一年生のときと同じく種目は複数あって、全員参加競技の他、個別種目の徒競走と台風の目。競技名を聞くだけでうんざりだった。
悩んだ末、足の遅さを自覚しているけれど徒競走を選んだ。台風の目は一本の棒を複数人で持ち、各要所にあるコーンを一回りしながら進みゴールを目指す。クラスメイトと協力する競技だと、私は文字通り足を引っ張ってしまうだろう。だったら一人で走る徒競走の方が精神的に幾分マシだ。
徒競走に出る女子生徒が集められ、順番に並ぶ。自分の番が来ると、もう吐き気すら覚えてきた。
順位毎に得点が配されているので、できるだけ上位を狙わないといけないけど、私の場合は上位なんて最初から無理なので、とにかく躓いてこけないことだけを祈る。
ピストルが鳴って、六人で一斉に走り出す。無我夢中で走った。足を動かした。駆けだしてすぐに、もう疲れてきた。100メートルも走れなんて横暴だ。信じられない。
なんとか走り切って、ゴールに着くと私は係の生徒に腕を引かれ、五位のレーンに連れて行かれた。最下位ではないことにホッとして、やっと体から力が抜ける。
五位はたしか一点だ。学年で縦割りされた八クラスがそのまま体育祭での組み分けになっているので、私は二組グループになんとか一点は貢献できたらしい。
女子の徒競走に出場した全員が走り終えたところで、グラウンドの自席へと戻る。各自で教室より運び込んだ椅子は、学年ごとにまとまって並べられており、二年生のブロックは本部テントから見て左端で、退場門から一番遠い。
100メートルだけだけど、全力で走ったからか足が重い。走る前からプレッシャーで気も重かったので、もはや私の今日の体力はほぼ使い切っているに近い。
「相変わらずしんどそうな顔しとるな」
二年生のエリアに着き、一組の後ろを通り抜けようとしたところで、椅子に座ったまま振り向いた宮くんに声をかけられた。グラウンドでの席順は背の低い人が前になるので、背が高い宮くんは最後列に座っている。隣には角名くんが座っているはずだけど、今は席を外しているのか見当たらない。
「……見てた?」
「見てたて?」
「いや……見てなかったなら別に」
「ビリやないなら御守にしては上出来やろ」
「やっぱり見てたんだ……」
あのみっともない走りを見られていた。それだけで顔から火が出そうなくらい恥ずかしくて、手で覆って隠した。手のひらに伝わる肌の熱に、きっと真っ赤なんだと思うとさらに恥ずかしくなる。やっぱり台風の目にすればよかった。
「俺がお前の分まで一位獲ったるわ」
まだからかう声が滲む宮くんは、少しあとに行われる男子の徒競走に出る。去年は全校選抜とクラス対抗リレーのどちらにも出場していたけれど、今回は後者のみ選ばれている。二年一組には足の速い人が少なくて、徒競走の方に駆り出されたらしい。
男子の徒競走は女子と違って200メートル。100メートルでもつらいのに、その倍を全力で走りきるなんて。普段から運動している宮くんには大したことはないのかもしれないけれど、50メートルですら途中で疲れてしまう私にはとんでもない距離だ。
「気持ちは嬉しいけど、私は二組だから応援できないよ」
「ケチくさいこと言うな」
「あ、でも部活対抗は応援するよ。今年は宮くんたちが出るんでしょ」
部活対抗リレーでは、数グループに分けて各部活動が出場し、男子バレー部は最終レースを走る。宮くんと、侑くん、銀島くん、角名くんも走るらしい。顔見知りの四人がみんな揃っているので、私は男子バレー部を応援すると決めていた。
「去年は三年が出たがりばっかのくせして、五位とかしょうもない順位やったからなぁ」
「私、さっき五位だったんだけど……」
「お前の場合はビリ以外一位みたいなもんやん」
「そんな、侑くんの逆みたいなこと言われても」
『一番以外は負け犬』を持論とする侑くんと真反対、『ビリ以外は一位』なんて情けない論を説かれても、恥の上塗りじゃないだろうか。まあ実際ビリじゃなければいいと思っていたのは本音だけど隠しておく。
「リレー頑張ってね」
「その前に徒競走とクラスリレーあるけどな」
「それはほどほどに頑張って」
「遠慮せんと応援してええぞ」
「私の分まで一組のみんなが応援してくれるよ」
さっき宮くんが言ったのと同じ。二組の私は応援できないけど、一組のクラスメイトが存分にエールを送ってくれる。それでも宮くんは不満なようで、「アホ」とだけ言って前を向いてしまった。
明らかに機嫌を損ねた宮くんに困っていると、同じクラスの女子から呼ばれたので、「またね」とだけ残して自分の席に戻る。
私だって周りを気にせず宮くんを応援したいけれど、クラスが違うとやっぱり難しい。私に配られた鉢巻きと宮くんの鉢巻きは、今年は色が違う。日直だけじゃなくて、こういうときにも壁を感じる。やっぱり体育祭は苦手だ。
徒競走では宣言どおりに一位でゴールテープを切って、クラス対抗リレーでは同じく選出された侑くんと並走して場内を沸かせて、立場上は応援できなかったけれど、宮くんの活躍には思わず拍手を送った。
宮くんが出場する最後の種目、部活対抗リレーは先に女子の部が始まり、出場条件を満たして参加した部が、運動部も文化部も関係なく駆けていく。意外と文化部に足の速い人がいたりして、番狂わせみたいな展開にあちこちから声が上がった。
いよいよ宮くんたち男子バレー部が走る最終レース。運動部は試合で着用するユニフォームに着替えていて、他の部と違い多色でも柄入りでもない、黒いシンプルな出で立ちのバレー部はよく目を引いた。
レースが始まって、一番手は知らない男子。二番手、三番手と渡っていき、バトンは銀島くんから宮くんに。
「宮くんがんばれ!」
徒競走やクラス対抗リレーで抑えていたのを発散するように声を上げた。男子運動部だけが、グラウンドを一周する。ぐるりと周って次の走者に繋ぐまで、宮くんはテニス部の男子を追い抜いた。わあ、と歓声が沸き、そのまま侑くんにバトンを渡す。
侑くんから角名くんに、角名くんから知らないバレー部員に。途中でサッカー部がバトンをうまく渡せずもたついたり、野球部と陸上部が接触してスピードが落ちたり、いろんな波乱が起きた末に、一番にゴールを抜けて行ったのはバレー部のアンカーだった。
一位が決まった瞬間、バレー部員はアンカーの下に駆けて集まり喜んでいる。騒ぐ声が、遠いこちらにも届くほどだ。
そして唐突にぴたりと止んだ。黒いユニフォームではなく、学校指定の体操服を着ている男子生徒に皆が向き直り、宮くんや侑くんをはじめとするバレー部員が姿勢を正して黙した。
他の部活が次々とゴールする傍ら、やけに静まり返ったバレー部の塊に注目すると、体操服の男子生徒に見覚えがあることに気づく。
バレー部の中では小柄に見える、あの背筋の伸びた立ち姿。遠目だけど妙に存在感があって、腕を組むと宮くんたちの頭がさらに下がる。
「信介くん?」
結仁依さんのお宅にお邪魔したとき、一度だけ会ったことのある結仁依さんの孫の信介くんにそっくりだ。というか、本人ではないだろうか。
信介くんも稲荷崎だった?
バレー部の集まりにいるということは、バレー部?
「あっ……北さん?」
ハッと気づいた。結仁依さんの名字は『北』だ。表札も厚い木の板に『北』と掘り起こされていて、大きなお家は表札も立派だなぁなんて思ったものだ。
一緒に住んでる孫の信介くんの名字も北だろうし、北という名字で稲荷崎のバレー部ということは、あの『北さん』が信介くん?
信介くんが、バレー部のみんなが恐れる、一緒に居ると息が詰まるほどに怖い、『北さん』?
確証が持てず――というか信じられなくて、晴れ晴れとした顔で席に戻ってきた侑くんや銀島くんに訊ねることはできなかった。
糸が繋がったのは数日後。昼休みにチョビちゃんと二人で自販機に行ったら、バッタリと信介くんに出くわした。紙パックのジュースを買い終えて戻ろうとしたところで、向かいから歩いて来る信介くんと目が合って、二人同時に「あ」と声を上げた。
「はるかちゃんも稲荷崎やったんか」
やっぱりあのとき見たのは信介くん本人だった。暦の上では秋でも、まだ真夏の熱を引きずるように暑いのに、きっちりと締められたネクタイが信介くんらしい。
「誰?」
「結仁依さんの孫の、信介くん」
「ああ! あの字のきれいな文通のおばあちゃん」
耳打ちしたチョビちゃんに返すと、すぐに分かってくれた。チョビちゃんには結仁依さんから届いた葉書は毎回見せている。送る際にどんなことを書くか一緒に考えてくれたり、どのポストカードにしようか選ぶのも手伝ってくれて、チョビちゃんの認識では結仁依さんは『字がきれいで孫が好きで野菜や花を育てている、友人の文通相手のおばあちゃん』らしい。
「えらい偶然やな」
「う、うん」
結仁依さんのお家で会ったときはお互いに私服だったのでまだ気楽に話せたけれど、制服を着て校内で対面していると緊張する。学年で異なる上履きの色が、信介くんは三年生だと知らしめているから、先輩だと思うと言動に気を付けねばと思ってしまう。
「あの……信介くんって、もしかしてバレー部?」
「そやけど」
「バレー部の、主将さん?」
「せや」
「じゃあ、『北さん』って、信介くん?」
「まあ俺の名字は北やし、後輩はそう呼んどるな」
バレー部の、主将の、北さん。侑くんたちが恐れる、あの『北さん』は、やっぱり信介くんだった。
「同じとこ通っとるなんて想像もしてへんかった。なんや、縁あるなぁ」
突然突きつけられた事実を飲み込めない私と違って、信介くんは思いがけない再会に驚きつつも、奇妙な縁に微笑んだ。微笑んでいる。あの『北さん』が。
そこでどうして、北家の高校三年生と知って『もしかしたらあの北さんかも』なんていう考えがわずかも頭を過ぎらなかったのか分かった。私が抱いていた『北さん』のイメージと信介くんが全然違っていたからだ。
私の想像していた『北さん』は、バレー部の主将を任せられるくらいだから背はとても高いと思っていたし、顔つきも厳つくて、冗談なんか言わなさそうな無愛想で冷たそうな人だった。
対する信介くんは、男子の平均は越えているとはいえ身長は宮くんたちより低いし、顔立ちは怖くない。表情の変化は乏しいかもしれないけど威圧感なんてなく、気を遣ってくれるし笑ったりもする。
でも信介くんが北さんなんだ。隣のチョビちゃんも「この人が北さん」とぽつりと呟いた。
「はるかちゃんは何組なん?」
「二組だよ」
「二組いうたら……」
「侑くんと銀島くんと一緒」
「侑と銀か」
親しみを感じる――というのとは少し違うけれど、信介くんが二人の名を呼ぶのを聞いたのは初めてなのに、なんともなめらかに発せられたので、本当に信介くんはバレー部のキャプテンなんだなと実感した。
「銀はともかく、侑は騒がしい奴やろ」
「まあ、そう、かな」
「すまんな。部活でもあんな感じやねん」
「あー……想像できるかも」
信介くんが言うように、侑くんは声も身振りも大きいし、自分の意見はポジティブでもネガティブでもはっきりと言う。それもストレートに。部活中でも教室で見る姿と変わらないか、むしろ好きなバレーの時間だから、より元気で感情的かもしれない。
「でも侑くんも宮くんもバレーに一所懸命で、尊敬してる」
賑やかな侑くんと、比べたら静かな方の宮くん。似てるけど似てなくて、でもやっぱり似てる。バレーが大好きなところ。バレーに真摯なところ。バレーのために丁寧でいるところ。
心から尊敬できる相手が近くに居ると、ふと振り返って自身のだらしなさにうんざりすることもあるけど、そのあとで顔を上げるとき、いつもより意欲的になれる気がする。
信介くんは「せやな」と口元に弧を描いて同意し、紙パックの自販機ではなく、ペットボトルや缶ジュースが販売されている自販機の前に立ち、緑のラベルが巻かれたお茶を買った。
「はるかちゃんと知り合いやってこと、あいつらには内緒にしとくわ」
「え? どうして?」
訊ねると、腰を屈めてボトルを取った信介くんは真顔で、
「俺のばあちゃんとはるかちゃんが文通友達やって知ったら、ただでさえ騒がしいのがもっと騒がしなる」
と返し、私じゃなくてチョビちゃんが「そら否定できんな」と笑った。私も否定できなかったし部活にも迷惑かけたくなかったので、主将の信介くんがそう言うのならと、もうしばらくは『北さん』のことは知らないふりを続けることになった。