流水落花 | ナノ
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 有事や同僚の病欠等がない限り、予定通りに休みを取れるようになったトウリは、キンセと会える回数も増えた。
 キンセは今までと変わらず正規部隊に所属し、中忍になっても班の再編成などもなく、下忍からの仲間と任務を受けている。
 今日はキンセが『休みをもぎ取ってきた』らしく、二人で新しい店、いつもの店を回っては、あれが欲しいこれが欲しいと言い合った。
 友人との楽しい語らいの中、視線を感じて顔を巡らすと、少し離れた場所に父の姿があった。
 今日は任務の日だったので警邏中なのだろう。里の正規部隊と変わらぬ、支給された緑のベストを羽織り、口を引き結んでトウリを見ている。

「トウリ?」

 異変に気づいたキンセが声をかけるが、トウリは反応できない。父がゆっくりとこちらへ歩み寄ってくるので、目を離すことも声を発することもできなかった。

「トウリ」

 友人の名を呼びながら現れた男を、キンセは不思議そうに見上げる。
 腕の徽章を認めて警務部隊と知り、

「もしかして、トウリのお父さん?」

とトウリに訊ねた。
 黙ったまま頭を振って頷くと、キンセはあっさり解けた疑問に顔をほころばせる。

「初めまして、猿飛キンセと申します」

 両手を揃え、真っ直ぐの背を腰から曲げる姿は、どこに出しても恥ずかしくないほど隙のない礼だ。
 対するトウリの父はキンセをまじろぎもせず、一言も返さぬまま、

「トウリ、遅くなるな」

それだけ言い残し、巡回警備のルートに戻るためか、振り返りもせずに行った。

「トウリのお父さん、キリッとした人だね」
「……そうかな」

 幸いにもキンセは、父の無礼を悪くは取らなかった。キンセの気を害さなかったことに安堵すると共に、娘の友人に対する父の態度に腹を立てる。
 キンセは『キリッとした』と評するが、あれはただの無愛想で、不作法で、不躾で。とにかく、娘の友人への父の身勝手さに恥を覚え、トウリは気まずかった。

「うちなんて、お母さんの尻に敷かれてるからさ。この前もお酒の飲み過ぎで怒られて、廊下で正座してたんだよ。父親なんだから、もっと威厳を持ってもらいたいけど、うちのお父さんじゃ無理かなぁ」

 キンセが自身の父の不甲斐なさを嘆く。トウリからすると信じられない話だ。一家において父は絶対的存在であり、逆らうことは許されない。父が決めたことは、たとえどれだけ不満を溜めていても破ってはいけない。トウリはそういう家庭で育った。
 家風の違いももちろんあるだろう。女系とまではいかずとも、女が強い家は珍しくない。
 仮にそうだとしても、そうでなくとも、トウリはキンセが羨ましかった。
 キンセの語る口調は、呆れはしつつも父を嫌ったりはしていない。キンセが父を素直に慕っているのは、キンセの父がキンセに、たしかな愛情を注いでいるからだ。
 自分はそんな風に慕えるほど、父から愛されたと思ったことはない。次に入る店を決め、声も足取りも弾ませるキンセの背がまともに見られず、トウリは足下に視線を落としながら追った。



 家に帰ったのは、陽がまだ西の山より上をいく頃。
 本当ならばまだキンセと遊ぶつもりでいたが、途中で会った父の声がトウリを縛り、帰宅を急かした。『遅くなるな』は『早く帰れ』の意だ。
 夕飯を作る母の手伝いをし、祖父母と共に四人で食事を済ませた。
 明日の下ごしらえをする母の隣で洗い物をしていると、玄関の戸が開いて父が帰ってきた。
 風呂は後で、先に夕食。父が母に言って、母は準備に取り掛かる。

「持っていってちょうだい」

 白米や味噌汁で満たされた食器を盆に置き、父の前へと母が頼む。
 手間のかかる下ごしらえの途中である母と、皿を洗うだけの自分。考えずとも、手が空くのはトウリの方だ。
 いやで仕方なかったが、盆を持って座る父の傍へ向かった。盆から座卓へ、静かに器を並べる。

「トウリ。昼間に会った猿飛の娘とはもう付き合うな」

 唐突に投げられた言に、トウリの手が止まる。
 父は腕を組んで、いかにも不機嫌だ。そうすれば父に恐れたトウリが言うことを聞くと知っているから、眉間に皺を作る。驚くほど冷静に、トウリは父を分析した。

「なぜですか?」

 訊ねたトウリに、父が視線だけを送り、苛立ちを形にしたようなため息をつく。

「分からんのか。猿飛はうちはを差し置いて、図々しくも火影の座に居座る一族。猿飛と親しいなど、皆から何を言われるか」

 理解力に乏しい娘に父が言葉を足す。三代目の火影は猿飛ヒルゼン。キンセの遠縁。
 トウリが知る三代目は、いつも『火』が記された笠を被り、ときおり受付所に腰を下ろしては、任務に勤しむ里の忍を労う好々爺だ。

「いいか、トウリ。友は選べ。猿飛との付き合いはやめろ」

 いつもの呼びかけからの言いつけ。
 トウリが許されているのは『はい』の一言のみ。
 拒む思いは飲みこんで、叱られぬようにと父に従ってきた。
――シスイは、こんな自分のためにも、うちはを変えようとしてくれている。
 父を恐れて逆らうことができず、意思を潰して生きている自分を慮っている。
 シスイが自分や、うちはのこれからを、自由に生きられる未来を創ろうとしてくれているのなら。
 ならば自分も変わらなければならない。未来を与えられるだけではなく、自ら掴み、そしてシスイがトウリにしてくれたように、自分も誰かに手を差し伸べ作っていくために。
 変わらなければ。大事なものを、これ以上奪われ、踏みつけ砕かれぬために。

「いやです」

 心なしか早口だったが、トウリは初めて、父の言いつけを拒否した。
 配膳される前に出された茶を飲んでいた父の動きが止まる。座卓の上にゴンと大きな音が立ち、湯呑みが打ち付けられる振動に、トウリの肩が一度揺れる。

「トウリ。今なんと言った?」

 是と返すはずの娘に、父が確かめる。
 トウリがぐっと噛み締めた奥歯は、恐怖でがちがちと鳴り、背は冷えるのに汗を掻いている。
 けれど、口に出したものはもう引っ込められない。トウリは変わると決めたのだ。

「……いやです。キンセは、私の大事な友達です。父様に何と言われようと、私はキンセと――」

 衝撃のあと、ぱん、と乾いた音が響いた。頬が一瞬で熱を持ち、ずくずくと痛みだし、たまらず手で触れて、それもまた痛かった。
 音に気づいた母が台所から顔を覗かせ、父やトウリに呼びかけるが、誰も返事はしない。

「トウリ」
「いやです……絶対に、いや」
「トウリ!」

 再び父の手が、トウリの反対の頬を叩く。両手で顔を庇えば頭を。頭を庇えば肩を蹴られ、そのまま後ろへ転がり、畳に背を付けた。

「あなた! やめて!」

 母が父とトウリの間に割って入り制すが、父は熟れた林檎のように顔を赤くし、そのまま縦になってしまうのではないかと思うほど目の端を吊り上げ、トウリを睨みつけて放さない。

「猿飛だからなんだと言うの……。キンセは、キンセは私がうちはでも、他のみんなのように私を避けなかった。私たちは里の仲間だからと、言ってくれた……!」

 アカデミーから付き合いがある友人は、今となってはキンセだけだ。
 キンセだけが偏見も疑いもなく、変わらぬ友情をトウリに抱いてくれている。

「ふざけるな! 猿飛ごときに絆されおって! あいつらは自分たちが火影に就いたからそう言うのだ! 二代目から火影というおこぼれを貰った卑しいあいつらに、我らうちはが情けをかけられる謂れはない!」

 唾を飛ばしながら父はがなる。ヒルゼンが火影になれたのは、ヒルゼン自身の力ではないと貶める父に、トウリの反発心が増す。

「二代目に師事したのは猿飛だけじゃない! シスイのお祖父様も弟子だった! だけどヒルゼン様が三代目に選ばれた! おこぼれなんて言い方はやめて!」

 三代目と同じく、シスイの祖父であるカガミも二代目に師事し、小隊を組んでいた。トウリにはその時代のことは詳しくは分からないが、条件が同じである以上、火影に選ばれたヒルゼンは、火影足り得るものを備えていたと考えるのが妥当だ。

「そんなもの、千手扉間がうちはを手の内に置き、悪計を企て成そうとしたに決まっている。千手とうちはが分かりあえるなど有り得ない! だというのにカガミ殿は、尻尾を振って千手に下ったのだ!」
「シスイのお祖父様の悪口は止めて! 父様はどうせ、何も知らないくせに!!」

 同じ一族であるシスイの祖父へのあんまりな言い草に、トウリは堪えきれないとばかりに叫ぶ。

「……なんだと?」

 父はトウリの絶叫に動きを止めた。
 写輪眼でもないのに目が赤い。
 見開かれ血走った白目が赤い。

「シスイのお祖父様のことも、二代目のことも、ヒルゼン様のことも、キンセのことも……コカゲのことだって! 父様は、その方々と一度でもお話されたことがある? ひととなりを知れるほどに、父様は親しかったの?」

 父は知っているのだろうか。
 シスイの祖父とは顔を合わせたことはあっただろう。自身の父が、形見を預かっておくほどに親しかった。
 しかし、火影である二代目や三代目に、族長でもなく大して名も知られていない、うちはの誰かでしかない父は、人柄を知るほどに里長と語らったことがあるのだろうか。
 娘の友人の名や顔どころか、存在すらも今日知ったばかりで、キンセが猿飛であること以外、何を知っているのか。
 身寄りもなく、出生も隠して生きてこなければならなかったコカゲの苦悩も、寂寞も、父は何も知らない。知ろうともせず、『うちはの名折れ』と蔑んだ。

「何も知らないのに、うちはの皆が言うから、うちはにとって分が悪いから……だから都合のいいように決めつけて、それが正しいと思いこんでいるのよ」

 今まで溜め込んでいた膿が、裂かれた心の傷口からどろりと流れ出していくように、トウリは続ける。
 どうせ父が猿飛を嫌うのは、うちはの皆が嫌うからだ。
 本当ならうちはが火影に選ばれるべきだった、猿飛はうちはから火影を奪った。
 そうやって自分たちの誇りを守ろうとしている、一部の大人に倣う以外に、父は自分の目で物事を見たことがあるのか。

「すべてを見切るうちはの眼を持っているのに、真実を見ることから逃げている」

 トウリの口は止まらない。
 自身を見下ろす父に、体中から掻き集めたありったけの憤怒を持って、射殺すほどに強く見上げた。

「父様は、うちはの名折れよ」

 側頭部に平手を一発。肩に蹴りを三つ。見せた背中は数えきれぬほど足で踏みつけられ、腹部を何度も蹴られた。
 さきほど食べた夕飯が胃から喉を通って飛び出し、消化途中の内容物が畳にぼたぼたと落ちる。胃液の酸が喉や口内を焼く。
 母が必死に父を止める声を聞き付け、祖父母が部屋に入り現状を見て、祖父は母の加勢に入る。祖母はげえげえと吐き続けるトウリの背をさすり声をかけ続けた。
 なんとか立ち上がり、祖母に付き添われながら奥の部屋へ。吐くものはもうないと言うのに、胃は嘔吐を促す。
 ようやく吐き気がおさまり、口をゆすいで、祖母に手伝ってもらいながら嘔吐物で汚れた服を着替えた。
 父の怒号はなんとか収まったようで、掛け時計の乱れぬ音だけが家の中で鳴り響いている。
 祖母が濡らした手拭いをトウリの頬に当てる。顔だけでなく、体のあちこちが痛い。
 母が部屋に入ってきて、祖母が止めるのも聞かずにトウリを連れ出す。抵抗もせずに引っ張られるまま続くと、真っ暗な玄関に着いた。

「トウリ。今すぐこちらへ行きなさい」

 差し出された紙には走り書きがされていた。暗がりですぐに読み取れなかったが、次第に慣れた目が、うちはでない名字と住所を捉える。

「ここへ行って、顔を治してもらいなさい。これを被ってね。うちはの皆に知られてはだめよ。何か訊かれたら、任務で怪我をしましたと言うの」

 半ば無理矢理に手の中に紙を押し込め握らせ、起毛した肩掛けを頭にかけた。
 靴を履かせ、玄関の引き戸を開けて、トウリの背を押して外へ出す。

「見つからないように気をつけるのよ」

 母はそう言ったあと、トウリを見送りもせずに慌ただしく玄関の戸を閉めた。
 まだ深くはないとはいえ夜は始まり、辺りはすっかり暗いのに、母は夜道を一人で歩かせる。トウリの身を案ずるのではなく、顔の腫れを見られぬことを気をつけろと言う。
 落胆。母に湧く感情は、怒りでも悲しみでもない。
 このままどこかへ行ってしまおうか。里でも抜けてしまおうか。
 自暴自棄で考えはするものの、あとのことを思うとできない。里抜けした忍は追い忍によって捕えられ、牢で残りの生を過ごすか、大半は殺される。さすがに殺されたくはなかった。
 このまま突っ立っていても、痛みは続くばかり。頬がどんどん腫れて、左目は開きづらくもなってきた。
 母の言いなりになるのは癪だが、渡された紙に書かれている人物を訪ねるべく、トウリは肩掛けを被り直して、重い体を引きずるように歩き出す。
 住所はうちは地区の外。名字は聞いたことがないが、治療をしてもらえということは医忍だろう。
 歩を進めるたびに腹が痛む。背を丸め、いつもの倍の時間をかけ、うちは地区の門を抜けた。
 この速度だと、目的地まで着くのにあと一時間ほどかかりそうだ。
 精神的にも疲労している中、一時間も歩き続けるのはつらい。しかし歩かねば着かない。
 夜とはいえ、里はまだ眠らない。帰宅なのか出勤なのか、任務中なのか呑みに向かうのか。様々な住人が行き交っている。
 トウリがさきほど父親から殴られたなど、この道を行く者は誰も知らない。
 そんなことは至極当然なのに、自分がこんなにもつらいことを、すれ違う誰も知らないことが、悲しくて仕方ない。
 すぐそばを誰かが通過するので、トウリは顔をより伏せた。しばらくすると遠ざかった足音が戻ってきて、トウリの前方を遮るように立つ。

「トウリ? トウリだよな?」

 声に驚いて顔を上げるとシスイが居た。シスイはトウリの顔を見ると息を呑みサッと顔色を変え、トウリの両肩を掴む。

「その顔どうした? 何があった? 誰にやられたんだ?」

 誰も気づいてくれなかったけれど、シスイは気づいてくれた。
 トウリの抑えこんでいた感情の蓋が一気に開いて、すべてが噴き出した。
 シスイに抱きつくと、恥も外聞も気にせず、声を上げて泣いた。胸元に縋って、わんわんと幼子のように号泣するトウリを、シスイはしっかり抱き留め、震える頭を撫でる。
 いくら悲しみが次から次に溢れても、体は正直なもので、疲れてくれば涙は止まる。

「トウリ。何があったんだ」

 少し落ち着いたのを見計らい、シスイは努めて優しく、改めてトウリに訊ねる。
 家でのことを思い出すと、また涙が零れそうになったが、堪えてシスイの胸から顔を上げた。

「父様が、キンセは猿飛だから、もう付き合うなって」
「おじさんが……?」

 シスイが確認を取ると、トウリは頷く。

「だから、そんなのいやだって、言ったの」
「そしたら、ぶたれたのか?」

 再びトウリが頭を縦に振ると、シスイは唇をぎゅっと結んだ。

「猿飛は、うちはをさしおいて火影になった一族だからって言うの。でも、キンセは私がうちはでも友達でいてくれた。九尾のことなんて私には関係ないから、友達だよって、言ってくれたのは、キンセだけだったのに……」

 九尾の出現により里が甚大な被害を受けたあと、友人たちはトウリを避けた。本人の意思にしろ親の言い付けにしろ、友人たちはトウリの言い分に耳を傾けず、トウリと目も合せなくなった。
 そんな中で、これまでと変わらず親しくしてくれるキンセの存在が、トウリにとってどんなに救いだったか。
 どれだけ涙を零しても、かけがえのない友人を、猿飛一族だからという理由だけで切れという父への怒りは収まる気がしない。

「キンセだけじゃない。火影様のことも、シスイのお祖父様のことも」
「オレの祖父さんのこと……?」

 シスイの反応にトウリは黙った。シスイの祖父に対する父の暴言を口にすることは憚られる。あんなひどいことを、トウリは絶対にシスイへ伝えたくなかった。

「そっか。トウリは、オレの祖父さんのことでも、怒ってくれたんだな」

 ゆっくりと、シスイがトウリの頭を撫でる。髪の乱れを整えるような手つきに誘われ、一粒だけ涙を落とした。

「どこへ行くつもりだったんだ?」
「……ここに。母様が、誰にも内緒で治してきなさいって」

 握っていた紙をシスイに見せると、その顔が険しくなった。

「父親が殴ったなんてうちはに知られないように、こっそりと、か」

 察しのいいシスイは、母の意向などすぐに読み取り、長い息を吐いた。
 母が懸念したのは、娘の具合より父の暴行をいかにして隠蔽できるか。悪い母ではないとずっと思っていたが、これまでと同じように見ることはもう無理だ。

「ついてきてくれ。悪いようにはしないから」

 トウリの手を取り握ったシスイが言う。
 シスイだけは信じられる。シスイだけは信じていい。
 手を握り返して応え、引くシスイの力に逆らうことなく、トウリは歩き出した。
 紙に書かれた住所とは別の方へ進んでいくシスイは一言も発しない。だからトウリも喋らず、黙々とついていった。
 辿り着いた先はよくあるアパート。二階に上がり、手前から三番目のドアの呼び鈴をシスイが鳴らす。
 間を置いて玄関ドアが開き、女性が顔を出した。歳は二十代半ばか。顔の造作が整った美しい女性は、シスイににっこり微笑む。

「あらあら。シスイちゃん」
「こんばんは。夜分遅くに申し訳ありませんが、折り入って頼みが」

 丁寧ながらも急いた様子のシスイに、女性は首を傾げた。

「頼み?」
「この子の怪我を治療して頂きたいんです」

 言いながら、シスイは握ったままの手を引いて、ドアの影に隠れていたトウリを女性の前に立たせた。

「あらあら、まあまあ」

 ほっそりした指先を唇に当て、女性が声を上げる。やわらかな調子だったが、驚きは隠せなかった。

「きれいに治してくれるっていったら、ここしか思いつかなくて」
「ええ。でも、怪我はお顔だけじゃないみたいね」

 女性が一歩進み出て、トウリの顔や体を一瞥する。顔以外を殴られ蹴られたのは事実だが、服の上からでも判別がつくことに、場違いではあるが感心した。

「私にできる範囲で治療するわね。シスイちゃんはしばらく外で待っててもらえる?」
「はい。よろしくお願いします。トウリ、この人は里の医忍で、オレが知る中で一番腕がいい。きっときれいに治してくれる」
「ふふ。シスイちゃんはお世辞が上手ね。さっ、上がってちょうだい」

 シスイの居ない場で、初対面の相手と二人きりという状況は不安だったが、女性の落ち着いた口調に恐れは感じず、トウリはシスイの手を放して一人で女性の部屋へ入った。
 通されたのは寝室。薄い紫色のカバーをかけた布団が敷かれたベッドのある部屋。端から端まで引いてあるカーテンは青い花柄で、どこか心の落ち着く印象を与える。

「はじめまして。早速だけど、服を脱いでもらってもいいかしら?」

 挨拶のあと、いきなり服を脱げと言われて戸惑うが、彼女が医療忍者で治療を頼んだ側としては拒否できないと、頭から肩掛けを剥いだあと服の裾に手をかける。
 下着だけの姿になると、見えた腹はところどころ赤く内出血していた。脱ぐ際に痛んだ背中も、トウリには見えないが似たような状態だろう。

「事情は聞かないわ。きっと言いたくないものね。でもいくつか質問させてちょうだい。何か飲まされたり、体に注入された覚えはある?」
「……いえ」
「そう。それじゃあ男の人に、ひどいことをされなかった? 殴られたり、蹴られた以外に」
「いいえ……。ぶたれて、あとは蹴られただけなので……」

 ことさら落ち着いた声音で続けて問うのは、性的暴行の有無。明らかに暴力を受けた自分の姿から疑いをかけるのは当然だが、そんなことは一切ないので否定した。

「そう。分かったわ。それじゃあベッドに横になって」

 女性の指示に従いベッドに手をつけるが、柔らかい布団であっても、体重がかかると背中の痛みが強くなり、仰向けになるのも一苦労だ。
 なんとか姿勢を整えると、女性の両手がトウリの上に伸び、ぼんやりと光をともす。温かな熱が腹の皮膚から奥へと注がれ、トウリの体は弛緩し、目を閉じた。
 しばらく経ち、次はうつ伏せにと言われ黙って従うと、さきほどと同じほのかな熱が背中に当たる。

「あの……見えるところだけでいいんです。夜も遅いですし」
「遠慮しないで。傷の治療は私の仕事だもの」

 腹や背中は服で隠れる。顔だけでいいと言ったが女性は微笑んで返し、背中の治療を終えるとトウリの体を起こし、ようやく頬の腫れの治療に取りかかった。
 砂が落ちていく時計のように、痛みは徐々に引いていく。女性が手を離した頃には、腫れた頬のつっぱりはもう感じられなかった。

「痛いところはない?」
「はい。大丈夫です」

 しっかり受け答えたトウリに、女性はにっこり笑い、服を着るように伝える。

「すみません。いきなりお邪魔して」
「あらあら。いいのよ。シスイちゃんの頼みだもの。それに、こんな傷だらけの女の子、放っておけないわ」

 雑に畳んでおいた服に手足を通しながら、突然の訪問と治療について詫びると、女性は穏やかな目をトウリに向ける。慈愛に満ちた瞳が、なぜだかつらい。
 肩掛けを手に持ち、今度は正しい使い方で体に纏うと、母が持たせた紙がひらひらと落ち、女性が拾う。

「本当はそこに、治療を受けに行くつもりだったんです」

 母から指定された住所に住むその人も、彼女と同じ医療忍者だと思う。そうでなければ、わざわざトウリを寄越さないだろう。
 住所と名字を見た女性の表情が少しだけ陰った。玄関を開けてから下がることがなかった口角が落ちる。

「そうなの、この人に。だからシスイちゃん、私の家に来たのね」
「え?」
「この人、男の人だもの。それに里の医忍だったけど、あまり素行がよくなくて、資格を剥奪されているの。事情があって周りに内緒で治療したい人は行くみたいだけど、あまり良い評判は聞かないわね」

 女性はそう言って、持ち主であるトウリに紙を渡す。
 トウリはうちは以外の忍とはあまり繋がりがないので、訪ね先が男性か否かなど分からなかったが、恐らく彼女の言うとおり、シスイは紙の名が男性で、その評判も分かっていたからこの部屋に連れてきた。
 では、この男性の下へ行けと言った母は、評判も含めて知っていたのか。
 医療者の性を差別するつもりはないが、年頃のトウリにとって、治療のためとはいえ見知らぬ男の家を一人で訪ね、服を脱ぐことは躊躇われる。
 娘の気持ちや心配より、父の暴力をいかに漏れなく隠蔽するか選んだと考えると、もはや母を慕う心は凍ってしまった。

「……治療費はおいくらですか? 手持ちがないので、後日お支払いさせてください」
「あらあら。任務でもないのにいただけないわ」
「え。でも……」
「貴女も私も里の忍でしょう? 傷ついた仲間をお金としか見られなくなったら、医忍失格だわ」

 金など貰えぬと当然のように笑む彼女に、我慢はしたがトウリの目の端から涙がこぼれていく。女性は「あらあら」と呑気な声でトウリの背に腕を回し、トントンとリズムよく叩く。
 素性も事情も明かさないのに、彼女は嫌な顔一つせずにトウリを治療してくれた。里に住まう仲間に、分け隔てなく接する彼女の公平さが、今のトウリには尊くて、どうしても涙を堪えられない。
 女性が再びトウリの顔に手を当てる。体温よりわずか高い熱が目元を覆うと、心の落ち着きと共に涙も止まった。
 気を取り直し、女性の部屋を出る。次いで部屋主も外へ出て、二人でアパートの階段を下りた。
 最後の一段から地へと足をつけた場所より見える電柱の下に、外灯に照らされるシスイが立っている。トウリたちが部屋から出たと分かると、小走りで駆け寄ってきた。

「自然治癒に任せられるところまでは治療したわ。痛みはまだ多少残るかもしれないけど、きれいに治るはずよ」
「よかった。ありがとうございました」

 女性の説明を聞き、シスイは深く頭を下げる。トウリも倣って彼女に深々と礼を取ると、「あらあら」と変わらぬ調子で二人に顔を上げるように言った。
 下げていた頭を戻し、シスイがトウリの手を握る。女性に挨拶をし、手を引いて女性のアパートを後にした。

「シスイ、ありがとう」

 最初の角を曲がったところで、トウリは前を向いたまま礼を言った。
 シスイはぴたりと歩みを止め、空いている手をトウリの頬に添える。もう腫れはないが、赤みまでは引いていない。それも翌朝には赤みも消えると女性は言った。

「トウリ……」

 名を呼んだのに、シスイはそれから口を閉じた。続ける言葉を探しあぐねているようで、黒い瞳は揺らげども、唇は動かない。
 治療をしてくれた女性の手も温かかったが、シスイのそれにはもっと温かさを覚えた。シスイの手に、自分の頬がすっぽり収まるのが気恥ずかしくもあり心地いい。
 互いに黙り、見つめ合うこと数分。

「……ありがとう。オレの祖父さんのことで、怒ってくれて」

 時間をかけて、微笑んでトウリに伝えたのは礼。トウリの方こそシスイには礼を尽くし、いくらでも詫びたい思いがある。
 頬からシスイの手が離れ、再び二人は家を目指して歩く。行きと違い、終始黙ることはなく、ぽつぽつと話をした。会えなかった時間を埋めるには足りなかったが、繋いだ手は空いていた隙間を余りあるほどに満たしてくれた。
 トウリの家に着くと、どちらともなく手はほどかれる。
 玄関の戸を引いて開けると、音に気づいた母が小走りでやってきた。何かしら声をかけようと開いた口は、トウリの後ろに立つシスイを目にすると、きゅっと引き結ばれる。

「し、シスイさん……」

 あきらかに動揺している母に、シスイは愛想のいい笑顔を見せる。

「任務帰りに偶然会って、夜も遅いし送りました」

 嘘ではない。シスイが任務帰りだったのも、偶然トウリと会ったのも本当だ。ただ、会ったのが治療を受ける前か後かを言わなかっただけ。

「そうですか。トウリがご面倒をかけまして……」

 その場で膝をつき、母はシスイに頭を下げる。

「いえ。では失礼します。トウリ、またな」
「うん……また」

 踵を返す直前に、シスイが指の背でトウリの頬に手を当て、一瞬だけ視線を後ろの母へ移した。
 トウリには見えなかったが、母はシスイの仕草をどう読んだだろうか。今は腫れが引いた頬に触れる意味を。
 家の敷地から出て行くシスイを見送って、トウリは玄関の戸を閉めた。履物を脱いで框に上がり、まっすぐに自室へ向かう。

「トウリ。明日必ず、父様に謝るんですよ」

 母の言い付けには答えなかった。
 謝罪をするならば、まずは父が先だ。どうせ父は、トウリの友人やシスイの祖父らへの暴言を謝らない。不機嫌を通していればトウリが謝り、また言うことを聞くとふんぞり返っているに違いない。
 もう父の言いなりにはならない。トウリは父のような“うちは”にはならない。高らかな宣言はなくとも、かたく誓った。



15 天仰ぐ椿に

20201027
(Privatter@20201019)


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