
「シレンシオ!」
 シャルルを怯えさせようとすべらかに動いていた声がピタッと止まる。ピーブズは何度かまばたきをし、苛立ったように顔を歪め、手近な絵画を空中に浮かべさせた。
「ペトリフィカス・トタルス」
 杖を振るった瞬間、シャルルは猛然と走り出した。ガシャアン、と額縁が床に落ちたけたたましい音と、「ギャッ!一体なんだ!?私の安眠を害する奴は!?」と叫ぶ声が聞こえたが、それすら置いていくように足を目まぐるしく動かした。

 合言葉を唱え、石壁に現れた扉に滑り込んだシャルルは、ソファにへなへなと倒れ込んだ。
 あ、危なかった……。
 心臓が口から出そうなくらいバクバクしている。安心したら冷や汗がどっと背中に浮かんだ気がする。
 シャルルは、こういう冒険じみたことは初めてだった。
 去年といい、今年といい、秘密に近づいていく薄気味悪いような、高揚感の伴うドキドキなら経験したことがあるけれど、基本的にシャルルは知識欲が旺盛なだけの優等生だから……しかも、今日はやったことが、やったことだ。
 鶏を殺したこととシャルルを結び付けられたら、罰則どころじゃすまないかも……。

 自分がやったことの実感が沸いてきて、手が震える。
 去年のハリーたちの冒険を思い出し、彼らに一種の恐れのような感情が浮かんだ。彼らはいつもこんな冒険をしているのかしら。こんなの、心臓がいくつあっても足りない。
 でも、リドルに協力すると決めたから、こういうことが増えていくんだろう。
「フー……ふふっ」
 けれど、後悔はなくって零れたのは微笑みだった。
 高揚感が血を巡っていて、ドキドキしてなんだかたまらなかった。
 リドルに褒めてもらえるかしら。…

 寝室は静まり返っていて、誰も目覚めた様子はない。
 シャルルは天蓋のカーテンをしめ、ローブを脱ぐと「インセンディオ」で燃やした。証拠に繋がるものはないほうがいい。そして自分に「スコージファイ」をかける。
 泡のようなひんやり冷たい水の感覚が全身を撫でていった。
 自分の身も綺麗になるし、杖が最後に使った呪文も清め呪文なら疑わしいことは何もない。

 机に座ると手帳を開いて、羽根ペンを持った。
「全部殺してきたわ」
 みるみるうちに黒い文字が浮かんだ。
『早かったね。大丈夫だったかい?』
「途中ピーブズに見つかったけど、呪文をかけてきたし、教授たちには見つからなかったわ。顔も見られてないと思う」
 鶏を殺すにあたって、シャルルはリドルから呪文は色々と教えてもらったけれど、決行に関しては彼に相談することなく自分で計画を立てていた。
 初めて任された仕事だから、すべて指示されるのではなく、自分で動けると彼に示したかったのだ。
 2年生ながらに頭を回し、足がつかないようにと拙くも振る舞ったシャルルに、リドルは満足気だった。

『そう、やっぱり君は優秀だね。君を選んでよかった』

 このたった一文だけで、こんなにも胸が軋むのはなぜだろう?
 頭のてっぺんから爪先まで、じわっと滲むような感覚が全身を包んで、最後にそれが心臓の内側からキューッと締めつけてくるようだった。指先に火が灯る。
 得意げに胸を張るのを隠し、文字だけは冷静になるように努めた。まぁ、少し震えているからうまくいったかわからないけど。

「わたしは役に立つでしょう?」
『そうだね──君の認識を上方修正したよ。それに、精神の乱れもそこまで懸念するほどじゃないみたいだ。安心したよ。ジニーの怯え様には、それはもう酷くうんざりさせられてね』

 初めて彼女と話した時のことを思い出した。
 青ざめて震え、何かに怯えていた様子……。
 玄関ホールでぶつかった時に、リドルの日記帳を意図せず手に入れたあの時、まさしくジニーが鶏を殺したあとだったのかもしれない。
 外にいたのか尋ねると酷く動揺し、靴には雪に混じった赤いものが……あれは血だったのだろう。

 リドルに褒められ胸を膨らませながらも、シャルルは庇った。それは、自尊心が満たされるのを隠し切れていなかった。
「あの子はまだ1年生の女の子なのよ。普通の子にあんまり求めるのは酷だわ」
『年齢は言い訳にならないさ。現に君は2年生で仕事を完璧に遂行してみせた。そうだろう?』
「まぁ、そうかもしれないけど、でもジニーも……」
『だが、言った通り君はまだ2年生だ。小さな蛇だとしても、今は興奮で自覚していないだけで精神に負荷がかかっているのは間違いない。もう休んだほうがいい』
「このくらいで動揺したりしないわ」
『初めての経験というのはストレスがかかるものなんだ。それに、この後の方が重要だろう?』
「この後?」
『秘密を暴くことも、何かを引き起こすこともそれほど困難じゃない。一番重要で、かつ困難なのは握った秘密を握っていないように振る舞い、扱うこと』
「……そうね…」
『わかったならお休み。普段と変わらない態度で過ごすことでようやく秘密は秘密になるんだ』
「わかったわ。おやすみなさい、リドル」
『よい夢を、シャルル』

 文字が優しい気がしてなんだかくすぐったい。
 横になると、たしかに彼の言った通り、ドシッと身体に重力がのしかかってくるような感覚があった。疲れていたんだろう。彼には動揺しないなんて言ったけど、シャルルはずっと心が動きっぱなしだった。
 目を閉じると睡魔が手招きしている。
 今日は彼に警戒しないで、朗らかにずっと話せていた気がする。それに、彼もとても優しかったような。
 たくさん褒めてくれて……彼に褒められると満ち足りたような、自分がとても凄い存在になったような気持ちになった。
 少しは認めてもらえたのかしら……。
 やがてシャルルは微睡みに落ちていった。
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