一番後ろの宮くんが居眠りしていると、当然ながら私たちの列は最初のプリントが回ってこない。単純に困る。
四月や五月の半ばまでは都度起こしていたけれど、最近は頭を乗せる両腕に敷かれた、名前以外は未記入のプリントを引っ張り出して勝手に回収している。
未記入と言うことはもちろん授業を受けていない証だから、宮くんは先生に怒られる。怒られた宮くんは多少抵抗を見せつつも、「すんませんでした」とハキハキと謝る。そして先生から許しを得ると、私にじっとりとした目を向ける。
「起こせや薄情モン」
「そんなことないで」
「ヘタクソ」
私が宮くん曰く『おもろい武器』を振るうと、宮くんは短く吐き捨てつつも、眉間に刻んだ皺をすぐに取る。宮くんとて、別に本気で怒ってはいない。薄情モンと軽々しく言えるだけの気安さを私に覚えているんだと思うと、そう悪い気もしなかった。
チャイムが鳴って授業が終わり、使った教科書とノートを次の授業の分と入れ替える。宮くんほどではないけれど、昼ご飯を食べたあとだから私も眠い。つい瞼を下ろした。
「サーーーーム!」
とろけそうだった意識が一気に覚醒し、何事かと目を開ける。大声の主は教室の前方にあるドアから現れ、まっすぐに宮くんの方に歩を進めてきた。宮くんにそっくりな顔。別のクラスの宮くんの兄弟。名前は侑くん。
「サム! 英語の教科書貸せ!」
「人に借りる態度かそれが」
「悠長に頭下げてる場合ちゃうねん。宿題もはよ写さなあかん」
「持ってへんわ。英語なかったし」
「はあ? 使えんなぁ。何のために別クラなっとんねん!」
「お前に貸すためちゃうわボケ!」
ぎゃあぎゃあと火が付いたみたいに騒がしい。宮くんの前の席だからか、侑くんとの口喧嘩はすでに見慣れているものの、その勢いにはまだ圧倒される。
宮くんが言うように、今日はうちのクラスで英語はなかった。
稲荷崎では、課題が出なかったり使用頻度が少ないなど、指定の教科書や資料集以外の置き勉は禁止されていて、あとは重くても毎日持ち帰らなければならない。
もちろんこっそり置き勉している人もいるけど、誰も侑くんに貸そうと名乗り出ないから、残念ながら英語に限ってはみんな持っていないようだ。私以外。
「え、英語、あるよ」
侑くんに声をかける。話したことがないから喉が強張って声量はほとんどないに近いけど、宮くんの方が拾ってくれてこちらを向いた。
「あの。昨日持って帰ったけど、バッグに入れっぱなしで来ちゃったから」
机の横にひっかけていたバッグを開いて、中を探って英語の教科書を取り出す。何の偶然か、今日はたまたま家に置き忘れていた。
「ええの?」
「うん。私のでよければ」
「助かるわぁ! 自分、ナニちゃん?」
差し出すと、侑くんは嬉しそうに受け取った。自分の名字を告げると、侑くんはちゃん付けで復唱し、教科書を頭に掲げて軽く礼をする。
「ほんまありがとな!」
「俺のとちゃうんやから、くだらん落書きすんなや」
「分かっとるわボケ! 使えん奴は黙っとけ!」
兄弟同士睨み合ったあと、侑くんはパッとこちらに笑って「あとで返すな」と言い教室を出て行った。
侑くんが居なくなると、まるで嵐が過ぎ去ったあとのようにしんとした。クラスメイトが多数居て、お喋りしているから決して静かなわけではないのだけど、それくらい侑くんの声は賑やかだった。
「アホがすまんな」
「ううん」
自分の意思で貸したのだし、宮くんが謝る道理は特にない。人助けは悪い気はしないし、後ろの席という縁もあって、いわばご近所付き合いみたいなものだ。
授業は終わり、ホームルームも終わり、下校の時間。いつもならすぐに教室を出るものの、返しに来るかもしれないとしばらく待機したけれど、侑くんは来なかった。
「これ、昨日の」
登校して自分の席に着くなり、宮くんが教科書を差し出した。昨日ぶりに見た英語の教科書。
「借りてんの忘れて、フツーに自分のカバンになおしとったわ」
「わざわざありがとう。侑くんらしいね」
宮くん越しとはいえ、無事に教科書が戻ってきてホッとする。今日は英語があるから、もし授業が始まる前までに返って来なかったら、自分で取りに行かなければならなかった。
別クラスの侑くんを訪ねるのはかなり勇気がいる。なにせ宮兄弟は、入学してまだ数か月なのにすでに校内の有名人だから、声をかけるだけで注目されてしまう。
受け取ってそのまま、なんとなくパラパラとめくった。本当にただなんとなくだったけど、私が記入したものではない走り書きを見つけた。
「『治は小二のとき犬においかけられてしりをかまれた』」
「はあっ!?」
書いてあることをそのまま読み上げると、ジャムパンの袋を開けていた宮くんが瞬時に反応し、短い怒声を上げる。
「こ、ここに」
恐らく侑くんが書いたであろう文章を指差すと、宮くんは険しい顔でページを睨みつけた。
「ンの……アホツム!!」
ジャムパンの袋を机に叩きつけると、宮くんは駆けて教室を出て行った。
遠くで騒がしい音が響く。宮くんと侑くんの怒鳴り合う声。騒ぎを聞きつけて教室を出て行くクラスメイトの足音。女子の小さな悲鳴だったり、男子の笑い声だったり、混じったものが廊下を通ってここまで届く。
きっと今起きている喧嘩の原因――正確な原因は侑くんだけど――の私は恐ろしさに固まってしまった。よく考えずに読み上げてしまったから、こんな騒ぎに。
双子の喧嘩は、クラスメイトが宮くんを羽交い絞めして教室まで連れ、引き離す形で終わった。後ろに回った男子より宮くんの方が背が高いので、二人、三人と加勢し、宮くんは無理矢理に自席に座らされた。
明らかに不機嫌な宮くんに、誰も声をかけたりしない。触らぬ神に祟りなし、といった具合で、周囲の席が次々に空いていく。私は逆に怖くて立てなかった。
ぶすっとした顔を前に、申し訳なさに縮こまっていると、宮くんが私をじろりと見た。
「尻やない」
ぼそっと言う。「え」と聞き返すと、持っていた私の教科書を宮くんが取った。侑くんの走り書きのページを開くと、ペンケースから出した消しゴムでこする。
「尻やなくて、腿や。太腿の後ろを咬まれたんやっ」
私以外には聞かれたくないのか、ボソボソと小さな声で情報を修正する。どうも咬まれたことより、その箇所が宮くんにとって重要らしい。
「…………痛かった?」
「聞くなッ!」
消し屑を払ってページを閉じると、ずいっと突き出される。恥ずかしいと悔しいが混じったみたいな感情が、宮くんを俯かせた。失礼ながら、ちょっとかわいいと思ってしまった。