「今年も一緒にいてくれてありがと。乾杯」

かちん、とグラスが軽い音を立てて触れ合う。度数をやや低めた香り高いシャンパンを呷り、湊がほうっと息を吐いた。

「――って、素敵なレストランで言えればよかったけど」

「贅沢言うな」

「あっ食べてるし! もう少し余韻ってもんがさぁ」

大皿から早くもホットサラダを取り分けた遥は、恋人の制止も聞かず箸でエビを摘まんでいる。もー、と口を尖らせつつ、湊は再度グラスに手を伸ばした。
十二月二十四日。
恋人たちの聖夜となるべき今日の宴は、日本列島のみならず世界中を震撼させた感染症の存在により自粛を余儀なくされた。

「長い一年だったな」

遥がエビから引き剥がしたブロッコリーを自分の皿に引き受けてやり、湊はテレビのニュースを横目に呟いた。夕方の報道は毎日、その日に感染した人間の数字をテロップで淡々と表示している。

「外に出て誰かと喋ったり食べたりするのがどれだけ幸せだったかよくわかったよ」

自粛生活は退屈極まりないものだった。緊急事態宣言中は飲食店のバイトシフトも全て消え、大学は一部がオンライン授業に切り替わった。外出の機会が軒並み減ったことで嫌でも家に籠るようになり、慣れるまでは喧嘩も少し増えたように思う。元からインドアの遥は特に変化がなかったので、原因はやはり湊にあるのだろう。思い出す度にちくりと胸が痛む。

「ごめんな。どこも行けずにイライラしてて」

「別に」

遥の返事はそっけない。目の前の料理に夢中で、かつ本当に気にしていないような口調だ。

「やることなかったら誰だってイラつくだろ」

「はーるかぁぁ!」

なんと理解のあるコメントだろう。忌々しいニュースをリモコンで消して、同じソファに腰掛けた恋人を抱き締める。空きっ腹を抱えた遥は虫の居所が悪かったのか、食事を妨げる湊の頬をべちりと張り倒してきた。

「うるさい」

「はーいはい、ご飯に集中するのな。これソースかけちゃっていい? かけるねー」

叩かれた頬の赤みもなんのその、湊は上機嫌で配膳に勤しむ。世情はどうあれ、今年も愛する恋人と大切な一夜を過ごせる事実は変わらない。来年こそはと終息を願って、今は彼のために尽くす時間を作りたい。
こんがりと焼けたラザニアを大きめのスプーンで取り分けてやると、遥は小さな唇を窄めて吐息を吹きかけた。冷ましきる前にフォークを刺し、チーズを存分に伸ばして口へ運ぶ。表情にはあまり出ないが、豪華なクリスマスメニューにはしゃいでいるらしい。作った当人もついつい顔が綻ぶ。

「はいこれ。プレゼント」

ソファの裏に隠しておいた包みを遥に差し出す。薄紫の不織布にくるまれたものを遥は一瞥して、右手に持っていた骨付きチキンをかじった。左手がぽんぽんと座面を叩く。『置いておけ』と言わんばかりに。

「今開けてよお!」

「後にしろ」

油の染みた指を振って遥が眉を寄せる。恐らく彼も同等のものは用意してくれているはずなので、後ほど改めて、だと思いたい。
湊も腹は減っているが、味見でつまみ食いを繰り返したおかげで遥ほどはがっついていない。のんびりとシャンパンをおかわりしつつ恋人の世話を焼く。

(髪、結構伸びたな)

普段に輪をかけて外出の類いを避けていた遥は、襟足がだいぶ長くなってきた。年越し前にはどこかのタイミングで整えてやろうと思う。

(俺も若干太ったし、二人で戻さないと)

舌を焦がす炭酸の甘味に罪悪感が芽生える。正月が過ぎれば遥も餅の魔力で少々膨らむはずだ。マスク付きで長めのウォーキングをするか、人のいない場所で少し走るくらいの運動なら一緒にこなせるか。
喧嘩もさることながら、ワクチンの副反応が強く発現したことで遥にはかなり心配をかけてしまった。泣き出しそうな顔で二晩も付きっきりで看病してくれた日々を思い返すと、とうの昔に口づけを拒まれ土手に突き飛ばされた過去すら甘く感じる。

(俺がしっかりしなきゃいけないのに)

自粛でストレスを溜めている場合ではない。今後の情勢に備えて、遥にはできる限りのことをしてやりたい。居心地のいい部屋に美味しい食事、清潔な衣類と寝床。それらを基本として、どんなものからも守ってやれる力が欲しい。夢中でラザニアを頬張る横顔を見つめながら決意を新たにする。
不意に、その横顔が正面から向けられた。

「食べないのか」

シャンパンとブルスケッタしか摘まんでいない湊を不思議に思ったのか、遥はおずおずと、置き去りのプレゼントを引き寄せて自分の膝に乗せる。贈り物を蔑ろにされた湊が気分を害したのでは、と考えたらしい。小さく吹き出して、湊は柔らかい茶髪をぐしぐしと掻き回す。

「怒ってないってば。味見で食べまくってたからスロースタートなの」

なんだ、と遥が安堵の息を漏らす。考え事をしていただけなのに、余計な懸念を与えてしまったようだ。湊もフォークを手にする。

「さーて、食べよっかな」

エビのほとんどが消えた大皿に苦笑して、香ばしいブロッコリーをゆっくりと咀嚼した。

食後。
後片づけをしていた湊のもとに、こそこそと背後から遥が近づいてくる。両手は後ろへ回され、背中に何かを隠しているのは明白だ。自然と口許に笑みが乗り、濡れた手を布巾で拭って振り返る。

「なんのご用かなー?」

「……ん」

ぶっきらぼうに差し出された白い箱。厚紙でできた持ち手付きの箱は、近所のデザートショップのものだ。昼間、風花がちらつく中を出て行ったのはこれを買うためか。湊は嬉しそうに箱を受け取った。

「ありがと。せっかくだし食べようかな」

テーブルへ置いた箱を丁寧に開けば、フルーツタルトとショコラトルテが一切れずつ鎮座していた。遥が甘いものを好まないので毎年クリスマスケーキを作ったり買ったりすることのない代わりに、甘党の湊のためにとケーキは遥が準備してくれるのだ。
ショコラトルテにプラスチックのフォークを差し入れて口に運ぶと、チョコレートの濃厚な甘さとカカオの芳醇な香りがまたひとつ幸せを形作っていく。脂肪の増加が見込まれるが、頑張るのは年が明けてからでも遅くはない。
ケーキの好き嫌いがないことは知っているものの、湊が忙しなく食べ進める様子に遥はほっとしたようだった。包みを引き寄せ、湊からのプレゼントの開封作業に移っている。

「入浴剤…? こっちの固いのはなんだ」

「石鹸。遥乾燥肌じゃん? これからしばらく寒いし、保湿成分入りのやつがいいかなって」

湿度が著しく下がる冬季。肌が何かと乾燥しがちな恋人に、保湿性の高い全身用の固形石鹸を贈った。普段使っているボディソープも保湿成分は含有しているが、洗浄力がやや強く、保湿に必要な油脂まで落とされてしまう。クリームやオイルで湊が時々ケアしても、面倒くさがりな遥はなかなか主体的に使ってくれない。ならば手軽に取り入れられる入浴グッズを、と考えたのだ。
残りのタルトを冷蔵庫へしまって、ソファに戻った湊は入浴剤のボトルを手に取る。ネットで購入した湊も実物を見るのは初めてだ。石鹸も入浴剤も同じメーカーで、薄緑色の柔らかなデザインがいかにも癒しを体現している。


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