イル・テローゼ 2

 ただでさえ最悪なイルの境遇は、これ以上悪くなりようがないと思っていたのに、もっと悪くなった。これもスチュアートのせいだ。

 変身術が得意なイルは授業でよく加点を貰う。小テストでも、レポートでも悪い成績を取ったことがない。マクゴナガルもイルを認めてくれていて、最初の授業で成功していたら、今の状況が何か変わっただろうかとたまに思う。
 イルが手を挙げる度に舌打ちや嘲笑、陰口のさざなみが起こるけれど、発言を辞めるつもりは無い。唯一正当に評価される機会だったし、悪いことをしていないのに俯くような真似は自分で許せなかった。

 授業が終わって逃げるように談話室に向かう。掲示板の合言葉の変更を急いで確認していると、ゾロゾロと生徒たちが追いついてきた。寝室に逃げようとすると、上級生がわざとぶつかってきて教科書がバラバラと手から崩れ落ちた。
 しゃがみながら、イルは相手を睨む。
 上級生はニヤニヤしながら見下ろしていて、パーキンソンがそれを見つけて甲高く笑った。
「あら?テローゼったら跪いてまで挨拶してるの?自分の身の程をそろそろ弁えてきたみたいね」
 瞬間的に言い返しそうになったけれど、唇を噛み締めて耐える。パーキンソンと揉める方が面倒だ。勝ち誇った表情や、周囲の笑い声が鬱陶しい。
 笑わないのはスチュアートやノットくらいだった。
 退屈そうに素知らぬ顔をしているスチュアートにパーキンソンは不満そうに「シャルルもそう思うでしょ?ほんとにおかしいったら」と水を向けた。
「何が?」
「何がって……」パーキンソンは少し言い淀んだ。「テローゼのあの無様さよ。生意気なのが少しマシになって、いい光景でしょ?」
 スチュアートは肩を竦めた。
「あのね、パンジー。わたしはスリザリンに相応しくない人のことは見えないの。前から思ってたけど、あなた達ってみんな非生産的よ。わざわざかまってあげるなんてよっぽど人がいいか、よっぽどヒマなんでしょうね」
 フンと笑うと、スチュアートは寝室に戻って行った。

 後に残された生徒の間に戸惑いの沈黙が流れる。マルフォイたちやグリーングラスがいつもの席に座り、「どういうことだ?」と話し始めると、彼らの周りに人が集まり始めた。
「ああ、あの子いつも部屋で穢れた血のこと完全に無視してるの」
「そうなのか?」
「見えないって?」ノットが尋ねた。
「なんか透明人間とかって言ってたわ」
「なるほどな」珍しくノットが唇を釣り上げた。「本当に、相手にする価値のない人間は徹底的に興味がないんだな」
「あのスチュアートが……。意外だけど好感が持てるな。優しくすべき人間を彼女はきちんと選別しているってことが分かってよかったよ」
「あら、そんなの最初からでしょ?シャルルって純血の友達しかいないじゃない。他寮生でも」
 グリーングラスがくすくすと笑い飛ばした。
「前から馬鹿らしいと思ってた。寄ってたかってあいつを笑いものにしたって面白くも何ともない。ただの時間の無駄、くだらないってね」
 ノットが言い、マルフォイも不満そうにしながらも頷いた。それを見てパーキンソンが追従する。
「そうね、話しても苛つくだけでつまらない子だったわ」
「わたし達、あんな子にかまってあげるほどヒマじゃないもの。もう放っておきましょう」
 マルフォイ達がそう結論を出すと、やがて顔を見合せながら他の生徒たちも消えていった。チラッとイルに視線を投げかけて、睨んだり、蔑視しながらも誰も何も言わない。
 イルは教科書を拾って寝室に戻った。顔を上げることは出来なかった。

 そして次の日から、誰もイルに話しかけなくなった。

*

 寒空のような日々を過ごした。いつも孤独で、イギリスの雪が骨身にキンと滲みこんで凍えるような毎日。
 イルの会話相手は教授達だけだ。授業でだけはなんとか息が出来た。手を上げて、正答に点を貰って、そうしたら自分が誰かの視界に入っていることに安心出来た。自分を惨めに思ってベッドの中で押し殺して泣く夜が幾夜もあった。
 でもある日、イルに友達が出来た。

「汚い顔だな、ミジョン。なんでそんな顔を堂々と晒して歩くことが出来るんだ?」
 廊下の隅で、悪意のこもった声が響いた。茶髪の女の子が俯きながらイルの横を走り去っていった。
 事情は分からなかったけれど、通りすがりに泣いているのが見えて、イルは男子生徒を睨んだ。
「女の子によくそんな酷いことが言えたものね。貴方って鏡見たことないの?」
「黙れよ、インビジブル」
「あら、貴方にはわたしが見えてるようだけど?」
 鼻を鳴らしてイルは女の子を追いかけた。茶色の髪を見失わないように走っていると、やがて彼女は3階のトイレに駆け込んだ。
「ねえ、貴方大丈夫?あんな人の言うことなんか気にすることないわ」
 ひとつだけ閉じたドアに優しく声をかけると、2人分の鼻を啜る音が返ってくる。
「……他にも誰かいるの?」
「貴方みたいな美人がなんの用?あたしのことを笑いに来たの?」
「違うわ、泣いていたから気になって……」
「そう言って後で陰口を言うんでしょ!帰ってよ!あんたみたいな綺麗な子に虐められる気持ちなんか分からないわ!」
 つんざくような甲高い声が響いたかと思うと、水が跳ねる音がした。そしてまた啜り泣く声。
 イルは唇を歪めて自嘲した。
「分かるわ。わたしも虐められてるから」
「え?そうなの?」
 涙混じりの声が嬉しそうに聞こえた。

 洗面台の排水溝から冷たいグレーの女の子がにゅるっと飛び出して来て、イルは「きゃあっ」と叫んだ。
「きゃははは。間抜けな顔見るのっていい気分だわ」
「あなたは?泣いてた女の子は?」
「そこ」ゴーストは閉まっているトイレを指さした。「いつもここに泣きに来るの」
 ゴーストは腕を組んでイルを見下ろした。
「緑のローブね。あたし大嫌い。もっとも全員大嫌いだけど」
「あなたは?」
「先に名乗ることも知らないの?ほんと、美人って傲慢よね。あたし達が言うこと聞いて当たり前だと思ってる」
 ゴーストは泣きながらトイレの中に飛び込んで行った。水飛沫がかかって、鳥肌を立てながらローブで顔を拭う。
「失礼。わたしはイル・テローゼよ。スリザリンの1年生」
「マートルよ」蛇口から顔を出しながら彼女が名乗る。
「ここに何十年も住んでるの」
「じゃあ大先輩なのね」
「先輩?そう、先輩よ」マートルは目を開いて、嬉しそうに歪んだ笑顔を浮かべた。ニキビのせいで顔の筋肉が少し引きつっている。
 聞いたことがあった。嘆きのマートル。トイレに住むうるさい女のゴースト。3階のトイレに人が寄り付かない理由が彼女だ。

 イルは閉じたドアの前にゆっくり手を当てた。
「初めまして、泣いている誰かさん。さっきの男には代わりにわたしが言い返してさしあげたわ、鏡見なさいよって。だからもう泣き止んで」
 ひくっ、喉の引き攣る音。
「酷い男がいたものだわ。レディにあんな無礼な振る舞い、信じられない」
「……私のことは、放っておいて……」
 か細い声だったが返事が返ってきて安堵する。同時に嬉しかった。教授とゴースト以外の人間と敵対的ではない会話をするのがあまりにも久しぶりだったから。
「さっきも言ったけど、わたしはイル・テローゼ。スリザリンよ」
「……知ってる」
 躊躇いがちな返事にイルは思わずクスリとした。「ご存知だったなんて光栄ですわ。透明人間なのに有名になったものね」
「透明人間?」興味をそそられたように空中に浮かんでマートルが近づいてきた。
「そうよ、わたしはスリザリンで透明人間扱いされてるの。最初は悪口を言われたり、罵倒されたりしたけど今は一切なんにもない。存在ごと無視されてるから」
「なんでそんなに嫌われてるの?あんた、美人じゃない。それも相当」
 吐きそうな顔でマートルが顔を歪めた。
「ありがとう。でもスリザリンじゃ見た目なんか関係ないの」
「マグル生まれ?あたしもそうよ。だから緑のローブの奴らにはよく虐められたわ」
「一緒ね。それに加えて、スクイブの娘なの」
「ああ……。虐められる理由がよく分かった。よくスリザリンに入れたわね」
「本当よね。今組み分けに戻れたなら、絶対スリザリンなんか入らなかった」
「でもあんたはスリザリンに入って、虐められてる」
 マートルは喜びの滲む声で叫んだ。彼女を睨むと、甲高く笑いながら便器に飛び込んで、ぶくぶくとした水音を残してどこかに居なくなった。
 笑い声も泣き声もうるさいゴーストだ。イルにも彼女が生前虐められていた理由が分かった。

「マートルの友達なの?」
 悩むような沈黙の後、小さな声が返ってきた。
「……ううん、マートルは誰のことも嫌いだよ。でもここに来るのを許してくれる」か細い声が付け足した。「泣いてると嬉しそうだけど」
「共感意識を持っているか、性格が悪いかのどちらかね」
「性格が悪いんだよ。でも、気は合う」
「わたしも合いそうだわ」
 控えめな笑い声がして、鍵が外れた。おずおずと女の子が顔を出す。長い前髪からチラチラ見える暗い瞳と、顔いっぱいの痛々しい真っ赤なニキビが印象的な女の子だ。
 黄色いネクタイをしている。
「……エロイーズ・ミジョン」
「泣き止んだようで良かったわ、ミジョン」

 ミジョンとの交流はたいてい3階のトイレだった。
 手紙のやり取りをして、会う約束をして、人目を忍んでこっそりと会う。毎回ミジョンは泣いていたし、何かに嘆いて、自分を憐れんでいた。
「ザカリアス・スミスがまた意地悪を言ったの。ハンナやジャスティンは庇ってくれたけど、本当は内心でスミスと一緒に笑ってるんだよ」
「どうして?彼女達のことはよく知らないけど、正面から庇ってくれるなんて素敵じゃない。こっちにはそんな人誰もいないわ」
「だって自分で1番分かってる。醜くて、汚くて、触れるのも嫌なほどニキビでぐちゃぐちゃだって」
 たしかにミジョンの頬は、ニキビが潰れて白い膿が滲んでいたし、火傷でもしたかのように真っ赤にボコボコしている。でもイルはそっと彼女の顔に手のひらを添えた。
「あんまり自分を卑下しないで、ミジョン。苦しくても顔を上げているの。自分まで自分を恥ずかしく思うようになったらダメよ」
 ミジョンの涙が手のひらを伝っていった。
「どうしてテローゼはそんなの優しくて強いの?わたしもあなたみたいになりたかった。綺麗な顔も、スタイルのいい身体だってそうだし、誰かの意地悪に負けない強さだってそう。私にないものばっかりで自分が嫌になるの」
 優しくて強い?イルは唇を悟られないように歪めた。ミジョンの穏やかな目から零れる雫がとても綺麗に思えた。
 イルは優しくなんてない。強くもない。
 負けたくないから顔を上げて、睨みつけて、でも本当はすごく寂しいし悔しいし悲しい。それを表に出す強さがないだけ。プライドが高いから。笑われたら惨めさや自分の立場を正面から受け止めなくちゃいけないから。
 ミジョンに優しくするのも、会話してくれる友達を失いたくないからだった。
 彼女のことは好きだ。繊細で傷つきやすくて、自尊心が低くて、寂しがりで、少し偏屈なところがあって……。
 同時に、彼女を見て少し安心している自分がいるのも事実だった。「テローゼはどうしてニキビが出来ないの?どうやってケアしてるのか教えて」容姿のことでからかわれて、まっすぐな羨望と少し薄暗い妬みの混じった声で泣きつかれるたび、安堵している。
 自分より下の人間を見ることでしか保てないプライドほど、醜いものはないと分かっているのに。
 ミジョン、あのね、わたしは本当はとても浅ましいのよ。スリザリンの人間だから、本当はすごく滑稽なの。
 ミジョンを失いたくないから、いつもそんなことは言えないけれど。

*

 散々、散々無視したくせに2年生に上がって、何事も無かったかのようにイルを変身術の教師役に据えたことは心底腹が立った。
 本当に腹が立ったのに、怒りとは別の感情が湧き上がったのも否定は出来ないことが悔しい。
 マルフォイがイルのフルネームを口にした。クラス中の視線が突き刺さった。スチュアートがイルの成績を把握していた。ブルストロードがイルに話しかけた。
 スリザリンの中で、イルという存在が浮き上がったのは久しぶりだった。

 強引に話を進め、上級生を巻き込んだ自主勉学計画を立てた割に、その第1回は成功には程遠いあまりにもお粗末な結果に終わった。イルは内心で嘲笑い、すぐに自分が恥ずかしくなった。
 スチュアートが嫌いだけれど、彼女に今まで特に何かをされたことはない。彼女がきっかけで透明人間にはなったが、その態度は正直、昔のイルに似ている。イルも興味のない子はまったく視界に入れないタイプだった。気まぐれに愛想を振り撒き、けれども他人の痛みはどこまでも他人事で微笑んでいるような、そういう人間だった。
 要は彼女に一種のシンパシーと劣等感を抱いているのだ。自覚していた。彼女は前のイルだ。何不自由なく女王様でいられた頃のイル。

 水曜日の授業終わり──2回目の勉強会がある日、スチュアートがイルのところに赴いた。
「テローゼ、少しいいかしら?」
 談話室の隅で話しかけられたイルは不審を浮かべて振り向いた。スリザリン内で話しかけられることは無い。まず驚愕が来て、スチュアートの隙のない自信を纏った微笑みに緊張と不審を持って慎重に答える。
「ごきげんよう、わたしに何か用?」
「今日の勉強会のことで話したいの。ついてきて」
 返答を待たずスチュアートは歩き出した。断られるとは露ほども思っていないスチュアートの背中を見ると、焦げ付くような小さな怒りと共感性羞恥が浮かぶ。
 傲慢な自分を見ているみたいだ。
 イルは黙ってついて行った。

 暖炉の前、お決まりの席やその周辺はマルフォイたちがいない時は上級生が使っている。まずは監督生、スリザリンの中でも一定の尊敬を集めるクィディッチチームの選手たち、家柄の高い子息子女。でもそんな彼らもスチュアートを見ると、「ここ使う?」と席をあける。
「ありがとう。そこの横の席を使わせていただくわ」
「ああ。どけよ、デリック」
「分かってるよ!」
「ごめんなさいね、デリック」
「いいんだ。……今日は珍しい人と一緒なんだな」
「スリザリンの勝利のためなのよ」
 デリックとペワリントンが肩を竦めてフリントたちの方に去った。杖をひと振りして小さなテーブルを目の前に運んだスチュアートは、いつも近くに侍っているレイジーに2人分の紅茶を淹れるように伝えた。
 どうやらもてなされるらしい。
 冷たく澄ましていたイルだが、何を言われるのか指先をすり合わせる。

 暖炉前のソファは、上位者の専用席になっているだけあって寝室にあるものとは比べ物にならないほど座り心地が滑らかでふわふわとしていた。この場所に座れる日が来るとは思わなかった。
 運ばれてきた紅茶をスチュアートが一口飲んで、視線で促されるままにイルも一口いただく。レイジーはこの1年でメイドの仕事が随分上達した。
 鼻の中を抜ける香りがかぐわしい。
「時間を取ってもらってありがとう。今日の勉強会だけど、変身術と魔法史のレポートをする時間にしようと思っているの」
「レポートは個人の進み具合やタイミングがあるんじゃないかしら?」
「ええ、そうなんだけどね。テーマは共通だから必要な資料や知識を手助けしやすいかと思って」
「そう」
 素っ気なく答えた。イルは課題は自分でやりたいけれど、復習を兼ねようとするのも別に有りなのではないかと思う。
「それで?わたしに何をして欲しいの?」
 単刀直入に聞くとスチュアートが上品に吹き出した。
「あなたは回りくどいのが嫌いなタイプなのね。いいわ。テローゼ、あなたにはみんなのレポートを見回って、気にかけてあげて欲しいの」
「……気にかける?」
「ええ」
 目を閉じて、彼女は紅茶を啜った。勉強会は気にかけ合うものだと思っていたけれど、それとは別の意図があるんだろうか。
 スチュアートはイルに見て回って欲しいと言った。
 前回はみんな机について課題と向き合うだけで終わったけれど、それじゃあ集まる意味が無い。声を掛け合える環境にならなければ萎縮して終わりだ。
 思わず溜息が漏れる。
「そうね。嫌われ者のわたしに声をかけられて教えられたなら、反発心で声が上がりやすいかもね。談話室でお茶をしてるこの状況も、わたしを透明人間から脱させるための仕込みなのね?」
 にっこりとスチュアートは美しい微笑みを浮かべた。

 断ってやろうと思った。でも、怒りの中にも保身が過って、数瞬迷った。それを見抜いたようにスチュアートが畳み掛けた。
「もちろんあなたに負担をかける報酬は考えてるの。何を望んでも叶えるよう努力するつもりよ」
「あなたに望むことなんかないわよ」
「つれないわね。あなたをスリザリンとして認めるし、認めさせる。これは望みとは別に保証するわ」
「…………」
 どこまでも上ならの物言いだったけれど、その言葉はイルの胸にストレートに突き刺さった。心が揺れて、隠すように目を細めた。
 透明人間にしたのはスチュアートのくせに。
 悔しい……悔しい。もう誰の視界にも入らない生活をしなくてすむのかと思ったら、全身が安堵に包まれそうになる自分が悔しい。
「考えておいて。受けてくれるなら、今日の勉強会ではわたしの隣に座ってちょうだいね」
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