さよならは知らないまま | ナノ
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 三月はあまり好きではない。うら寂しいからだ。
 今年の三月も、やはり好きではなかった。進級するとこの教室は消えてしまう。私たち生徒は否応なしに分解されて、新しいクラスのパーツとして組み直され、二年生の教室に放り込まれる。
 次も同じクラスになれたらいいねと願う友人がいて、できれば今度は違うクラスがいいなと望むクラスメイトもいて、強制的な別離は悲喜こもごも。
 時は止まらないし、過去には戻れないし、未来は覗けない。
 もう一か月もない最後のひと月には大きな行事はなく、三年生の卒業式と在校生の修了式があって、それから春休み。

「春休みなんて休みやないで。盆も正月もないしな」

 このクラスで最後の日直の日は修了式。宮くんが窓を開け、私が日誌を開くのも今日で最後。
 明日から始まる春休みも、宮くんはほぼ毎日部活。運動部はどこもそうらしいけど、帰宅部の私は大変だなという感想がつい出てきてしまう。

「でもちゃんと部活行くんだ」
「そら行くわ。バレーするんは好きやからな」

 空いている前の席に座り、宮くんは登校途中に買った肉まんを頬張る。朝ごはんも食べているはずなのに、運動部所属の男子高校生のお腹は底なしだ。

「宮くんって真面目だよね」
「なんや急に」
「面倒だからって、日直のこと何もしない人もいるから」
「あー、高木とかな」

 大半の生徒は、面倒だと思っていても日直の仕事を淡々と行う。きちんとやらないと次の日も日直を任されるし、それほど苦労のある内容でもない。
 でも中には頑なにやらない人もいる。宮くんが言った高木という男子生徒はまったくやらないので、あるときは三日も日直のやり直しをさせられていた。ペアになった曽根本さんがただ可哀想だった。

「宮くんがちゃんと朝早く来るの、意外だなぁって最初は思ってたんだよね。運動部の人は朝練とか優先するイメージで、日直はペアの人に任せっきり、みたいな」
「まあ、うちはそういうとこ厳しいと思うで。バレーがいくらうまかろうが、ルールに従えん人間はいらんって言われとる」

 いつの間に肉まんはすべて、宮くんの口を通り胃の中に収められていた。残ったゴミをコンビニの袋に入れ、ぐるぐると丸めて小さくする。

「来年も同じクラスやったら、日直もまた一緒なるかもな」

 私の机の上に肘を置いて頬杖をつき、広げた日誌を見やって言う。まだ日付と、宮くんと私の名前しか書いていない。
 一学年は八組あって、同じクラスになる確率はそう高くない。私たちの間に挟まる名字の人が居る可能性も加えたら、日直になる確率もさらに低くなる。
 でも、そんな数字は関係ない。私たちがまた一緒に日直をやる可能性はゼロだ。

「それは無理かな。私、転校するから」

 朝起きて、伝えようと思っていたことは、案外するりと言葉になった。

「……は?」

 頬杖をついたまま、宮くんが呆けた声を出す。よほど驚いているのか、ちっとも動かない。

「引っ越すんだ」

 一時限目の修了式のあと、昼まで授業を受けて下校したら、私はもう稲荷崎高校の制服に袖を通すことはなく、新しい地に行くための準備に精を出す。
 引っ越し業者が用意したダンボールに、私物の種類を油性ペンで書いて、ガムテープを貼って梱包する。もうほとんど詰め終わっているので、残っているのは直前まで使う日常品だけだ。

「どこに」
「宮城」
「宮城て……」
「東北だよ」

 私も母に聞かされたとき、宮城ってどこだっけと考えた。地図で見ると本州の上の方。太平洋側で、牛タンとかずんだ餅が名物。それくらいしか知らない土地に、私はもうじき引っ越す。

「二日休んだ日があったでしょ? 新しい学校に入るための手続きとかあって、宮城に行ってたの」

 初めて宮城を訪れたのは三月の頭。予想はしていたけどすごく寒くて、現地で厚手のタイツを買った。
 転入予定の学校で試験を受け、合否はすぐに出た。無事合格。そのまま転入手続きの書類、制服やジャージの採寸、注文も二日の間になんとか終わらせたので、四月から宮城で新しい生活が始まる。

「それに、転校しなかったとしても、宮くんと日直はペアにならないかな」

 書いたばかりの自分の名字に目を落とす。出席番号順だと宮くんの一つ前の名字。

「名字も変わるんだ。今のはお母さんの旧姓で、前のお父さんと離婚したときに変わって、本当は二番目なの。今度は新しいお父さんので、三番目。実はね、一月には新しい名字になってて、でもどうせ転校する予定だし、ややこしいから学校では使わないでいきたいって先生に言ったの。新しいのは、出席番号順だと宮くんと前後にはならないから、日直はどっちにしろ一緒にできない」

 新しい名字は、出席番号で数えたら半ばあたりになる。最後の方になりがちな宮くんとは日直は組めない。
 先生には転校する旨もみんなに発表しないでほしいと頼んでいるから、みんなと共に二年の教室のどこにも入ることができないまま、私はひっそりと稲荷崎から出て行く。

「残られへんのか」

 宮くんの問いに頭を振る。

「そういう話もあったけどね。こっちはお母さんの地元だから、叔母さん夫婦も住んでるの。高校卒業するまでは叔母さんのところで暮らしたらいいって言ってくれて」
「せやったら残ればええ。新しい親父いうても他人やろ」
「うん。でも、叔母さんの家はね、来年も再来年も受験生の従兄妹がいるの。大学と高校と。だから迷惑かけたくない」

 叔母さんの家は四人家族。年上の従兄は来年に大学の、年下の従妹は再来年に高校受験が控えている。私が住まうことで叔母の家の負担になるのは避けたい。叔母さんも旦那さんもいい人で、従兄妹とも仲は良いから、余計にそう思う。

「新しいお父さん、いい人だから安心して。私、中三の頃に怪我して病院に運ばれたときがあったんだけど、うちのお母さんよりずっと泣いて心配してくれて、大変だったんだ。『血ならいくらでも取ってくれ』って駆け込んできて、病院の人たちも慌てちゃって。そんな大怪我じゃなかったから、輸血なんていらなかったんだけどね」

 中三の下校中に、走行中の車と軽くぶつかってこけてしまった。速度も出ていなかったし、多少痛みがあったくらいだけど念のためにと救急車で運ばれ、連絡を受けた母と新しい父が――そのときは母の交際相手だったけど――病院に来て、私の容体はどうか、意識はあるのか、助かるのかと矢継ぎ早に問い詰め、ついには輸血まで申し出るものだから、病院のスタッフにはとても迷惑をかけた。
 新しい父は気が優しくて、心配性で、虫が苦手。母をとても好きで、私のことも大事にしてくれて、私が高校を卒業したら再婚したいと母が言っていた。でも地元の宮城に戻ることになり話し合った結果、早い再婚と引っ越し、転校が決まった。

「転校はベテランなんだ、私。保育園も小学校も中学校も、一回ずつ引っ越して転校してるんだよ。すごいでしょ。おかげで保育園とか小学校からの友達とかいなくてね。中学の子は高校が別になって会わなくなって、チョビちゃんは……毎日連絡するって言ってくれるけど……」

 転校のことはチョビちゃんには伝えている。宮城へ手続きに行く日が決まって話したら、チョビちゃんはすごく泣いて私も泣いた。
 引っ越しまでにたくさん遊ぼうと、時間の限りに二人で思い出を作った。映画を観て、行きたかったお店の行列に並んで、お揃いのミラーを買った。
 チョビちゃんと別れたくない。これまで何度も、いろんな友達と出会って別れてきたけど、チョビちゃんはその中でも一番の友達だと思っている。
 でも、遠く離れたらどうしても関係が薄まる事実を、私は何回も経験している。手紙は届かなくなったし、メールもアドレスが変わっていた。だからチョビちゃんともそうなってしまいそうで、それが怖くて寂しい。

「引っ越しも転校も慣れてるけど、名字も変わったのはさすがに初めてで、新しい名字はずっと変な感じがしててあんまり好きじゃなかった。でもね、この名字だったから、宮くんと一緒に日直できたんだ。前の名字のままだったら、私は入学式のときにちょうどこの席に座ってた。宮くんはあっちで、話す機会もなかっただろうし、こんなに仲良くもならなかったと思う」

 宮くんの今の席であり、入学時に私が座っていた辺りを指差す。教室の隅と隅。もし両親が離婚していなければ、それが私と宮くんの本来の距離だった。
 産まれたときから十年以上も名乗ってきた名字がある日変わって、すぐに慣れてしまえる人の方が珍しい。転校してきた子を気軽に名前で呼ぶ子もいなかったから、私は私もまだ受け入れていない名字で呼ばれ、居心地がずっと悪くて元の名字に戻りたかった。
――でも、この名字だったから宮くんと仲良くなれた。
 日直でペアを組んで、話すことが増えて、宮くんの小二の頃の恥ずかしいエピソードも知ったし、宮くんはヨーグルト味のプロテインを買うことも知った。優しくて律儀なことも、つむじが左回りなことも気づいた。

「やっと好きになれたけど……でもこの名字とも、さよならだね」

 日誌に書いた自分の名前を、指でそっと触れる。
 初めてこの名字でよかったなと思った。やっと気に入った。だけどもう名乗れない。戸籍はすでに新しい名字になっているし、唯一まだ名乗りが許されていたこの高校も、今日で最後。

「ねえ、宮くん」

 黙りこくってしまった宮くんは、じっと私の指を見ていた。指なのか、名前なのか、何も見ていないのかも分からない。横へ流した前髪が目元を隠すから、もしかしたら瞑っているのかもしれない。

「関西弁で『さよなら』は、何て言うの?」

 こちらに移り住んで、もうじき丸三年経つ。高校は転校することなく卒業できると期待していたのに、私は『さよなら』を覚えなければならなくなった。
 教えてもらうなら宮くんがいい。宮くんの話す関西弁が、私は一番好きだから。

「知らん」

 寒い教室に、それよりも冷たい声が響く。
 俯いていた宮くんは、ゆっくり、ゆっくりと顔を上げた。
 目が合う。私を責める色が、水面のように揺らいだ。

「お前に教える『さよなら』なんて、俺は知らん」

 突っぱねられたのに嬉しかった。よかったと思った。
 だけど今日でもうお別れだから、ちゃんと区切らないといけない。

「そんなことないで」

 宮くんは知ってるよ。正しい『さよなら』を。
 私は宮くんの『さよなら』でお別れしたい。だから教えてほしいと、目を見て言ったのに。

「ヘタクソ」

 瞼を伏せるように瞳を逸らし、宮くんは席を立った。それが宮くんとのお別れだった。

行く春の名は


20230614

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