人とぶつかるのはもちろん、広がって歩いて周囲の邪魔になってもいけないので、みんな目の前の部員の背中を追って、はぐれないように気をつけて進んだ。
やっと会場を抜け駐車場を歩き、バスに乗りこむ。奥から順に男子が座って、私たちマネは前方の席が定番なのだが、なぜか菅原先輩に奥へと背中を押されて、車内半ばの席に座らされた。
「え。な、なんですか?」
「まあまあまあ」
座る私の、通路を挟んだ隣には菅原先輩とキャプテンが座り、周りは二年生が囲むように席に着いた。遠く離されたマネ二人に視線を送ると、おろおろとした様子の仁花ちゃんに清水先輩が座るように声をかけている。
「さっきの、何?」
「さっきの?」
「宮兄弟と仲良さげだったべ?」
「ああ」
菅原先輩の問いで、なぜこの席に座らされたのか合点がいき、二年生みんなの目が好奇に満ちているのにも気づく。
「私、一年の頃は稲荷崎に通っていたので」
「えっ!? マジで?」
真後ろの席の田中くんが、座席をがしっと掴んで身を乗り出し、その衝撃で背もたれがガクンと揺れた。「田中」と縁下くんが一声かけると手は放されたものの、今度は横から顔がにゅっと出てくる。怖い。
「関西って、兵庫だったのか」
「はい」
「へえ。すごい偶然だなぁ」
「す、すみません。私、稲荷崎の試合は去年の春高をテレビで観たくらいで、役に立つ情報とか何も持ってないから、今更言ってもなぁって……」
キャプテンと東峰先輩にそれぞれ返したところで、人数と荷物の確認が終わってバスが動き出した。
下から小刻みに突き上げるような振動と共に、バスは出口に向かって駐車場を進んでいく。
「んじゃ学校では? 宮侑ってどんな感じ?」
すっかり体ごとこちらを向いた菅原先輩の質問に、一年ほど前の記憶を掘り起こす。
私にとっての馴染みがある侑くんは、黒いユニフォーム姿ではなく制服の格好だ。襟下に通したネクタイがいつも緩めに結ばれていたように、態度もそんな風だった。
「『やかましくて図々しくて借りた物を返さないアホ』」
「え」
「って、宮くんが――治くんが言ってました」
「それだけ聞くとヤベー奴だな」
「侑くんは別のクラスだったから、そんなに話す方じゃなかったので……」
同じクラスの宮くんとは日直という接点もあったし、クラスで一番会話が多かった男子でもある。侑くんは隣のクラスで、話す機会は教科書や辞書を借りに私のクラスに来たときくらい。
それでも別クラスの割には会話した覚えはあった。そのときに受けた印象と、何より兄弟である宮くんがそう称していたから、侑くんという人は借りた物を返さない人というのが私の中で固定されている。
「やっぱ宮ツインズって、学校でもモテてたのか?」
後ろから覗いて来る田中くんが、鋭い眼光をさらに尖らせ私に問う。
「そう……だと思うよ。よくは知らないけど、告白されたとかも聞いたことあるから」
「クソッ! イケメンがぁっ!!」
「バレーうまくて身長あって、おまけに顔も良いんだから、そりゃなぁ」
「バレーうまくて身長あって顔も良い奴ならうちにだっているぞ! なっ、影山!」
しみじみと頷く東峰先輩に対し、菅原先輩は通路に顔を出して、後方に座る影山くんの名を呼んだ。突然振られた影山くんからは「ウッス」という短い返事が聞こえてきたけど、話を理解しての返事というより、先輩に呼ばれたのでとりあえず返した、といったところだろう。
「そ、そういえば、宮さんに何を渡されていたんですか?」
前方の離れた席から、仁花ちゃんが顔を覗かせる。バスの振動に合わせて、結った細い髪が小さな尻尾みたいにひょこひょこと動く。
「稲荷崎の友達がご当地ケティちゃんを集めてて、宮城のケティちゃんが欲しいって頼まれたんだ。宮くんに渡しておいてって言われたから、さっき預けたの」
「なるほど、ご友人の」
「宮くんと連絡先を交換してなかったからすれ違いになりそうだったけど、影山くんのおかげで無事に会えたよ。ありがとう」
通路に顔を出し後方を見て影山くんにお礼を伝えると、やはり影山くんからは感情のこめられていない「ウッス」と返事が届いた。
「それで渡そうなんてよく思ったな」
「まあ、会場には居るし、二回戦で当たるし、なんとかなるかなって……」
呆れた田中くんにはそう返したものの、自分としても随分と行き当たりばったりだったなとは思う。
二回戦でどうせ顔を合わせるからと言いつつも、直前で音駒の見学に行ったりして結局そのときは会えなかったし、連絡を取るタイミングもズルズルと延ばしてしまって、侑くんと影山くんが連絡先を交換していなかったら、少なくとも今日はもう会えなかったと思う。
そうこうしているうちにバスが会場の駐車場から公道に出て、ゆったりと過ぎていた窓の外の景色が速いものになり、試合で活躍した部員を中心にうたた寝のまったりとした空気が車内に広がって、自然と静かになった。
窓から見える慣れない風景を眺めながら、宮くんにどんなメールを打つか考える。
一応初めてのメールだし、挨拶はした方がいいかな。今だったら『こんにちは』だけど、戻ったらすぐにミーティングだし、夕飯やお風呂の時間も決まっていて、落ち着くのは夜になるから『こんばんは』かな。
なんて打とう、と考えながら、さっきのやりとりを思い出す。
宮くんが私を好きと言ってくれた。私も好きと返した。
思い出すと一気に顔が熱くなる。誰かに見られたらまずいと、ジャージの襟を立てて顔をできるだけ埋め、先にチョビちゃんにメールしなきゃと、バスに乗っている間ずっと携帯電話を手にしていた。
宿に着いて荷物を置いて、皆で集まって本日の試合の振り返りと、明日の音駒戦についての話が始まった。コーチが話を進め、部員みんなも積極的に意見を出して、それをノートにメモしていく。
三年生はもちろん、二年生でも一年生でも、みんな思ったことをちゃんと口に出す前のめりな姿勢が、烏野バレー部のいいところだと思う。ただコーチや上級生の言葉に従うのではなく、自分の思ったこと、感じたことを伝えられる風通しのいい環境は、そう簡単には作れないし維持できない。
ミーティングが終わると、あとは基本的に自由時間。食事と入浴時間は決まっているけれど、それ以外は部屋でゴロゴロしてもテレビを観てもいい。
私はユニフォームの洗濯を任せられていたので、運転が終わった洗濯機からユニフォームをカゴに移し、宿の厚意で貸してもらった一室で干した。
カゴが空になったところでようやく一息をつける。女子部屋へと戻ると室内には清水先輩と仁花ちゃんが居て、先輩は荷物整理、仁花ちゃんは大きな座卓にノートを広げて、熱心に手を動かしていた。
「なにやってるの?」
「あっ、あの、今日の試合を振り返ってたら、いろいろ描きたくなっちゃって……」
覗いたノートには、ざっくりとした何かの構図が描かれている。私はそういった方面には疎いので詳しくはないけれど、仁花ちゃんはこういったデザインを考えたり作るのが好きらしい。
「来年の部員募集のポスターは仁花ちゃんがいいの作ってくれそうだね」
「えっ!? いえ、そんな……あ、でも私でよければ全力で! 全力で作らせていただきます!」
シャツを畳み直す清水先輩の言葉に、仁花ちゃんは慌てて謙遜するものの、ポスター作り自体には積極的な姿勢を見せている。本当にそういう作業が好きなんだと、心強い後輩の存在にふっと頬が緩む。
ご飯の時間までは少し時間があったので、まずはチョビちゃんに下書きしておいたメールを一度見直してから送った。宮くんと会えたことと、ケティちゃんの根付けを渡したこと。
そのあとすぐに、同じく下書き保存していた宮くんへのメールを見直していると、突然チョビちゃんから電話がかかってきた。
「あっ……ちょっと出てきます」
清水先輩たちに一言断り、急いで部屋から出て通話ボタンを押す。
「もしもし」
『もしもし。ごめん、メール打つんめんどくて』
「バイトはもう終わったの?」
『いま上がりで事務所。一回椅子座ったらすぐ根っこ生えてまうわ』
手で壁を作りながらこそこそと返しつつ、人の居ない場所を探して歩き回り、一階の公衆電話や自販機が置いてある隅に辿り着いた。バイトの時間はもう終わったけれど、ずっと立ちっぱなしの仕事だったから大分お疲れみたいだ。
『治くんと会うたな』
「うん。チョビちゃんから連絡あったって、びっくりしてた」
『電話したときめっちゃおもろかったで』
軽い笑い声を立てるチョビちゃんに、私も釣られて笑う。チョビちゃんとの電話はどんな感じだったのだろう。二人のやりとりを想像するしかできないのが残念だ。
『そんで、どうなったん?』
「え?」
『会って終わり、やないやろ?』
すべて見透かされているみたいで、心臓が跳ねる。
「……ケティちゃん、ちゃんと渡したよ」
『知っとる。そんで?』
「そんで……って」
『会って渡して、そんだけ?』
なおも追及と止めないチョビちゃんの求めている答えは知っている。でもそれを口に出すのははっきり言って恥ずかしい。
黙りこんだ私を、チョビちゃんも黙って待った。喉からは声にならない音がして、それはチョビちゃんに伝わったかは分からない。その間もチョビちゃんは一言も発さないので、ここまで根気よく待たれたら、もう言うしかない気になった。
「宮くんから……その……」
『うん』
「す……き、って」
『言われたん?』
「う、うん」
『で、あんたは? なんて返したん?』
「わ、私も……って」
『言うたん?』
「うん」
『やったやん!』
電話の向こうのはしゃぐ様子に、ますます恥ずかしさが増したけど、決して嫌なものではなかった。
『はあー。なんや、でっかい仕事終わらせた感あるわ』
「お疲れさま」
『ほんまや。あー、なんか買って帰ろ。アイス買うわ。高いの』
「うん。美味しいの食べて」
『お金出すん、うちですけど?』
「じゃあ今度会ったときに何か奢るね」
『ほんま? 約束やからな。ほな、そろそろ店出るわ』
チョビちゃんとの通話は、かかってきたときと同じく唐突に終わった。メリハリがあるというかキビキビというか、兵庫に居た頃は気にならなかったテンポの良さに懐かしさを覚えながら、少し熱くなった携帯電話をジャージのポケットに突っ込んだ。
かけす荘の通路の床に貼られたカーペットは、スリッパを履いて歩くとどうもパタパタと音が響く。なるべくゆっくり歩いて女子部屋に戻ると、清水先輩と仁花ちゃんはご飯に行く準備をしていた。
私も準備をしつつ、下書きの途中だった宮くんへのメールをざっと見直して、思い切って送信ボタンを押した。チョビちゃんとの電話を終えた高揚感がそうさせたのだけど、これ以上悩んでもいい文になるかなんて分からなかったし、変なことは書いていない。
三人で向かった食堂には、お腹を空かせた部員がすでに集まっていた。香ばしい匂いや揚げ物の匂いに反応して響く「腹減った」の合唱は、キャプテンの一喝が届くまで続けられた。
食事が済んだら、今度はお風呂の時間。着替えや洗面用具を持って準備していると、携帯電話が震えた。急いで確認すると、宮くんからのメール。
初めての宮くんからのメールだ、とちょっと興奮して読んだ文面に動揺した。電話したい、と綴られていたからだ。
「先輩、準備できましたか?」
「え? えっと……私は……」
声をかけられ、できたともできていないとも返さない私に仁花ちゃんは戸惑い、その顔は徐々に心配そうなものに変わっていく。
「――やっぱり、今日も誰か残ってた方がいいかも。三日目ともなるとみんな気も緩んでくるから、そろそろ二年の誰かが問題を起こすかもしれないし。私と仁花ちゃんで先にお風呂入って来るから、部屋に残ってもらっててもいい?」
仁花ちゃんが口を開くより先に、清水先輩が私に向かって言った。元々私たちは、何か問題が発生したときにすぐ対応できるようにと、念のため二手に分かれて入浴していた。夕飯の時間に、今日は三人で入ろうと話をしたのは、他でもない清水先輩だ。
「あっ、なら私が……」
「一年はともかく、仁花ちゃんには田中たちの頭なんて引っ叩けないでしょ」
「ひっ……!? そ、そんな、私風情が滅相もないこと……!!」
「ね。だから任せておこう」
恐ろしい、と震える仁花ちゃんに、清水先輩は微笑んだ。私だって田中くんたちの頭を引っ叩くなんてできるわけないけど、そこはあえて口には出さなかった。
仁花ちゃんの背を押し、清水先輩が部屋の出入り口のドアへと進む。スリッパに足を通し、二人で部屋を出て行く。
「ゆっくり入ってくるね」
ドアが閉じる直前、微笑みと共に差し込まれた言葉。
「あ、ありがとうございます……」
何も言わなくても何もかも伝わっている気がして、お風呂に入ってもいないのにカッと体が熱くなる。
パタンとドアが閉じ、うっすらと聞こえるスリッパの音と二人の声が完全に遠ざかってから、手に持っていた携帯の画面を見やる。
返信画面を開いて、いいよと返すと、少し経ったらかけるからとだけ送られてきた。
意味もなく室内を歩き回り、ソワソワしながら待っていると電話が震え出した。画面には登録したばかりの宮くんの名前と番号。ボタンを間違えないよう確認してから押すと、振動は収まった。
「……もしもし」
『もしもし』
声を発せば、あちらも繰り返してくる。宮くんの声だ、とちょっと感動した。
『今ええの?』
「大丈夫。宮くんは?」
『寒い。非常階段のとこ居んねん』
「非常階段?」
『あるやろ、ドア開けたら外に階段。東京の風は遠慮ないなぁ』
外に居る。確かに声と共に何かゴオという音はする。昼ですら吐いた息が白く昇って、宮城ほどではないとはいえ寒いと体を摩るほどなのに、もうすっかり陽が沈んだ夜の冷たさはさらに深く肌を突き刺しているはずだ。
「えっ。外なの? 中に入った方がいいよ。体冷えちゃう」
『外居らんとまともに電話でけへん。壁にナントカ障子にナントカや』
そう言われると自分も似たような状況なので何も言えなくなる。
稲荷崎もこちらに宿を取っているなら、恐らく宮くんもチームメイトの誰かと相部屋だと思う。そうだとすれば、落ち着いて電話できる場所なんてそうそうない。
私だって、今は清水先輩のおかげでこうして暖房の利いた部屋で電話できているけど、もしかしたら同じように非常階段の外まで出たかもしれない。
「久しぶり……だね」
『せやな。言うてさっき会ったけど』
「うん」
『元気そうやん』
「宮くんも」
『ぼちぼちな』
数時間前に再会したきりで、まだ久しぶりという感覚は抜けない。顔を合わせたのもたった数分だったし、その数分間にいろいろあったのでゆっくりお喋りもできていない。
その『いろいろ』が頭に鮮明に蘇って言葉に詰まる。宮くんも同じなのか、しばらくお互い沈黙してしまった。
『ずっと後悔しとってん。最後ろくに話さんまま、お前行ってしもうたやろ』
先に口を切ったのは宮くん。『最後』の言葉に、あの日の教室を思い出す。一年生の最後の日。私と宮くんが日直だった、私たちがお別れした最後の日。
『番号も何も知らんし、チョビさんはいけずやし、そもそも連絡取ってええんかも分からんかったし、いろいろ考えすぎてお前のせいで禿げるか思たわ』
「ご……ごめん」
たくさん悩ませてしまっていたことが申し訳ないなと思う一方で、ずっと私のことを考えていてくれたんだという気持ちも溢れて、謝る声は少し上滑りだったかもしれない。
『まあ、それはもうええねん。俺があんときにちゃんと言うといたらよかったのに、言えへんかったのが悪かったし』
はあ、という短いため息が、携帯電話越しに私の耳にも届く。
『せやから今度はちゃんとしときたいんやけど、俺ら付き合うってことで、ええやんな?』
全身がとんでもなく大きな手でグッと掴まれたみたいに、身動きが取れなくなる。東京体育館でのあのやりとりは、やっぱりちゃんとそういう意味だった。
「う……うん」
『言うても遠距離やからほぼ会えんけど』
頷いた私に、宮くんは冷静に現実を口にした。宮城と兵庫は遠い。学生でなくとも遠いなと感じる距離だと思う。
「そうだね。あ、でも来年の――今年のお盆はそっちに行けたらいいなって思ってる」
『マジで? こっち来んの?』
「そっちの親戚とうちの親と、部活のスケジュールがうまく合えばね。あと、進学もそっちで考えてたし」
『そうなん?』
「うん。チョビちゃんから話を聞いたり調べたりして、いいなって思うところがあって、そこを志望校にしてるんだけど」
烏野を卒業した後は、兵庫かその辺りの大学への進学を考えている。別に宮城に居たくないというわけじゃないけれど、いろいろ引っ越してきた土地の中でも兵庫には思い入れがあるし、チョビちゃんと話したり調べているうちに、志望したい大学も見つかった。
親としても東京や別の場所に進学されるより、過去に暮らしていて勝手が分かり、親戚も住んでいる土地の方がまだいい、という感じなので、今のところ反対はされていない。
『……あいつ、俺にはそんな話せんかったぞ』
恨みがましい声が指す先がチョビちゃんのことだと、すぐには分からなかった。
「そう……なんだ? 自分の進路の話じゃないから、人に言うのはよくないって思ったのかもね」
『ちゃうわ。お前の情報は俺には絶対に教えたらんて思てただけや。お前はチョビさんの本性知らんねん』
「本性?」
『しばくぞて、東京行く前に言われたんや。てかすでにあんとき鳩尾に一発貰うたし』
「しば……でもいま連絡できてるのはチョビちゃんのおかげだよ」
『それはまあ……感謝はしとるけどな』
チョビちゃんと宮くんの間にどんなやりとりがあったのか、チョビちゃんの本性だとか、兵庫に居ない私には分からない。でもチョビちゃんが居てくれたから私と宮くんは会えたし、こうして電話もできている。
『ほな、遠距離はあと一年ちょいて思とってええんやな?』
「うん。頑張って受かるよ」
『受からんでもこっち来い』
「善処します」
『サラリーマンか』
「違うけど」
『マジに否定すんな。俺かてサラリーマンと付き合う趣味はないで』
ポンポンと、弾けるポップコーンみたいに進んだ会話は、私がぴたりと止めてしまった。
宮くん、私と付き合うんだ。そんな事実を改めて認識すると、抑えられない何かがきゅうっと胸を締めて、言葉が出なくなる。
『夏も来い』
「……うん」
『てかインターハイで会えるやろ』
「そうなるように私も頑張る」
『ゼンショ?』
「善処」
『正直どういう漢字書くんか知らんわ』
「善き処、だよ」
『あー……俺の考えとる漢字と絶対ちゃうやろな』
「かもね」
なんとなく、『良き所』という漢字を浮かべているんだろうなと察した。もっと上手く伝えられればよかったけど、すぐにはパッと思いつかない。
『なんか嫌な気配してきたからそろそろ切るわ』
「えっ。あ、やっぱり体冷えちゃったかな。ごめんね」
冷たい風に当てられ、悪寒でも走ったのかも。遠征先で熱なんか出したら大変だ。
『いや、そういうのとちゃう。俺が居らんの勘付いてアホが探しとる気ぃする』
「アホ?」
『ツム』
「ああ。双子の勘、みたいな?」
『多分な。アジフライのことでまだ文句つけとる気もする』
「アジフライかぁ」
アジフライでの文句がどんなものなのか把握はできないけど、きっと夕飯のときにアジフライのことで揉めたのだろう。勝手に食べられたとか、大きさがどうとか。
本当に毎日休みなく喧嘩しているところは変わっていなくて、今どうしようもなく兵庫に帰りたくなった。帰りたいと、そう思ってしまうくらい、私の心は兵庫に残ったままだ。
『あとでメールする』
「うん。じゃ、またね」
『またな』
ぷつりと電話は切れた。働いて熱を持った携帯電話より、自分の頬や手の方がずっと熱い。
通話が終わるまで立ったままだったので、その場に座って、そしてごろんと畳の上に転がった。天井の中央にある、やたらと白く発光する電灯が眩しくて、手で目元を覆って遮る。
頭がふわふわする。清水先輩たちが帰ってくるまでに気持ちを整えないといけないのに、心臓がずっとドキドキする。外に居たのは宮くんなのに、私の方が熱で浮かされているみたい。
ブルブルと携帯が震えて、見るとメールの着信。宮くんから。自分の携帯の画面に宮くんの名前が表示される。ただそれだけでヘラヘラ笑ってしまうのだから、清水先輩たちにはもうちょっとだけ長湯してほしいな、なんて願ってしまった。
望むばかりの恋を
20240214
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