うちのクラスで日本史を受け持つ初老の先生は、その性格に似合った穏やかな声質の持ち主で、私もときどき眠気を覚えてしまうほどだ。
「御守、すまんが起こしてくれ」
毎度のこと過ぎてか、日本史の先生は教卓の前からもはや離れる気もないらしく、名前を呼んでも反応しない侑くんを起こすよう、前に座る私に頼む。先週も頼まれた。
「侑くん、侑くん」
座ったまま後ろを向いて声をかける。答えないので、今度は頭を伏せている腕を揺すってみたけれど、ぐぐもった声が聞こえるだけで起きる気配はない。
仕方ないと、最近教えてもらった名前を出してみる。
「あ、北さん」
「――ハッ!? すんません寝てません!」
ガバっと勢いよく顔を上げ、侑くんは大きな声を上げた。シンと静まり返ったあと、教室内がどっと沸く。目を大きく見開いて呆けていた侑くんはキョロキョロと室内を見回し、今は日本史の授業中であったことを思い出してか、がっくりと項垂れた。
「もう寝るなよー」
日本史の先生がそう言って、黒板にチョークを当てて教科書の一文を板書していく。みんなが前を向く中で、ちらりと侑くんの様子を窺うと、ムッとした顔で私を睨んだ。
「ビビらせんなや」
「ごめんね」
声を潜めて謝り、体を前へ戻す。チョークのカツカツとした硬質な音と、教師の低くてよく通る声がしばらく響いたのち、チャイムが鳴って授業は終わった。
休み時間に入り、静かだった教室は一転して騒がしくなる。私たちの次の授業は教室だけど、チョビちゃんたちは移動教室だから、一組へ行くために席を立つ必要はない。
日本史の教科書やノートをしまって、次の授業の準備をと手を動かしていたら、クラスの男子に声をかけられた。銀島くんだ。
「成功やな」
「うん」
笑う銀島くんに私も笑って頷く。後ろの席の侑くんが私たちのやりとりに「なんやねん」と訝し気に入ってきた。
「銀島くんが、侑くんが起きなかったら『北さん』の名前を出したらいいって教えてくれて」
「お前か! 余計なこと教えんな!」
「すまんすまん。せやけど寝てるんが悪いやろ」
怒鳴る侑くんを、銀島くんは馴れた様子で制する。
先週、今日のように先生から起こすよう頼まれた際、侑くんがちっとも起きなくて困っていたのを同情してくれたのか、銀島くんがこそっと教えてくれたのが『北さん』という名前。これを出せばきっとすぐに起きると言われ、本当かなと思いつつも使ってみたら、効果は抜群だった。
「北さんってバレー部のキャプテンなんだよね? そんなに怖い人なの?」
銀島くんに教えてもらった際に、『北さん』という人が誰なのかざっくりとは聞いている。三年生でバレー部の主将。
部をまとめるキャプテンだから、侑くんも頭が上がらない人なのだろうというのは察せられる。だけどあれだけ揺すっても頭を上げない侑くんが、飛び上がって起きるほどの反応を示す姿を見たら、相当厳しくて恐ろしい人なのかと想像してしまう。
侑くんと銀島くんは、互いに目を合わせたあと、気まずそうに顔を背けた。
「怖い言うか、なんちゅうか……息が詰まんねん」
「きっちりした人やから、なんやろなぁ、いっつも背筋伸ばしとかなあかん気になるんや」
「へえ……」
苦虫を噛んだみたいな侑くんと、侑くんよりはまだ表情は柔らかいものの、強張った顔の銀島くんに、私はうまい返しが思いつかず生返事になってしまった。ただ、二人の態度を見ていたら、あのマイペースな侑くんがここまで苦々しい顔をするくらい、緊張感を与える人なのだろうというのは伝わってくる。
「頼むから北さんの名前で起こさんとって。ほんま心臓止まるわ」
「じゃあ、次からちゃんと起きてくれる?」
「そこは『寝るな』って言わんと。御守さんもなんで起こす前提でおるんや」
銀島くんにそうツッコまれたものの、侑くんの居眠りは私がどう言ったところでどうにもならないと思う。『北さん』という効果抜群なカードを封じられた以上、次の日本史の授業はどうやって起こしたらいいのか、そっちに頭を使った方が得だ。
日曜日。チョビちゃんとの約束は駅前に十時だったけど、トラブルがあって少し遅れてしまうらしい。待ち合わせ場所の駅は商業ビルが隣接しており、チョビちゃんが来るまで暇を潰そうと店を巡った。
二階、三階と上がって、新しいペンが欲しかったことを思い出し、文房具店に入る。
真っ先にペン売り場へ行くつもりだったけど、たくさんのポストカードが吊るされたラックに引かれて足が止まった。くるくると回せば、外国や日本の風景写真、水彩画、キャラクター物、箔押しされた筆記体のシンプルなカードなど様々。
ポストカードは好きだ。手のひらより少し大きな枠の中、切り取られたどこかの美しい景色や、センスが光るデザインを眺めるのは楽しい。絵画なんて立派なものは、飾る場所も買うお金もないけれど、ポストカードなら私でも気軽に買える。
いいものがあれば買おうかな、と見ていると、一枚惹かれるものがあった。外国ののどかな街並み。手を伸ばすと、そのタイミングで小さな手が重なった。
「あ」
「あら、ごめんなさいね」
「いえ。すみません」
手を引いて、ついでに体も少し引くと、隣にはいつの間にか小柄なおばあさんが立っていた。少し腰を曲げた背をさらに丸めて謝るので、私も慌てて頭を下げる。
「お先にどうぞ」
「どうも。ありがとうございます」
お礼でまた頭を下げたあと、おばあさんがポストカードをフックから抜き取り、私も続いて一枚取った。
もう一枚くらい買っていこう。そう思って新たに探していると、淡い色と濃い色のコントラストがきれいな、芍薬の水彩画が目に入った。手を伸ばすと、またもおばあさんの手と重なってしまう。
「す、すみません」
「あらあら。お先にどうぞ」
「えっと、じゃあ……失礼します」
二度目ということもあってか、おばあさんが譲ってくれたので一枚取ると、どうやら最後の一枚だったらしく、フックの奥には『在庫切れ』のカードが吊るされていた。
「あっ……」
空になったフックが気まずい。どうしようと数秒思案したのち、そのまま絵葉書をおばあさんへ差し出した。
「よかったら、どうぞ」
「構いませんから、どうぞお持ちになって」
「いえ。私、よくここに来ますし。補充されたら、またその時に買いますから」
遠慮するおばあさんに気にしないでと明るく笑った。実際この店には行こうと思えばいつでも来られるし、人に譲れないほどどうしても欲しいわけでもない。
いえいえ、どうぞどうぞ、いえいえ、というのを数度繰り返したあと、やっとおばあさんは受け取ってくれて、「ありがとう」とにっこり笑った。
「絵葉書、お好き?」
唐突に訊ねられ返事に詰まる。
「は、はい」
「そう。私もよ。みんなきれいな絵やもんねぇ」
「ですね」
初対面の人と、しかも年配の人との立ち話なんてそれほど慣れていないので、緊張して当たり障りない返事になったけど、おばあさんは気にしていないようだ。
「この歳になると、遠い人にはなかなか会いに行かれへんのよ。電話もええけど、やっぱり手紙は、支度しとる時間がひときわ楽しいでしょう」
おばあさんは受け取ったばかりの絵葉書に咲く満開の芍薬を、痩せて皮が余った指先で愛おしそうに撫でる。
「きれいなもんを送りたいなぁいう人が居るんは、幸せなことやからねぇ」
のんびりとした口調も相まってか、おばあさんの言葉はやけに胸に響いた。
「そうですね。素敵です」
いいなと思って買った絵葉書を、送りたいと思う人が居る。それって、とても心豊かなことだと思う。
そんな人が居るということも、そう思い立った時の高揚感も、伝えたいことを綴っている時間、できるだけ丁寧にと尽くして書く宛名があるということそのものが、幸せなことだ。
小学生の私もそうだった。その頃は携帯電話なんて持たせてもらえていなかったから、転校したあと友達と何度も手紙を送り合った。
でもペースがだんだんと落ちていって、そのうち手紙は届かなくなった。届かないのに送るのは催促しているみたいで、そして自分だけが友人との繋がりに縋っているみたいで、怖くて書かなくなった。
もしあの頃の私が、おばあさんのように考えることができていたら、手紙はまだ続いていただろうか。プライドとか見栄とかにこだわらず、送りたいと思ったそのときに、何の衒いもなくできていたら。
「ねえ、お時間あるかしら?」
「時間……ですか?」
訊ねられ、携帯電話を確認してみる。家を出る前にメールをするといっていたチョビちゃんからの連絡はまだないから、あるといえばある。
「ありますけど」
「そう。じゃあ、ちょっと待っとってもらえる?」
「え? はい……」
おばあさんは店の奥に入って、しばらくすると戻ってきた。
「ちょっと待っててね」
「は、はい」
頷くと、おばあさんは店から離れて、人混みの中に消えていった。
行っちゃった。どうしよう。思うも、ここで待っていると約束してしまったから、この店から出ることはできない。
どちらにしてもチョビちゃんを待っている間は暇なので、またポストカードのラックを一通り見て、もう二枚ほど手にしてペン売り場に向かう。色合いで悩んで最終的にピンクのペンを選んで手に取り、レジで会計を済ませた。
薄い紙袋をバッグに入れ、おばあさんが来たらすぐ分かるようにと、店舗の前の邪魔にならない位置に立って数分後。おばあさんがやっと戻ってきた。
「お待たせしてごめんなさいねぇ」
「いえ」
「これ、お嬢さんに」
小さな両手が添えるのは、最後の一枚だった芍薬の絵葉書。目はおばあさんと絵葉書を何度か往復し、ひとまず受け取るしかないと手を伸ばす。
くるりと裏を返してみると、宛名や差出人を書く面に、たおやかな文字で『やさしい心づかい、ありがとうございます』と書かれていた。
「……ありがとうございます」
わざわざどこか座れる場所を見つけ、書いてくれたのだろう。それもさっき買ったばかりの芍薬の葉書。遠くに住む親しい誰かに送るために選んだはずなのに、私にと書いてくれた。
うれしいな。こんなことがさらっとできるなんて、年の功ってやつなのかな。そんな風に考えつつ、左下に慎ましく添えられた名前を見た。『結仁依』と書かれているが、なんと読むのか分からない。
「素敵なお名前ですね。なんてお読みするんですか?」
「『ゆみえ』というの。モダンでしょう」
「はい。上品でかわいいです」
「ありがとう」
にこにこと微笑むおばあさんに、こっちもつい口元が緩んでしまう。年配の人には失礼かもしれないけど、小柄なのもあって可愛らしい。
「あ、ちょ、ちょっと、待っててください」
おばあさんをその場に留めて、少し離れた場所にある、壁に面して設置された試し書き専用のテーブルに急いだ。買ったばかりの袋を開け、一番手前の海岸のポストカードとペンを取り出す。本来は売り場にあるペンの使用感を確かめるためのテーブルだけど、お店でカードもペンも買ってるし、ちょっとだけ借りてもバチは当たらないと思う。
おばあさんから貰った葉書と同じように、宛名の面に『素敵なお葉書ありがとうございました』と、できるだけ丁寧に書いた。一通り見直して、またすぐにおばあさんの下に戻る。
「走り書きになっちゃってすみません」
テレビでよくある、会社員が名刺を渡すときのように差し出すと、おばあさんは「あらまあ」と明るい声を転がし、頭を下げながら恭しく受け取ってくれた。
「これも素敵なお葉書」
「海の色がきれいですよね」
「あなたのお名前も素敵やねぇ」
「あ……ありがとうございます」
ストレートに褒められると、照れが勝ってお礼がつっかえてしまう。やっぱりもうちょっと時間をかけて書けばよかった。字ももっときれいだったらな。そんな小さな後悔を次から次に見つけていると、
「ねえ。もしよかったら、お家へお葉書出してもええかしら?」
とおばあさんが思わぬことを口にした。
「え?」
「ペンフレンドっていうの? あなたたちくらいの子は、もうやったりせえへんかしらね」
「えっと……文通相手ってことですよね? 手紙を送り合う」
「そうそう。今の子はあれやねぇ。みんな電話持ってて、それでお手紙送れるんやろ?」
たしかに、私たちの連絡手段はもっぱら携帯電話で、住所なんて年賀状を送るときくらいしか訊ねない。その年賀状だって、わざわざ郵便局を介さなくてもメールという形でメッセージを送信できるから、書く人も年々少なくなっているという。
おばあさんは悪い人ではないと思う。でも今日会ったばかりで、歳も離れているし、名前しか知らない人。おばあさんはそんなことは気にしない大らかな人かもしれないけれど、『知らない人についていかない、名前を教えない』と言い聞かせられて育ったからか、初対面の相手に住所を伝えるなんて抵抗があった。
でも、名前はもう教えちゃったし、私もおばあさんの名前を知ってるから、知らない人じゃない。それに、おばあさんとの――結仁依さんとの文通は、ちょっとだけわくわくする。
「私で……よかったら」
勇気を出してそう言えば、結仁依さんは丸い頬をにっこりと緩めて、手持ちのメモの一枚に、住所と家の電話番号を書いて渡してくれた。
新聞に差し込まれるチラシの、無地の裏面をまとめたメモ帳に親しみを覚え、私もそのメモ帳の一枚に住所と携帯電話の番号を書いた。