45

 柱時計がボオン、ボオンと鈍い音を響かせた。ソファにもたれかかり、自分の内なる世界に閉じこもっていたシャルルは、うんざりしたように顔を上げる。
 朝食の時間に合わせて鳴るように設定した古い柱時計は、埃をかぶっていた時間が長いだけあって、非常に耳障りな音をしていた。

 膝の上にある、開いているだけでもう読んではいなかった本を雑に閉じると、天井を見上げてコメカミを揉む。
 仮眠を取ろうと思っていたはずなのに、結局朝になってしまった。

 いくらでも好きな時間に寝て好きな時間に好きなことを出来た冬休みが恋しい。それに、好きなことを追い求めていた時間も。
 どんな状況でも知識を得ることは楽しいけれど、やはり「やらなければならない」学びや努力というのはやや億劫にさせられる。
 優等生のシャルルにとって授業をサボるという選択肢はなかった。あくびを噛み殺し、本を本棚に戻すと、シャルルは必要の部屋を後にした。

 教室に入るとドラコの隣に座ったパンジーが目を丸くし、眉を釣り上げた。「昨夜はどこにいたのよ?」そんな声が聞こえてくる。シャルルは苦笑して肩を竦め、何も言わなそうなセオドールの隣に逃げる。
 変身術の教科書を並べ、横にリドルに教えられた呪文が書かれたノートも広げた。高学年の範囲まで含んであり、理論はまとめたが、理解がじゅうぶんではない。特に閉心術と会心術に関しては、成功の兆しさえ見えない。
 セオドールがチラリと横顔に視線を投げ、ノートをなぞっていくのを感じた。呆れたような気配がする。

 今日新しく習うスポンジファイという呪文はシャルルにしてみればあまりにも無害で、あまりにも易い魔法だった。対象を柔軟な物質に変容させるチャームで、一度で成功させる。セオドールも同じだった。
 シャルルはすぐにノートに目を落とした。
 彼がマクゴナガルから加点をもらっている。テローゼやトラヴァースも少しして成功させ、トラヴァースがまだ終わっていない生徒を手伝い始める。
 相互協力はシャルルが言い出し、半ば強制させていることだったが、近頃の彼女は自分の都合に忙しく、蔑ろにしがちだった。
 以前ならば率先してでしゃばっていき、席から動こうともしないセオドールに圧をかけて動かそうとしていたくせに、今は自分が机にかじりついている。
「君は何をそう生き急いでいるんだ」
 声をひそめて彼がつぶやいた。私語をするとマクゴナガルに耳ざとく咎められてしまう。
「そう?」
「そのノート…君の予習の範囲からは外れているだろう。個人的にレポートを纏めていると言っていた攻撃呪文からも」
「そうなのよね」
 シャルルはため息をついた。
「僕たちはまだ2年生だ。時間はこれから充分にある」
「そうね…たしかに…」
 彼女の返事は杜撰で、何かに考え込むように視線が宙をさまよった。
 たしかに、時間はシャルルには充分にある。何事においても、呪文の習得は早い方がいいが、リドルはどうなのだろう。なぜ、今だったのだろう。

 いずれ何らかの手段によってリドルが肉体を取り戻すことが出来るのなら、動き出すのはそれからでもよかったはずだ。いや、そっちの方がよいのではないだろうか。
 まだ2年生のシャルルや、1年生になったばかりのジニーを動かすよりも、自分が準備を整えて復活してからの方が。
 それとも、復活にバジリスクが必要?あるいは…犠牲や誰かの死が?血の粛清と同時に自身のための下準備をしている?
 彼は秘密主義者で、シャルルのことを見下していて、まだ信用されていない。だから彼が何を考えているのか分からなかった。
 憶測するにもシャルルの知を越えた魔法すぎて想像の域を出ない。

 シャルルはせっかちだが、今の彼女が「生き急いでいる」ように見えるのなら、それはシャルルではなく、指示しているリドルだ。
 彼は急いでいる?
 どうして?
 だって、日記として50年も生きてきたはずなのに。

「……」

 トン、トン、と人差し指で頬を叩きながら考え込んだシャルルにセオドールは溜息をついた。自分の滅多にしない忠告が彼女に余計な閃きを生んだのは明らかだ。自己完結しがちで秘密主義者なのは彼女の常だが、セオドールはそれがもどかしい。


 閉心術。オクルメンス。理論的には、心の内側を読み取ろうとする魔法の力に対して、心の内側を空にすれば良いのだが、それがシャルルには難しかった。
 脳内では常に言葉が飛び交っているのが普通だからだ。
 心や頭の中を無にする、という感覚が分からない。
 昨日、リドルの開心術を拒絶した時は、自分が意識したのではなく、耐えがたい拒絶感が目眩や目の裏の痛みとして身体に表出しただけだ。
 見られた記憶だって、シャルルが覚えてもいなかった過去のもので……。

 …………。
 母が泣いていたあの記憶……。
 あれは何を見ていたんだろう。顔は見えなかったけれど、男性だった。
 母の、声を押し殺して静かに涙を流している様子…何かに焦がれているような…懐かしむというには悲痛で、傷に悶えるというには、静謐だった。
 開心術が呼び水となって頭の欠片にあった記憶が蘇った。母の涙と肖像画を見て、なぜか見てはいけないものを見たような気分になったことを、覚えている。
 あの肖像画が男性だった…から。父ではなかった。ダスティンの祖父母も、スチュアートの祖父母も違う。こなすべき課題である閉心術とは何の関係もないその肖像画と過去の記憶が、無性に喉の内側を引っかくような小骨を残していた。

 思考を意図的に戻す。
 頭の中を切り替えるということはシャルルは得意だ。頭の中を空にすることが困難なら、見られてもいい記憶をわざと考え続ける…というのはどうだろう。すぐに枝道に分かれてしまうような些細な出来事ではなく、心や頭の中をいっぱいに占めるような。
 そういう記憶なら心当たりがある。
 自制しがたい感情を産んだ出来事。

 それか、痛みによって閉心術から逃れたなら、意図的に痛みを生み出すとか…。記憶を整頓する感覚を掴むより、リドルの圧から逃れ、自らの身体を直接痛めつける方がやるのは容易である気がする。
 閉心術から逃れ、杖で自分を傷付ける余裕がリドルの前であるかは、かなり片寄ったシーソーゲームなので、一応手に突き刺せるような鋭利な羽根ペンを懐に忍ばせておく。
 穢れた血のような原始的なやり方にはため息をつかざるを得ないけれど、閉心術に対する有効的な手段を他に思いつかない以上、甘んじるしかない。

 授業が終わるとレッスンの時間だ。
 リドルと関わるようになってから、全ての時間は心弾むものだったけれど、閉心術をかけられると分かっている今からの時間は足取りが重くなる。
 必要の部屋に入り、いつも通り数滴血を垂らすと、白銀の亡霊が現れる。

「いい子だ。練習はしてきたかい?」
「ええ、一応…。でも、閉心術の文献を調べるだけで夜が空けてしまったわ」
「重厚な学問だからね」
 リドルは端正な微笑みを浮かべた。シャルルの拗ねたような告発する言葉を何ら受け止めてはいない。ため息をつき、黙ってテーブルに杖を置いた。拳を握って心を開かれることに備える。

「じゃあ、始めようか」
 宣言してくれるだけ昨日よりマシなはずだ。そう言い聞かせて頭の中をできるだけ平坦に…静かにしようとする。
 彼が無慈悲に杖を構えた。
「レジリメンス」
 そして目の前の部屋がぐるぐると回り始めた。

 シャルルは坩堝の記憶の中で、どうにか思考を抑制しようとした──目の前のリドルが見えなくなり、思考に塗り潰される──見せたい記憶は決まっている。自然と断片の記憶も学生になってからのものになっていった。
 初めて杖を手にした時の感動と神秘的な光景……。ドラコがネビルを虐めているのを庇わなかった時の自分の情けなさと怒り……。ノットに初めて理想を話した時のこと……。グレンジャーに首位を奪われた時の屈辱と惨めさ……。
 徐々に近付いてきた。
 パチンとまた記憶が変わる。

『よし、よし、スリザリン。よくやった。しかし、つい最近の出来事も勘定に入れなくてはなるまいて』

 泥のような声と共に、絶望にも似た怒りが湧き出してきた。これよ!
 シャルルは気付かないうちに、集中するあまり痙攣していた。銀と緑だった大広間が、金と赤に見る間に色を変えてゆく。
 口の中で何度も転がすように、憎悪をつぶやいた。
『アバダケダブラ……』
 これを唱えてやりたかった。杖を向けたかった。これほどまでに誰かの死を願うのは初めてだった。ダンブルドアがシャルル……そしてスリザリンを嘲笑っているようにしか感じられなかった。
 場面が変わった……しかし、心の扉をバタン!と閉じて、怒りと憎悪に心を塗り替えす。ダンブルドアがシャルルを嘲笑している。
 頭の中で幾度も去年の学年末パーティーを繰り返していると、ふと頭の中が急速に軽くなる感覚がした。一気に景色が戻ってくる。目の前に満足気な微笑みを湛えたリドルが見下ろしていて、脳みそのどこかがズキズキと痛みを主張していた。
 リドルが呪文を終わらせたらしい。
 呆けるシャルルをリドルが柔らかい声音で褒めたたえた。

「よくやったね」
 彼にしては珍しい、皮肉も含みもないストレートな言葉だった。シャルルの頬がポッと喜びに染まる。
「わたし…成功したの……?」
「ああ。やはり君には才能があるようだね。脳内を強い感情や出来事で埋め尽くすというのは有効な手段だ」
 なぜかリドルは機嫌が良かった。過剰にも思える褒め言葉だ。
「今の記憶は例の??」
「ええ、去年のパーティーの記憶よ。忌々しいと思わない?あのダンブルドアの態度と言ったら」
 石のような顔色でシャルルが吐き捨てる。当時の怒りは思い出そうとすれば生々しい感触を伴ったままいつでも取り出すことが出来た。
「彼のグリフィンドール贔屓は変わらないな…」
 冷たい瞳でリドルもシャルルに同調してくれた。彼もあの老いぼれが嫌いだった。だが、今はやはり口元に笑みが浮かんでいる。

「かわいそうに」
 ヒヤリとした氷のような手がシャルルの髪を掬って、耳にかけた。優しく、機嫌の良い声がシャルルを労る。
「無能によって栄光を奪われたり、努力を不意にされるのは並々ならない悔しさがあるだろう。分かるよ」
 リドルの大きな掌がシャルルの頭をゆっくりと撫でていた。軽く往復したあと、さり気ない気安さで離れていく。目を見開いて石のように固まっていたシャルルは、褒められた時とは比にならないほど、ボッと音を立てるように顔を真っ赤に染め上げた。

「……、……っ」
 言葉にならない音が喉のあたりでつっかえ、思わず俯いてる爪先を睨む。今、何をされたの?理解が追いつかなくて、反芻すればするほど、身悶えするような気恥しさが急速に心臓を捻じるようだった。
「ハハ!」
 嘲笑うよりも軽い笑い声がして、ますます肩を縮こませる。
「か、からかうのは辞めてちょうだい」
 喘ぐようになんとかそう訴えたが、彼は「からかってなどいないさ」と取り合わない。
「成果を褒めただけだよ。君は僕の予想以上の結果を出したからね。まぁ、思ったより喜んでくれたようで、なにより」
 にんまりと美しい彫刻の顔を悪戯っぽく歪ませるリドルに、シャルルは顔どころか首筋や手のひらまで赤くなっていく。心臓の音が耳の裏で聞こえて、興奮にも焦燥にも似た身体の動きに心が追いつかなかった。

 その後のレッスンは散々だった。
 レジリメンスを繰り返し、何度も心の扉を無理やりこじ開けられ、嫌な拒絶感を味わったが、それもこれもリドルが動揺させたせいだ。言い訳にならないことは分かっていても、彼を詰りたくなるのは仕方がない。
 だが、全体的に閉心術は体感として身についてきている感覚はある。
 心を無にすることは出来なくとも、押し入られる感覚を感じた時に、すぐさまダンブルドアのことを考えられるようになってきたし、扉を閉じる感覚も掴んだ。
 これからは、学年末パーティーで感じた憎しみと屈辱で心を塗り潰すだけではなく、他の記憶や感情で同じことを出来るようになることと、呪文を扱ったり、他のことをしながら閉心するコツを掴むようにならなければならない。

 シャルルはベッドの中でゴロンと寝返りを打った。
 目を閉じると、リドルの冷たい手の感覚が頭にじわっと広がる。
 また頬が熱を持つ気がして、シャルルはなかなか寝付けなかった。
[ back ]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -