電話はかなり勇気がいる。だからメールにしたいところだけど、文面はどうしよう。まずは自分が誰かを先に書いて。それから、多分チョビちゃんが勝手に教えてるわけだから、そのことについても触れて。
「先輩」
「はい!」
「はいぃい!?」
後ろから声をかけられ、びっくりして大きく返事をすると、それを上回る声を仁花ちゃんが上げる。
「あっ、ご、ごめん。どうかした?」
「い、いえっ、あの……一緒に、売店に行きませんか?」
「あ、うん。そうだね。行こうか」
携帯をポケットにしまって、自分のリュックから財布だけ出し、仁花ちゃんとロビーを歩いて売店へ向かった。昨日は初戦とあって心に余裕もなく、仁花ちゃんも私もまだ覗いていない。
売店は春高グッズが中心で、シャツやバッグ、タオルなどのスポーツ用品を中心に、バレーボールを模したキャラクターグッズも多数並んでいる。
家に持って帰るお土産は何がいいか。仁花ちゃんとも話し合って、無難にクッキーにした。バッグに入れられる大きさで、パッケージが春高仕様。自分用にはキーホルダーとハンドタオル。やっぱりそれも仁花ちゃんと同じ。
「せっかくなら清水先輩ともお揃いにしたいね」
「いいですね! あっ! 私たちでプレゼントしませんか?」
「それいい。そうしよう」
清水先輩の分も手に取って長い列に並び、先に会計を済ませてレジから離れる。予想よりずっと時間がかかってしまった。時間を見る意味でも携帯を確認するけど、誰からも着信などはない。
「何かあったんですか?」
「え?」
「試合が終わってからずっと、携帯が気になってるみたいだから、連絡を待ってるのかなって」
会計を終えた仁花ちゃんにそう訊ねられ、そんなに携帯を気にしていただろうかと動揺してしまう。まあ、指摘されるくらいだからそうなのだろう。
「あー、うん。待ってるというか……」
待つことに意味はない。宮くんは私の連絡先など知らないから、私がコンタクトを取らないといけない。
画面に表示される時刻は、もう昼時を過ぎてしまう。時間はいつまでもあるわけじゃない。ポケットに入れたままの袋を、ジャージの上からそっと押さえる。
「ごめん。ちょっと電話かけたいから、先に戻っててくれる?」
「分かりました。あ、荷物持って行っときましょうか?」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
みんなの居る方へ向かう仁花ちゃんを見送り、広い通路の端にずれて携帯電話を操作する。
メール。メールだとやりとりに時間がかかるし、打つのだって地味に時間を取る。
じゃあ電話。いきなり電話はハードルが高い。知らない番号からかかってきても、無視する人かもしれない。
だけど急いでいるなら電話が手っ取り早い。かけるしかないのだと、通話ボタンを押す直前まで画面を持ってきた。
ボタンを押せば繋がる。ボタンを押せば。
意を決して押そうとした、その瞬間。懐かしい名字が耳に入り、肩を強く引かれ、後ろを振り返った。
「ほんまにおった……」
息を切らした宮くんが、いつも重たげな瞼を思いっきり上げて、丸い目で私を捉える。
宮くんだ。頭は認識しているのに、体が追いつかなくて名を呼べない。
声が出せない私の肩を掴んだまま、宮くんは速い呼吸を繰り返し、次第にそれも落ち着いてきた。
「何してん」
低い声は、周囲が発する音なんて一つもないみたいに、はっきりと私の鼓膜を震わせる。
「マネージャーを……」
「その格好見たら分かるわ。さっきの試合、おらんかったやん」
「別のところの試合、見学してたので……」
やっと喉が働くようになったものの、心臓が動きすぎて苦しい。
だっていきなり目の前に現れた。ずっと会っていなかったのに心構えもなく再会したら、人はこんなにも混乱するのだと知った。
さっきまでコートに立って烏野と戦っていた宮くんも、着替えを終えて稲荷崎のジャージを羽織っている。稲荷崎のバレー部がそんなジャージだったことも今初めて知った。
「黒、似合わんな」
唐突に烏野のジャージにダメ出しをされた。いや、この場合は単に『黒が似合っていない』というだけで、黒いジャージであることに物申しているわけではないと思う。恐らく。
「稲荷崎のユニフォームと同じ色だよ」
「こっちの黒とそっちの黒はちゃうやんけ」
「そう?」
「似合わんわ」
重ねて否定されて困る。似合わないと言われても、烏野の部員である以上、黒いジャージは着なければならない。
気まずさから私が口を噤むと、宮くんも黙してしまった。会話の切り口を探すけれど、またダメ出しされるのはいやだから慎重に選びたい。
「なんでここに居んの?」
肩から手が外される。記憶よりも背が高くなった気がする。ずっと会っていないからただの錯覚かもしれない。その判別もできない。
なぜここに居るのかと問われたら、春高に出場した烏野のバレー部員だから。
でもそれは分かり切ったことだから、恐らく宮くんが訊きたいのは、なぜバレー部員になったのか、だ。
「バレー部に興味が湧いて」
当たり障りない入部理由に、宮くんは目を眇めた。怒っているように見えて、やっといつもの調子に戻った心臓もまた駆け出そうとする。
「で、どやった? バレー部」
淡々と感想を求められ、考える。
バレー部に入って半年ちょっと。ルールは分からなかったし、マネージャー業も初めてで不安。ミスも多くてへこんだり、誰かが打ったボールが体に当たったときは痛かった。
だけどバレーは、いろんなことを教えてくれた。試合に勝つとこんなに興奮するのだと知ったし、練習試合でも負けるのはいやだ。夏の体育館は酸素が薄くて、汗を掻いたあとのスポーツドリンクはとても美味しく、夜の教室は怖いけどみんなと一緒だとワクワクもする。
同じスポーツのはずなのに学校によってまったく違うスタイルがあって、同じバレーはどこにもない。
高く跳べることが羨ましくて、頼もしくて、みんながボールを上げるたびに、気持ちも顔も釣られて上がる。
「おもろい」
バレー部は、バレーはおもろい。以前に赤葦くんにも出した答えたけど、やっぱりシンプルにこの一言に収まる。
きついこと、苦しいこと、儘ままならないことの先にも後にも、なぜか『おもろい』があるから。
だからバレーはおもろい。私はずっとコートの外にしかいないけど、おもろいってなっちゃうのがバレー。
宮くんは「そうか」と返し、唇を引き結んだ。どうしてか分からないけど、悔しそうに見えた。
「あとね」
ぎゅっと手に力を込めると、携帯電話に付けているストラップが小さく揺れた。制服もジャージも違うものに毎日袖を通しているけれど、これだけは稲荷崎の頃から変わらない。
「全国に行けたら、宮くんにまた会えるかもって」
恥ずかしいことを言っている自覚はあったから、顔は俯いてしまう。どうして口走ってしまったのか、と後悔しても遅い。場の雰囲気に高揚して、ついうっかり回った口が恨めしい。
「なあ」
宮くんが呼びかける。でも顔が上げられない。絶対に真っ赤だ。体中から掻き集めたような、ありったけの熱で頭が浮かされる。
「好きや」
ふ、と息を詰めた。乱れた呼吸を悟られたくない。感覚が遠ざかる指先が震えないよう、思いっきり力を込めて意識を留めた。
「お前んこと、やっぱ好きや」
あれだけ上げられないと思っていたのに、どんな顔をしているのか知りたくて、頭はあっさり上がった。見下ろす目が私とかち合うときゅっと潰れる。
「諦めよう思てるのに、諦めきれん」
ご飯を前にするといつも大きく開く唇は、何も食べられないくらいきつく結ばれる。宮くんとは一年間同じクラスだったけど、苦しいって顔は、初めて見た。
私が宮くんを忘れられないでいたように、宮くんもそうだったのかな。
「私も」
バクバクと暴れる心臓が、胸に詰まっていた言葉を押し上げる。
「好きや」
あの日、本当は『さよなら』なんて教えてもらいたくなかった。一番知りたかったのは、この気持ちをどう言葉で伝えたらいいか。
だけど私はいなくなるから、伝えたって宮くんのそばには居られないから、区切りをつけたくて別れの言葉を求めた。すべて思い出にして、もう開かない箱の中へ隠して鍵をかけるつもりだったのに。
「ヘタクソ」
目元や口元が緩んで、宮くんは細く長い息を吐いた。
「はよこっち戻ってきぃ」
腕を組んで、背を丸め、ぐっと顔を寄せる。
「関西弁部、コーチだけ居ってもしゃあないやろ」
私たちが勝手に作ったでたらめな部活。部員は私で、コーチは宮くん。廃部になってしまったと思っていたのに、まだ稲荷崎には残っているようで、嬉しくて笑ってしまった。宮くんも笑った。侑くんと似た笑顔だけど、いつか比べたのが本当に馬鹿らしいくらい、全然違った。
「あっ」
手のひらに拳を打って、いかにも思い出したとばかりに宮くんが声を上げる。
「チョビさんから何か預かってんの?」
「えっ?」
「さっきメール来た。あんたからちゃんと受け取ったかぁ、て」
言われ、すぐに察しがついた。
「ああ、これ」
ジャージのポケットに入れたままだった小袋を、宮くんへ差し出す。バッグに入れたりポケットに入れたりしていたせいで、紙袋には皺が多くついてしまっている。
「なに?」
「宮城のご当地ケティちゃん。チョビちゃん、ご当地ケティちゃんを集めてるみたいで、ずんだ餅ケティちゃんが欲しいから、買ったら宮くんに預けてほしいって」
受け取った宮くんは、「ずんだ餅なぁ」と小袋を裏返した。表も裏も透けていないので中身は見えず、振れば根付けについた小さな鈴の音が、二つ分リンリンと鈍く響く。
「何のことか分からんかったから電話したら、ちょうどバイトの休憩中やったらしくてな。あんたが烏野でマネしてるけど、もう会ったんか言われてびっくりしたわ」
「あー……ごめんね。私から連絡するようにって、チョビちゃんから番号とかアドレスは送られてきたんだけど……今ちょうど電話かけようとしてたんだ」
見せた携帯の画面は、宮くんの番号へ発信する直前のページ。本当にあと数秒、宮くんが私の肩を掴むのが遅かったら電話をかけていた。
「もう俺らここ出るとこやったで」
「そ、そっか。宮くんは私がどこに居るかよく分かったね」
「ツムがそっちのセッターの連絡先知っとったから、烏野がどの辺りに居んのか訊いた」
侑くんと影山くん。春高で会う前にユース合宿で先に会っていたのは知っていたけど、連絡先まで交換していたのは知らなかった。でもおかげで宮くんと会うことができたので、二人には感謝しかない。
「あ、居た居た。せんぱーい! 今からバスに乗るって……」
聞き慣れた声。日向くんが私を呼ぶ声に振り向くと、小さな体に大きなバッグを添わせた後輩が駆け寄って来たものの、その足はピタリと止まった。
そのすぐ後ろについていた、自分の分だけじゃなく私のバッグも肩にかけている仁花ちゃんも、なんとも不安定なポーズのまま固まる。
「み、みや……どっち!?」
私一人ではなく、そばに宮くんが居ることに気づいたようで、しかしそれが宮くんなのか侑くんなのか分からず、日向くんは目に見えて困惑している。
「アホやない方」
「えっ……ど、ど、どっち!?」
「わ、私も分かんないよぉ! どっちが何色だっけ!?」
宮くんの発言が余計に日向くんを惑わせ、仁花ちゃんに助けを求めるものの、仁花ちゃんもあたふたと狼狽えるばかり。背番号はなくとも髪色ですぐに区別がつくはずだけど、思わぬ状況に動揺しているせいか、どっちがどの髪色だったのかすっぽ抜けてしまっているようだ。
「おいサム! そろそろ行くらしい――おっ」
今度は久しぶりの声。宮くんの後方から、侑くんがこちらへずんずんと歩み寄って来る。途中で、さっきまで激戦を繰り広げた相手が目に入ったらしく、宮くんをすっ飛ばして日向くんの前に立った。
「翔陽くん、さっきぶり」
「もう一人来た! どっち!?」
「これがアホの方」
「ハア? 誰がアホの方や! アホはお前じゃホームラン王! 翔陽くんも! さっき試合しとったやろ! なんで区別つかへんねん!」
侑くんを指差す宮くんの手を叩き落とし、混乱している日向くんへは尤もなツッコミを入れる。一気に場の雰囲気が侑くんに引っ張られる。
ああ、侑くんだなと、稲荷崎でもよく見た光景をしみじみ振り返っていると、ぱちんと目が合った。
「よし子ちゃん?」
久しい呼び方に驚く。侑くんは私の顔をじろじろ見ながら、一歩踏み出した。
「自分、頭よし子ちゃんやんな?」
気づいたら付けられていたあだ名。呼ぶのは侑くんだけだけど、転校ばかりであだ名をつけられたことは一度もなかったから、本名にちなんでもいないその響きは新鮮だった。
「そんなに頭よくないけどね」
「ほんまか? この前のテスト、何番やった?」
「クラスだと、じゅう……番」
「頭ええやんけ!」
ツッコんだあと、侑くんは無邪気に笑った。いつだかと似たやりとりは、お互い覚えている証拠。その確認ができて、私も自然と笑顔になる。
「久しぶりやなぁ。烏野いったん? てかマネやっとったん?」
「うん。侑くんは相変わらず元気だね」
「まあな。俺はどっかの腑抜けと違うて、フラれたくらいでメンタル崩れへんで。おっ、飛雄くん。翔陽くんのお迎え?」
日向くんと仁花ちゃんの後ろにいつの間にか影山くんが居て、侑くんに軽く頭を下げる。
影山くんだけでなく他の部員も、それぞれバッグや荷物を持ってぞろぞろ現れ、宮くんと侑くんに気づくと立ち止まり、物珍し気な視線を向ける。バスがどうと日向くんが言っていたので、みんなで向かう途中のようだ。
「いきなり居らんなってびっくりしたわ。教科書も借りられへんし」
「侑くんの教科書も相変わらず足が生えてるんだ」
「最近は羽も生えてきたらしくてな、英語の教科書、なんでか掃除用具入れるとこの上にあってん」
「いじめられとんのやろ」
「誰がじゃボケ!」
兄弟ゆえの容赦ない一言に、侑くんは険しい顔つきで噛みつく。まるで稲荷崎の教室に戻ったみたいで楽しいけど、仁花ちゃんが私のジャージをそっと摘まんで「あの」と声をかけてきて東京体育館に引き戻される。そうだ。あの頃の空気に浸っている場合ではない。
「ツム、戻るで」
「アァン? 呼びに来たんは俺やぞ。仕切んなや!」
「バレーしとってもしとらんでも、お前はほんまやかましいな」
睨み合って、先に鼻を鳴らして逸らしたのは侑くん。こっちに向いた目はすぐに鋭さが丸く削られ、目尻が垂れた。
「ほなな、よし子ちゃん。翔陽くんと飛雄くんも」
私に、そして日向くんと影山くんに。挨拶すると返事も聞かずに背を向けて歩き出した。現れて五分も経っていないのに、侑くんは台風みたいに、何もかも吹き飛ばしていった気がする。
「チョビさんに渡しとくわ」
「うん。お願い」
「あとでメールくれ」
「うん」
袋を示すように挙げた手を下ろし、宮くんは烏野のみんなに向けてか会釈をした。キャプテンや菅原先輩ら数人が同じように返し、日向くんは「こっちがアホじゃない方……?」とまだ先ほどの混乱を引きずっている。
「またな」
教室で、廊下で、校門前で交わしたときみたいに、宮くんがからっぽの手を挙げる。
「ほな、またね」
手を振る私に、宮くんは満足そうに笑った。