いつかきみが枯れてしまうまで | ナノ
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「#甘々」のBL小説を読む
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04

 第三のジム、エンジンスタジアムは、バウスタジアム以上に高い壁だった。
 タイプとしてはアンの仲間には有利だったが、そんなものなどもはや関係ない。成人して間もない若きジムリーダーによって鍛え上げられたポケモンと、こちらの手をいくつも読み通す戦略で、アンはすでに二回チャレンジに失敗している。
 敗因は多々あれど、認めたくはないがダイマックスの有無も大きい。バウスタジアムでは僅差で勝利を得られたが、ここではそうはいかなかった。

 アンは悩んだ末、モンメンをエルフーンへと進化させた。
 新しい姿は、手足や胴体が現れ、綿の嵩も増えた。自身の変化はそう悪くなかったようで、小さな手でアンの頬に触れては高い声を上げて笑う。
 モンメンがエルフーンに進化しても、試合結果はちっとも変わらない。
 負けるたびに、エンジンシティ前に広がるワイルドエリアにこもり、対策を立ててジムへ挑戦。
 図書館の本で、ガーディもモンメンと同じく石を使って進化することを知り、ワイルドエリアで見つけた≪ほのおのいし≫でウインディに進化し強さを得た。

 努力でバウスタジアムをクリアできたのだからと、アンはひたすらにバトルを繰り返し、モンメンたちの技を見直して、作戦をいくつも捻り出しながら、常に全力で挑んだ。
 ジムへの挑戦回数は七回を超え、そろそろエンジンスタジアムへの挑戦期間の終了が見えてくる。これを過ぎる前に勝てなければ、そこでアンのジムチャレンジは終わる。
 エンジンスタジアムのジムリーダーはすっかりアンの顔を覚え、ジムトレーナーたちも諦めないアンを応援するようになった。大会規則に抵触しない程度にアドバイスをくれるようになり、肩を落としてジムを出るアンを励ました。
 父も母も、ターフスタジアムのみんなも、疲れて故郷へ戻ったアンを鼓舞する。『アンなら勝てる』と。

 周りの応援や期待は、次第にアンの重圧になった。
 挑戦回数が二桁に入ると、アンはもうチャレンジをやめてしまいたかった。
 ここまで負けが続くと精神的にもダメージが大きく、眠ることもうまくできなかった。横になるとチャレンジのこと、負けたときのことを考え、動悸に苦しめられる。
 ターフタウンやエンジンシティに留まることを避けるようになり、アンはワイルドエリアでキャンプ生活を続けている。
 道具や消耗品の補充し、ポケモンセンターで仲間を元気にすると、人を避けるように外へ続く長い階段を下りた。

 テントの中で広げる寝床は、決して快適とはいえない。
 機能性の高いマットレスや寝袋は、比例して値段も高くなる。溜まった疲労は完全には回復せず、夜中に野生のポケモンがテント周りをうろつくこともあり、睡眠の質は悪くなる一方だ。
 だから新しい場所を見つけテントを張っていた際に、急な突風にフライシートをさらわれてしまった。いつも風には気をつけていたのに、シートを掴む手がつい緩んでいたようだ。
 慌てて追いかけるものの、風に煽られたシートはどんどん遠くへ飛んでいく。
 テントがないのは困る。新調するにも財布には大きな痛手だ。絶対に失うわけにはいかない。
 もう少しで手が届く――そのとき、がくんと足が抜けた。あるはずの地面がない。気づけばアンは、高い場所から湖の中へ落ちてしまった。
 水を掻いてなんとか浮き上がるが、濡れた服が重くてすぐに沈んでしまう。顔を水面から出すために必死で、岸の方向も分からない。
――死を覚悟した。もがいて呼吸を繋ごうにも、酸素より水を飲み込む。
 意識が遠のいていく、その瞬間。背中をグンと突き上げられ、無我夢中でそれにしがみついた。

「ゲホッ、エホッ……!」

 咳き込みながらも、縋る先を逃がさないようにと腕に力を入れる。
 かすんでいた目が元の視力を取り戻すと、アンの視界いっぱいに顔が見え、間近にあるブルーの大きな瞳に驚いた。

「ラプラス……?」

 アンが今しがみついているのはラプラスだった。突起の生えた甲羅を背負い、長い首を優雅に動かす様子をワイルドエリアの湖でよく見かけたが、アンの記憶と違いこのラプラスは小さい。
 ラプラスはアンをそのままにすいすいと進み、近くの岸辺へ近づいていく。足が湖底につく場所で、ようやく一人で立てたアンは、岸から上がるとその身をぐったりと横たえた。
 呼吸は楽にできるが、死への恐怖からまだ解放されていない。
 本当に危なかった。もうだめかと思った。冷えた体は、恐怖も相まってガクガクと震え出す。
 助けてくれたラプラスはそのまま留まり、アンの様子を窺っている。ときおり喉で鳴らす、美しい歌を織り上げる声は、心配しているように聞こえた。

「ありがとう……あなたのおかげで助かったよ」

 礼を述べると、ラプラスは鳴いて答えた。知能が高く、人語を解するとも言われている。アンの態度や言葉も理解できたのかもしれない。
 水分をたっぷり飲んだ服は重たい。体力が戻るまでそのまま仰向けに寝転んでいると、その間にラプラスがフライシートをくわえて来てくれた。
 本当に賢い子だと、長い首を撫でるとその手にすりすりと頭を寄せる。ひんやりしているが、滑らかな気持ちのいい肌だ。
 なんとか身を起こし、ラプラスへの礼をもう一度送ってから、アンはフライシートを丸めて抱え、荷物を置いている場所へと向かう。
 肌身離さないようにしていたモンスターボールは、運悪く荷物のそばに置いていた。仲間も溺れずに済んだという意味では、幸運だったのかもしれない。
 アンの足音のほかに、違う音が後ろで響く。振り返れば、ラプラスがアンの後を追って来ていた。

「どうしたの? わたしはもう大丈夫だから、湖へお帰り」

 促すが、ラプラスは引き返そうとしない。ブルーの瞳がアンを見つめ、何か訴えている。

「もしかして……一緒に来てくれるの?」

 まさか、そんなことはないだろう。考えながらも好奇心を持って訊ねてみると、ラプラスは高く鳴いた。前へと進んで、アンの隣に並ぶ。
 思わぬ行動は、まさしく共に行くと言っているようで、アンはしばし言葉を詰まらせた。

「あの、あのね。わたしはバトルをするの。ポケモンバトル。ジムチャレンジ中で、とても強い人たちの、強いポケモンたちと戦うの」

 ラプラスへ向き直ると、ちょうど視線の高さが合う。成体の天辺はアンの倍近い高さにあるはず。きっとこのラプラスは子どもなのだろう。
 アンは余暇を楽しみにワイルドエリアに来ているわけではない。遊びたいだけならば応じることはできない。
 伝わるかは不明だが、アンはラプラスに訴えた。自分はラプラスに、バトルを望んでいると。

「それでも、来てくれる?」

 もう一度問うと、ラプラスはまた鳴いて、アンの身に頭を擦りつけた。



 バトルもしていないのに突然増えた仲間に、エルフーンたちは驚いたものの歓迎した。
 水場がない環境はラプラスには辛くないだろうかと案じたが、どうやらさほど問題はなさそうだ。
 新しいパートナーはその頭の良さを生かし、アンの指示もすぐに理解し従う。アンを乗せワイルドエリアの湖を進んで、足を付けたことがない場所にも連れて行ってくれた。

 ワイルドエリアで経験を重ね、バトルに慣れたラプラスを連れて、アンは久しぶりにエンジンスタジアムに挑戦した。
 挑戦期間まで残り一週間を切っている。しばらくぶりのアンにジムトレーナーは喜び、ジムリーダーも青年にしては屈託のない笑顔で「待ってたよ」と迎えた。
 みずとこおりの二つのタイプを持つラプラスは、じめんタイプの技に特別耐性がある方ではないが、エルフーンと同じく有効的な技を覚える。
 新メンバーにジムリーダーは感心の声を上げる。ラプラスはゲットが難しいポケモンで、今のアンでは到底捕まえることはできなかっただろう。まだ子どもだったことと、命を助けてくれた縁がアンとラプラスを繋いだ。

 ラプラスの力を借りても、ジムリーダーには勝てなかった。
 しかしダイマックスしたバンバドロを、瀕死寸前まで追いつめることができた。今までにない躍進だ。
 あと少し。あと少し。
 アンはまたワイルドエリアに走った。エルフーンたちとバトルを繰り返した。
 手持ちのわずかな道具を見直し、フレンドリィショップで≪きずぐすり≫を買い込んだ。
 ラプラスやエルフーンたちをもっと知るために図書館に通い、使うべき技を検討しては覚え直してもらった。ターフタウンに戻っていたヤローから≪わざマシン≫も借りた。

 あらゆる手を尽くした十二回目の挑戦。
 バトルの中でアオガラスがアーマーガアへと進化し、ラプラスと共に相手の攻撃に耐えて次へ繋いだ。
 ウインディは≪やけど≫や≪にらみつける≫で相手を不利に追いやり、ダイマックスしたバンバドロに、≪にほんばれ≫によるエルフーンの≪ソーラービーム≫が連続で刺さり、アンはとうとう、エンジンスタジアムのジムリーダーに勝った。

「おめでとう、アン。諦めずによく頑張ったな」

 じめんバッジを差し出すジムリーダーの目元は、少し潤んでいる。
 受け取ったじめんバッジには、ひどく硬質な冷たさを覚えた。全身から汗を吹き出し、激しい呼吸を続けるアンの熱い手のひらで包むと、その氷のような温度がじんわりと溶けていく。

「次はスパイクジムだけど……」

 ジムリーダーの口は止まった。
 今日はエンジンスタジアムに挑戦できる最終日。チャレンジャーはアン以外におらず、ジムトレーナーたちもコートの端でアンの勝負を見守っていた。ジムリーダーが負けたというのに、アンの勝利に涙を流している。
 第四のスパイクジムもまた、挑戦期間が決まっている。終了日は今日から一週間。
 エンジンジムにかなりの時間を割いたアンの実力と、スパイクまでの移動や相手への対策に要する時間を含めて考えると、期間内の突破は現実的ではなかった。

「親戚の家が、今ちょっと大変で。手伝いたいので、家に戻ります」

 半月ほど前に、ヤローの両親が相次いで大怪我をしたため、ヤローはチャレンジを途中棄権し、家業に専念している。
 近所の手を借りてなんとか乗り越えているものの、畑の収穫や手入れもあるうえ、そろそろターフタウンの繁忙期に入る。
 そのうち、余所も自分の家業で手一杯になる。アンの家が怪我をした両親共々ヤローたちの面倒を見ているが、アンの両親にも仕事がある。
 両親やヤローは、こちらのことは気にしないでジムチャレンジに集中をと、アンに手伝いを求めたりはしなかったが、それもまたアンは心苦しかった。
 ヤローは第四のスパイクジムから順当に進んで、最後の砦のキルクスジムも突破していた。あとはセミファイナルトーナメントを待つ間、パートナーのポケモンたちと試合に向けて準備するだけだったが、周りが止めたもののチャレンジの棄権を申し出た。
 確率の低いスパイクジムに挑戦するより、少しでも早くヤローの家を手伝おう。アンは今日の勝敗に関係なくそう決めていた。

「君は素晴らしいチャレンジャーだ。自分やポケモンの可能性を諦めず、本当に全力を尽くした」

 ジムリーダーがコートに膝をつき、視線の高さが入れ替わる。見上げてくるその双眸は、まっすぐにアンを貫いた。

「どうか、これからもチャレンジを諦めないでくれ。今年はもう無理かもしれないが、来年もまたここで戦ってほしい。勝つためにあらゆる手を考え、挑むことを諦めないひたむきな君と戦っていると、あの人を思い出した。このエンジンジムの以前のジムリーダーだ。彼に似た熱い情熱を、君に感じたよ」

 きっとこの上ない賛辞を贈られている。以前のジムリーダーのことをアンはよく知らないが、エンジンスタジアムを任されていた強いトレーナーと重ねて見るほどに、ジムリーダーはアンの挑戦に感銘を受けていた。

「アン。待っているよ」

 ジムリーダーの言葉にアンは何も返さなかった。ジムリーダーから黙って右手を差し出されたので、礼を欠くことを恐れ握り返す。彼の手首に巻かれている、使い込まれたダイマックスバンドを認め、そっと目を伏せた。



 挑戦を終えたのなら、もうエンジンシティに用はない。ジムリーダーへ告げたように、ターフタウンに帰ってヤローの手伝いをしなければ。
 ポケモンたちを元気にしたあと、ポケモンセンターを出たアンの足は止まった。
 ターフタウンへは3番道路を通る。チャレンジバンドを外してさえいなければ、タクシーもまだ無料で使える。
 頭ではターフタウンへの帰路を考えているのに、周囲で上がる蒸気の音や熱を感じながら、歩き慣れた長い階段を下りてワイルドエリアに向かった。
 周囲の天候は晴れ。くさタイプのポケモンが日差しを取り込んで、ひこうタイプのポケモンたちは気持ちよさそうに空を飛んでいる。
 アンは無心で歩いた。目的などない。ただワイルドエリアの中を突き進んだ。
 どれくらい歩いただろうか。時間の経過など定かではないが、アンは唐突に足を止める。
 その場でしゃがみ込み、細い腕で膝を抱え込んで顔を伏せた。

「……っく……」

 喉や鼻など、呼吸に必要な器官が痛い。
 冷たい氷を当てられたようにキンと鋭く、刺すような痛さに、アンの丸くなった背は震える。

「う、うあ……ううぅ……っぐす……」

 一度流れ出すと涙は止まらない。鼻を何度も啜り、息継ぎと共に肩が跳ねる。
 顔中が湿気て息苦しく頭を上げた。空は雲一つない、きれいな青。いい天気だった。
 アンは声を上げて泣いた。本能のままに従う、咆哮にも似た叫びとほぼ変わらない。どうせ周りには誰もいないし、たとえ人がそばに居ても、みっともないなんて気にしていられなかった。
 大声に驚いたエルフーンたちが、ボールから出てきてアンを囲む。
 進化してアンよりずっと大きくなったアーマーガアやウインディは目線を合わせるように屈み、ラプラスは首を傾げて不安げに鳴く。エルフーンは小さな手をアンの頬に当て、伝う雫をすくった。

「だめ、だった。だめだったよ」

 掻くようにエルフーンを抱いて、ぎゅっと力を込める。水に濡れるのを嫌うはずのエルフーンは、涙で濡らされても嫌がりはせず、短い手でアンを抱き返す。

「がんばったけど、がんばったけど、だめだった。みんながんばってくれたのに、だめだった」

 何度もバトルをさせた。≪きずぐすり≫を使い、様々な道具を持たせ、技を忘れさせては覚えさせ、勝つためとはいえ痛い思いをさせた。
 それでもアンは、もう先へは進めない。父が越えられなかったエンジンジムは突破したが、次には行けない。
 ダイマックスができれば違った――それは分からない。ダイマックスはジムリーダーとの試合で対等な条件になれるだけで、有利になるわけではない。それでも思わずにはいられなかった。
 自分もポケモンたちも全力を出し切った。今一番頑張っているチャレンジャーは自分だと、胸を張ることすらできた。エンジンジムのジムリーダーもアンを認めた。
 では足りなかったのは何か、それはダイマックスバンド。そんな風に考え出すと、もうそうとしか思えず、悔しさで涙が止まらない。
 アンを慰める声を皆が上げる。アンを信じて一緒にやって来てくれたのに、アンはその心配を無視して、自分のためだけに泣き続けた。


 泣こうがわめこうが、生きていれば腹は減る。自分一人なら億劫を理由に放棄できる食事も、ポケモンたちのためにはトレーナーのアンが用意せねばならない。

「……カレー作ろうか」

 最近はジムチャレンジのために時間が惜しく、カレーを作る暇すらも惜しみ、手軽に食べられるパンやポケモンフードで済ませていた。
 せっかくだから美味しいものを作ろう。アンはとっておきの缶詰を開封した。手持ちの貴重な木の実もふんだんに入れると、エルフーンたちはその芳醇な香りにはしゃいだ。
 旅を始めてから一番贅沢な食事に、ポケモンたちは競うようにおかわりをし、大鍋はあっという間に空になった。
 バトルのことなど一切考えず、久しぶりにポケじゃらしやボールを出してみんなと遊んだ。
 ウインディと一緒に駆けっこをして、アーマーガアの背に初めて乗せてもらい、ラプラスと思いつきの歌で合唱し、エルフーンとでたらめに踊った。
 舞うように踊るエルフーンに拍手をしていたら、本当に風に乗って高く飛ばされ、慌ててアーマーガアに頼んで助けてもらったのも、楽しい一幕となった。
 気が済んだらターフタウンへ戻るつもりだったが、今日はこのまま泊まると決め、陽が落ちる前に急いでテントも張り終えた。そのあとはまた、夜が更けるまでエルフーンたちと遊び尽くした。

 就寝の準備をしていると、ポケモンたちは皆ボールに戻らず、アンのそばで眠りたがった。
 アンも叶えてやりたがったが、さすがにみんな一緒には無理だ。ラプラスとアーマーガアには、明日いっぱい遊ぶと約束してボールに入ってもらい、エルフーンとウインディだけをそのままにする。
 二匹に挟まれた形で、アンは寝袋に身を収めた。どちらも毛量が多くふわふわとしており、冷えは一切感じず、むしろしっかりと温かい。
 遊び疲れから早々に寝ついた二匹と違い、アンの目は冴えていた。
 たくさん泣いて瞼は重く、体も疲れているけれど、今日の出来事すべてが頭の中で何度も再生され、アンの胸を焦がしたり締めつける。
 何度も寝返りを打つと、エルフーンやウインディを起こしてしまうかもしれない。アンはそっと寝袋から抜け出し、テントの外へ出た。
 ウインディによって焚かれた火は、火事にならないように消している。周りから聞こえるのはホーホーの鳴き声。ワイルドエリアの夜は昼に比べて静かだが、余計な音がない分、野生のポケモンたちの息遣いを強く感じられる。
 テントから離れた場所で立ち止まり、周りの木々を辿りながら見上げ、夜空に目を留めた。
 雲のない今夜は、数多の星が輝いている。幼い頃にひっくり返した、瓶から零した砂糖のように、千々とした星が休むことなく瞬いている。

「きれい……」

 美しい。焦げたり締めつけられていたアンの胸はときめき、星々の海と満月の清廉な光に打ち震えた。
 こうして夜空を見上げるのはいつぶりだろうか。エンジンジムへの挑戦を始めてからバトルのことばかりで、頭上を確認するなど天気の行方を気にしたくらいだ。
 ワイルドエリアの空は澄んでいる。星もよく見え、他の地方から観測に訪れる者も多い。
 ガラルの中でも田舎で生まれ育ったアンにとっては、きれいな夜空など今更珍しくもないが、今夜は不思議なくらい魅力を感じる。
 空から視線を下ろし見回すと、いつものワイルドエリアなのに、何もかもに愛しさを覚えた。

 遠くにゆらめく光は、夜に好んで活動するゴーストタイプのポケモンたち。
 湖の水面から聞こえる音は、勢いをつけて滑空するタマンタやマンタインたち。
 『巣』と呼ばれる穴から、ガラル粒子が赤い光の塔となって天へと伸びる。
 冷たい夜風はヒュウヒュウと甲高く響き、自由気ままにアンの脇をすり抜けていった。

 アンには好きなものがたくさんある。
 自身のパートナーであるポケモンたちや家族、友人、お世話になった人たち。
 故郷に帰れば、そこかしこに思い出が詰まっている。

 実りを喜んだ麦の、黄金色の大波。
 朝一番に触れる、山から引いた冷たい水。
 母が作る、ヒメリの甘いコンポート。
 ウールーの毛で織られた、柔らかくて温かいブランケット。

 それらへ向けるに似た愛を、アンはワイルドエリアに抱いた。
 そうすると不思議なことに、アンはやっと、自分の旅の終わりを受け入れることができた。
 あれだけこびりついて落ちなかった胸のつっかえは驚くほどすっきりとなくなり、明日は必ずターフタウンへ戻ろうと決める。

 こうしてアンにとって最初の、そして最後のジムチャレンジは終わった。

20220206