五つになったばかりのトウリにすると、空というものは『水色』だ。世界で一番高い天井には、ときどき白や灰色の雲が流れてくる。
ぽつりと落ちたり、バタバタと激しく降る雨は苦手で、母からは『あなたはうちはの子だから』と笑われた。
トウリは“うちは”だ。
うちはは忍の家系で、トウリも次の年から忍になるための学校へと入ることが決まっている。
それまでの間、トウリはこうして風の強さに目を眇めて、のんびりと空を見上げては、犬のような形をした雲を見つけることができる。
しかし、家に帰れば読み書きや算術の勉強があった。
学校に入るまでに、うちはの子として恥じない学力をつけさせようという、両親の方針だ。
トウリは特に、繰り上がりのある足し算や、繰り下がりのある引き算が苦手だった。
計算をするために指を使うのだが、足したくても手の指が足りず、足の指を数えても足りないことが増えた。引く際も同じく、二十よりたくさん数を用意できず、ほとほと困っていた。
父は、うちはの子ならばできると言う。母も祖父母も言う。兄弟のいないトウリに味方する者は誰もいなかった。
こんなに大変なら、うちはじゃなくていい。
そう思ったと同時に、もしかしたら自分は本当はうちはの子ではないのかもしれない、という恐ろしい考えも浮かんできた。
うちはの子ならばできることができない自分を疑ってしまい、トウリは算術の指南書を開く回数を少しでも減らそうと、読み書きに力を入れた。
書く字は手本と瓜二つになり、簡単な漢字なら書けるようにもなった。
すべては逃避からの上達ではあったが、『字が上手ね。さすがうちはの子ね』と言われると、自分の在り方を確認し安堵した。
その日も算術から逃げ新しい漢字を覚えていたが、勉強の進み具合の差に気づいた母に、算術の指南書以外の他をすべて取り上げられてしまった。
「できるようになるまで、外へ遊びに出るのは許しませんよ」
トウリは人生で初めて絶望した。
五つのトウリは『絶望』という言葉は知らなかったが、ぎゃあぎゃあと声を上げて喚くことも叶わぬほど、自らの置かれた立場を嘆いた。
母が障子戸をぴしゃりと閉めて退室したあと、ぐすぐすと鼻を鳴らしながら鉛筆を取る。
できるようになるまで、と言われたが、指が足りないからできない。
だから自分はもうずっと外で遊ぶことはできない。だって計算などできない。
花弁で飾った泥のご飯も作れないし、川で遊ぶことも、蝶を追って走ることもできないのだと思うと、肺が痛くて涙が止まらなかった。
「どうした?」
気遣う声が聞こえて、室内をぐるりと見回す。閉じているはずの障子戸が少し開いていて、黒い目がこちらを覗いていた。
びっくりして肩が跳ね、絶望ではなく恐怖で喉が詰まる。
「怒られたのか?」
隙間から指がにゅうっと出て、そのまま戸を横へと押しやった。
現れたのは、トウリとそう歳の変わらぬ少年だった。黒い髪の毛先が跳ねていて、同じ黒の瞳は丸くて大きい。
裸足で畳を踏みながら、トウリが向かう座卓のそばに腰を下ろし、手元を覗く。広げた指南書を見て「勉強?」と短く問われ、トウリはようやく頷く形で答えた。
「なんで泣いてるんだ?」
訊ねられるままにトウリは話した。足し算と引き算が難しくてできないのに、母からできるまで外で遊ぶなと叱られたので悲しんでいたと。
「足し算なんて簡単だよ。足せばいいんだ」
「でも、指が足りないの。数えられないよ」
鉛筆を置いて、一、二、三と数え、十を終えると、足を前に投げ出し、十一、十二と挙げていき、二十で止めた。
二十から先を数えるにはどうしたらいいか分からない。だから答えが出せなくて、だから終わらない。つたない説明ではあったが、少年はよく汲み取った。
「じゃあ、貸してやる」
少年が平を上に、両手を差し出す。トウリよりほんの少し大きな手だ。二十一、二十二、と続くことができ、三十までの数が揃った。
これならなんとかなりそうだ。トウリはすぐに問題を読み、必要な数を覚えて自身の手足や、少年の手を借りた。
一つ一つじっくりと。問題を解くごとに一から丁寧に数えたため、時間はかかったが少年は文句を言わず、ついには両足の指までも貸してやり、最後まで付き合った。
母に言いつけられたところまで回答を埋めるとホッとして、肩から力がごっそりと抜ける。これでトウリは家に引きこもらずに済んだ。
「これやるよ」
下げていた巾着に手を突っ込んだ少年が、掴んだ何かを座卓の上へ転がした。茶色の実。どんぐりだった。
艶のあるもの、ないもの。
帽子のあるもの、ないもの。
太っていたり痩せたのっぽだったり、見た目は様々だ。
「これがあれば、二十より多い数でも計算できるだろ」
座卓に置かれたどんぐりの数は、恐らく三十近い。このどんぐりも使えば、両手足の指より多い計算も確実にできるだろう。
「もう来てくれないの?」
どんぐりを代わりにしろということは、この少年はもう来ないつもりなのか。
少年が誰なのかさっぱり分からなかったが、困っている自分を助けてくれた救世主に、トウリはすっかり親しみを覚えていたし、これからも助けてもらいたかった。
虚を衝かれたように少年はしばし黙ったが、すぐに相好を崩し、トウリの頭に手を乗せる。
「また来る」
言葉と、笑顔と、手の温かさに安心し、「約束だよ」とトウリは言って、二人は指切りをした。
「お名前は?」
「シスイ」
「シスイは、うちは?」
「ああ、そうだ」
「私はトウリ。うちはだよ」
「知ってるよ。だってここん家の子じゃないか」
シスイの態度に、はたと気づいた。
「私、“うちは”の子なんだ」
「当たり前だろ。髪も目も、同じ黒だ」
うちはの子ではないのかもしれないと抱いていた、トウリの不安が瓦解していく。
自身を指差すシスイに、強烈な仲間意識が芽生えた。
共通する色を持って、氏を掲げる。自分たちはうちはだ。
「シスイ。シスイ。どこに居る」
「はーい。こちらに居ります」
しゃがれた呼びかけが響き、シスイは声を張って応えた。腰を上げて、開けっ放しだった障子戸の引き手に、トウリを助けた指をかける。
「またな」
シスイは手を振り戸を閉めたあと、廊下を歩いて行ってしまった。
ふらっと現れ、あっさり去ったため、トウリはしばし、シスイがここに居たことを疑った。
狐か狸に化かされたような気になるが、座卓に転がるどんぐりを見て、口元に笑みを浮かべる。
人形の服を入れていた箱を空にし、どんぐりを一粒ずつ丁寧に収めると、大事に飾り棚の一番上に置いた。
次の日。
苦手だと敬遠していた算術をやろうと意気込み、トウリは小箱を覗いた。
ときめきを持って目をやった箱の底で、どんぐりから這い出てくる虫を見つけ、有りっ丈の力で絶叫した。