「兄さん、猫だよ」
「ああ。寝てるな」
まだ舌足らずなサスケが猫を指差し、兄のイタチが目を向ける。サスケは小さな歩幅で駆けて猫のそばへ立つと、かたつむりの殻のように丸まったその身をじいと見た。
人の行き交いが盛んな通りのざわめきをよそに、猫は微動だにせず眠り続ける。無遠慮な視線など慣れているのか、瞑った目を開けたり、尻尾を揺らすような様子もない。
「『きなこ』って名前なんだって」
サスケの隣に立ち、背を丸め視線を合わせたトウリが猫の名前を伝える。以前に店を訪ねた際、店主から教えられた名だ。
「きなこ? 猫なのに餅みたい。へんな名前」
トウリから名を聞いたサスケは変だと称した。あまりにもあっさりした物言いで、悪意がないことはトウリにもすぐに分かる。
「こらサスケ。人様が考えた名に文句をつけるんじゃない」
イタチが弟を静かに窘める。
四つのサスケは幼いゆえに、思ったことをそのまま口にしてしまう。分別のない発言はこの年頃の幼子には珍しくなく、トウリにも覚えがあった。子どもの言うことだからと見逃してもらうことが多かったが、父や母にひどく叱られたこともあった。
まだ許されるうちだからこそ年嵩の者が説いて教えてやらねばならず、イタチは十にも満たぬがその任をしっかり全うしている。
「サスケ、よく考えてみろ。『きなこ』なんて、大福屋の猫にとっちゃこれ以上ないほどピッタリな名前じゃないか」
トウリとは反対の位置に、シスイが膝を曲げてサスケの顔を覗き込む。
「でもきなこはかっこわるいよ」
「そうか? じゃあサスケはどんな名前がいいと思う?」
「うーん……『しゅりけん』」
「手裏剣かぁ。かっこいいけど、触ったら痛そうだな」
シスイの問いに、サスケは少し頭を巡らせ、サスケにとってかっこいいものの名前を提示した。
忍の子らしい発想にトウリはかわいいなと密かに笑みを浮かべ、シスイは顎に手をやってわずかに顔を顰める。
「でもかっこいいよ」
「でも触ると痛い猫はいやだろ?」
「いやだけど……」
「じゃあ『きなこ』はどうだ? いかにも柔らかくて、香ばしくて、うまそうじゃないか」
「シスイさん、猫を食べるの?」
「いや食べないけどな。まあいいや。中に入ろうぜ」
話があらぬ方向へ脱線したところで、シスイが切り上げ店の中へ足を踏み入れた。先を越されたのが癪だったのか、サスケは「ずるい」と言って後を追い、イタチとトウリが最後に続いた。
白い作務衣に袖を通した女性が「いらっしゃいませ」と四人を迎え入れる。外から見ると店の間口はそう広くはないが、店内は奥へと長く続いており、壁に沿わせた机には空きもあるほどゆとりがあった。
硝子が嵌め込まれた陳列棚に並ぶ、餡をはじめとした大福から各々選び、熱い茶と共に注文を終えると、四人掛けの席に腰を下ろす。トウリの隣はシスイだ。
「ねえ、まだ?」
「サスケ。行儀が悪いぞ」
座って早々、光沢のある机に丸い顎を乗せたサスケがぼやくと、隣のイタチが小さな背を叩き、背筋を伸ばせと促す。
サスケは顎を持ち上げたものの、待ちきれないとばかりに体をソワソワ動かし、机の端に立ててある厚みのある紙を手に取った。店内での飲食に限り注文できる品が連ねてあり、物によっては細やかな絵も添えられている。
簡単な文字なら読めるようになった弟が読み上げていくのを、イタチは目で追い、時折正していく。
「ぜんざいもあったのか」
「あ、うん。お店でしか食べられないみたいだけど。美味しそうだよね」
イタチの目がぜんざいの文字を認めたらしい。いつも穏やかに開いている目がわずか見張った。
以前にトウリが店を訪れた際、トウリも他の客が食べているぜんざいに気づき、美味しそうだと羨ましく思ったが、残念ながら席は埋まっていたため食べて帰ることはできなかった。
サスケが次々に品名を挙げていくが、イタチの黒い双眸は動かない。ぜんざいの文字から、想像を膨らませているようだとトウリには見えた。
「大福は持ち帰りにして、ぜんざいを頼む?」
「いや…………いい」
「あ……そう?」
食べたいのならと、トウリが申し出るがイタチは断った。しかし視線は動かないままで、サスケが『みつまめ』を『みっつめ』と読み上げても、気づいているのかいないのか、何の反応も見せない。
正直なところ、トウリも思い出した途端に、あのとき食べられなかったぜんざいを、という気持ちが強くなっていた。
イタチを口実に自分の分もついでに注文しようと、半ば我が身のために動いてみたものの、イタチに断られあっさり機を逃した。慣れぬ策を巡らせるべきではなかったなと、熱い茶をそっと口に含む。
「すみませーん」
手を上げ、シスイが店員を呼ぶ。手を止めた女性がこちらを向き返事をした。
「よもぎ大福ときなこ大福を持ち帰りにしてもらって、ぜんざいを二つ注文したいんですけど、いいですか?」
「ええ、構いませんよ。かしこまりました」
急な変更にもかかわらず、女性はにこやかに返事をして、奥の調理場へ「ぜんざい二つ」と声をかける。
シスイがイタチの気持ちを察し、よもぎ大福を持ち帰りにしたのはともかく、なぜ自分のきなこ大福まで持ち帰りにするのか。
トウリが驚いてシスイを見ていると、店員からこちらへと顔を移した流れで目が合い、途端にその長い睫毛の目尻が下がった。
「トウリの目が言ってたぞ。『私もぜんざい食べたいな』って」
「い、言ってないよ」
「そうかぁ? じゃあぜんざいはオレが食べるから、トウリはオレの大福を食べるか」
「えっ……」
考えていることを見通されたのが恥ずかしく、トウリは否定するが、ぜんざいを引っ込められるとなれば言葉に詰まる。
返事を迷うトウリにシスイは笑う。からかわれているのだと知ると、頬に熱が集まり、悔しくて顔を背けた。
「シスイさん、オレのは?」
「サスケはちっちゃいから、大福一つで腹いっぱいになるぞ」
「ならないよ!」
「サスケ。オレの分を少し分けてやるから」
机から身を乗り出そうとする弟を制し、イタチが「ここは『みっつめ』じゃなくて『みつまめ』だ」と指差して訂正する。ぜんざいに完全に気を取られていたと思っていたがちゃんと聞いてはいたのかと、トウリはイタチへ妙な感心をした。
品が届くまでの間、この後は手裏剣を打ちに行こうと、サスケが兄に元気よく提案し、少しだけなとイタチは静かに返した。動と静のような兄弟だが、顔立ちはよく似ている。
シスイやトウリも誘われたところで、皿に乗った大福二つと、ぜんざいの椀が二つ運ばれてきた。前者はサスケとシスイに、後者はイタチとトウリの前に置かれ、それぞれのタイミングで手を付ける。
椀の蓋を取ると、香りと共に湯気が立ち昇った。たちこめる小豆の甘い匂いにトウリの心も舌も躍る。
紫がかった赤褐色の汁の上に、焼かれた餅が二切れ。こんがりと焦がれた表面はぱりぱりと硬いが、熱で火照った餅はよく伸びそうだ。
木匙ですくうと、しっかり形が残った豆がこんもりと乗った。ふうふうと息を吹きかけ冷まし、口に入れて歯で押すとなめらかに潰れていく。単調な甘みではなく、塩で調整しているのか、しつこく舌に残ることはない。
「うまいか?」
「うん」
「よかったな」
シスイに問われてすぐに頷くと、嬉しそうに笑い返された。
なんだかんだと否定したくせに、結局ぜんざいを食べている自分をかっこ悪く思うが、ときめくような甘さを口にした今は、食べられてよかったという気持ちが勝り、匙を動かす手は止まらない。
焼かれた餅を歯で食むと伸び、ぷつんと切れる。もちもちとした食感と小豆を合わせると、何とも言えない多幸感に包まれた。
「ほら、サスケ」
向かいのイタチが、サスケの口元に木匙を寄越す。サスケは小さな口を精一杯開けて、兄の木匙の先端をぱくりとくわえた。
「どうだ?」
「あまいよ」
「ぜんざいだからな」
弟の素直な感想にイタチが微笑む。
自分の分もシスイにあげた方がいいだろうか、そもそもシスイが代わりに頼んでくれたものだから、とトウリもイタチに倣って木匙で小豆と餅をすくい、シスイの方へ差し出した。
「シスイ」
名を呼ばれたシスイがトウリの方を向くと、ぎょっと驚いた顔で匙を見る。
「いらない?」
食べる気はなかったか、と匙を引っ込めようと引くと、口を開けたシスイが匙にかぶりついた。揺れる匙の振動の大きさに今度はトウリが驚く。
餅もあったせいか、シスイは無言で咀嚼する。
ごくんと喉が動いて、餅や小豆がシスイの胃へと落とされた。
「……甘いな!」
「ぜんざいだもん」
ついさっき自分が兄に言われたことを、サスケはそっくりそのままシスイへ言う。
そのやりとりがおかしくてトウリが吹き出すと、イタチの口元も緩み、遅れてシスイも笑った。
サスケだけはなぜ三人が笑っているのか分からず、「兄さん!」と呼んで頬を膨らませる。自分が笑われたことだけは理解できたのだろう、その様子もトウリにはかわいくて、なお喉を鳴らして笑った。
一番先に食べ終わったのはシスイで、次に続いたのは意外にもサスケだ。小さな手で持った大福は、思いのほかすぐに腹へおさまった。ぺろりとたいらげる健啖な姿がまたかわいく映る。
イタチは年の割に落ち着きがあり、トウリよりも忍として優れているため、年下という意識はあまりない。
その弟のサスケはまだ四つということもあってか、体格はもちろん、言動に四歳らしい幼さが多々見られる。兄弟のいないトウリには、イタチではなくサスケに、いわゆる弟らしさを感じる。
「シスイさんとトウリさんはけっこんしてるの?」
食べ終えて暇になったのか、サスケが向かいに座る二人へ唐突に問う。
皆の手がぴたりと止まり、注目を集めたサスケは丸い瞳でシスイとトウリを見返した。
「サスケ。いきなり何を言うんだ」
「だって口に『はい』ってしたよ」
弟の脈絡のない発言に対し、まずイタチが答えた。サスケは二人へ、小さな貝のような爪の先を向け、先ほどのやりとりを指し示す。
幼い子どもの無垢な指摘に、トウリははたと気づいた。先ほど自分がシスイへどう振る舞ったか改めて考えると急に恥ずかしくなり、目線が落ちると共に顔も俯いていく。
「オレたちもやったじゃないか」
「オレと兄さんは兄弟だもん」
イタチの返答にサスケは間を置かず返す。
サスケにとってぜんざいを食べさせる行為は、兄弟であればおかしくはなく、兄弟でないシスイとトウリとは違うのだと言いたいようだった。
二人が結婚しているのかと問うた点も鑑みると、『家族』という形を成していないのに行ったことが、幼いサスケには不可解なのだろう。
「うちは一族の子どもなんて、みんな兄弟みたいなものさ。サスケだってオレにしてみれば手のかかる弟ってところだな」
「えー」
何と答えればと焦るトウリと違い、シスイは普段と変わらぬ調子でサスケを弟と称した。
不満なのか異を唱えたいのか、もしくはただの相槌なのか、サスケの甲高い声に糸を引かれたように、トウリは顔を上げ、隣のシスイを横目で見る。うまく全貌は捉えられなかったが、シスイは口角を上げていた。
「ちなみにイタチは、手はかからないけど放っておけない弟」
「じゃあトウリさんは?」
イタチも弟と見なすシスイにサスケが訊ねる。無垢ゆえに躊躇いなどまったくない、興味の向くままの純粋な黒目を見ながら、トウリはシスイがどう答えるのか恐ろしく、上下に唇をぴたりと合わせた。
「トウリもおんなじさ」
サスケやイタチについて触れたときと同様に、シスイの声は小川のように流暢に流れ、トウリのことも右に倣えがごとく『兄弟』と指した。
一族の子どもは皆兄弟。シスイの言にはトウリも違和感はなく、事実つい先ほどサスケを弟のように感じた。
シスイが自分を、妹や家族のように親しみを抱いていることに不満はない。友人よりもずっと近い位置に立っていると思えば嬉しさすらあり、喜びに嘘はない。
しかし、トウリの胸を妙に寂しげな風が通っていくほどの隙間を生んだだこともまた、嘘ではなかった。
大福屋を後にした四人は、川沿いの道を歩き、うちはの集落へ戻っていた。
サスケはイタチに取り付けた手裏剣の約束を何度も口にし、イタチはその度に「分かった」と返事を繰り返す。
伝う川の幅は広く、流れは穏やかだ。正確な深さまでは分からないが、底が見えないので渡るには泳がねばならないだろう。
その川を見ながら歩いていたシスイは、ふと思いついた。
「サスケ。水切りはやったことあるか?」
イタチと共に並び、自身の前を歩く小さな背に声をかけると、サスケは歩みを止めないまま後ろを振り返った。
「あるよ」
「へえ。どれくらい跳ねたんだ?」
「五段はねたよ!」
自分のものより一回りも二回りも小さい手が、すべての指を立ててシスイに突きつけられる。得意気な顔は、五段も跳ねた自分の腕に満足しているようだ。
「五段か。まあまだ子どもだしな」
腕を組んで頷くシスイに、サスケはムッとした表情で手を下ろし足を止めた。
先を行くサスケが止まったことで、続いていたシスイとトウリも歩を止め、皆に倣いイタチもその場に留まった。
「なに? シスイさんだってまだちゃんとした大人じゃないじゃない」
「でもオレは十段なんか余裕で越えるからなぁ。イタチもトウリも、十段くらいいけるよな?」
シスイが二人に確認を取る。
「ああ」
「余裕とはいかないけど……うん」
イタチは当然とばかりに、トウリは自信はないものの否定はしなかった。水切りは手裏剣を扱う忍にとって幼子の遊び。小石くらい御して扱える。
自分だけが兄たちのように石をうまく投げられていなかったことが悔しいのか、サスケは均された道から外れ、草の茂る斜面を踏みつけ、川岸へと下りる。
岸辺には大小さまざまな石が転がっており、サスケは足下の石を手に取っては睨みつけるかのごとく選り分け始めた。
「サスケ。手裏剣を打ちに行かなくていいのか?」
「まってて! 十段なんて、すぐだから!」
堂々と宣言をしたあと、サスケは選んだ石を持ち構え、腕を水平に振って川へと投げた。石は二段跳ねたあと音を立て沈んだ。
サスケの水切りはすぐには終わらなかった。
誇らしげに言ったとおり、五段まで跳ねることができ、うまく飛ばせば七段まで跳ねもした。
けれど七段から先へはどうしても続かない。イタチの助言を聞いて、投げ方や石の選び方を改めても、七段が限界だった。
それでもサスケは諦めなかった。忍である兄たちと、そうではない自分の差が明確に見えてしまったからだろうか。兄たちと並ばなければどうにも納得がいかないようで、黙々と川へ石を投げ続けている。
「彼女はシスイにとって妹なのか?」
「ん?」
シスイは元より、イタチのアドバイスにすら「分かってるから」と怒って返すようになったため、二人は土手の斜面に腰を下ろし、サスケから離れた位置で十段跳ねるそのときを待っていた。
サスケの傍にはトウリが一人ついており、よく跳ねやすい、薄くて平らな石を探してはサスケに手渡してやっている。
「さっき自分で言っていたろう。トウリは妹だと」
「妹とは言ってないだろ。『おんなじ』と言っただけだ」
大福屋でのやりとりを指しているのだと分かったシスイは、要約されたイタチの言に笑った。
あのときの言葉だけを切り取ればイタチの解釈は間違っていないが、シスイは決してトウリを『妹』とは称していない。
「妹みたいだと思ってたさ。そう思ってるって、思ってた」
川の水面は常に震え揺れ、日光を幾方向にも反射し、シスイの目に刺さる。
しかし特に反射も発光すらもしていない、ただサスケのために石を拾うトウリが、シスイには一番眩しく見えた。
「お前は最近どうだ? あの子と」
名は出さずに問うが、イタチはすぐに『あの子』が誰なのか気づき、弟に目を向けたまま「別に」と一言返す。
「会えば話す程度だ」
「会えば団子屋で腰を据えて、食べて飲んで話す程度かぁ」
体の後ろに手を置き、空を仰ぎ見るシスイに、イタチは黙り込んだ。
シスイが偶然二人を見かけた際、イタチと件の彼女は毛氈が敷かれた縁台に並んで座し、串を手に取り団子を食べていた。
恋仲という雰囲気には少し足らなかったが、イタチが彼女に対しそれなりに親しい感情を抱いているのは分かった。歳は離れているがイタチの親友と呼んで差支えない自分だからこそ、イタチのごくわずかな機微を察することができた。
「困るよなぁ。こういうときって、なんて言えばいいか分からないもんだ」
机を挟んだ向かいに座るサスケの無垢な問いに、シスイは答えに窮した。
夫婦なのかと問われれば否と返せるが、ではどんな関係なのかと具体的に問われると、トウリとの仲に名を付けることはできなかった。
自分がトウリをどう思っているか。それよりも、トウリが自分をどう見ているのか。それが分からぬことが怖いと、シスイは自分の心中に初めて気づいた。
「あの人だろう。シスイが前に言っていた、『女の子』は」
イタチが言うと、シスイは後ろ手をそのままに、見上げていた空から川へと目を戻して、サスケのために石を探すトウリの丸まった背を見た。
「うん。まあな」
一度だけイタチに打ち明けた、自分の青臭い思い。
トウリの父はよく言えば厳格な男だ。常に機嫌の悪そうな顔が幼い頃は恐ろしかったが、今となればあの父親は駄々を捏ねる赤子となんら変わりなく見える。
自分の思い通りに運ばぬ世を恨んで怒鳴って、一端を、あるいはすべてを、トウリに押し付け潰そうとする、そんな父親だ。
その父親のせいで、トウリは自身の考えをたやすく口にできなくなった。父親の論が正論という環境で育ってきたトウリには、父を否定する言動は決して許されない。
不自由なトウリをずっと見てきたシスイは、父の呪縛と共に生きるトウリが父親から解放され、自分の意思を躊躇いなく口にできるような未来に、繋いでやりたいと思っている。
「自分のことをそう思ってくれているなら嬉しいと、彼女は言っていた」
「そうか…………は? もしかして喋ったのか?」
「ああ。すまない」
「すまないってお前」
イタチにだけ告げた思いだったが、すでにトウリにも知られている。隠さねばならぬ誓いでもなかったが、本人が知るなど想定していなかった。
カッと頬に熱が集まり、シスイは両手で顔を覆う。
「はあ……。なあ、オレ、かっこ悪くないか?」
「分からない。その件に関する彼女の記憶を消した方がいいなら消すが」
「まさか。やめろ」
「冗談だ」
「……お前の冗談は笑えないな……」
年下だが、写輪眼の扱いがトウリよりも上手いイタチなら、トウリの記憶を消すことは無理な話ではない。
だが写輪眼は私意でむやみやたらに使うものではなく、一族や里を守るために開くべきと持論のあるシスイには、いくら自分が恥ずかしかろうとも、イタチに間違った写輪眼の使い方はしてほしくなかった。
知られてしまったことは、もう仕方がないことだ。覆水盆に返らず。トウリが気を悪くせず『嬉しい』と返した事実をただ受け止めるほかない。
「気持ち悪がられずに済んだだけマシか」
「そんなに気になるなら本人と一度話したらどうだ」
「やめとくよ。今はトウリのことは、考えたらだめなんだ。お前だってそうだろう?」
同意を求められたイタチは無言を返した。視線の先では弟が一所懸命に川へ腕を振るう。
シスイとイタチにはやらなければならないことが、両手の指の数よりもずっと多くある。
すぐ足下に転がる小石や、自分たちの先を阻む大きな山や谷のごとき様々な障害は、まだ成人もしていない子どもの肩に乗せるには過ぎる荷だ。思慕の念を抱くわずかな胸の内すらも、大願を果たすために明け渡さねばならない。
シスイたちが歩いていた道を、犬の綱を引く老夫婦が連れ添って進む。老夫婦の足取りはゆっくりしたもので、犬は二人をむやみに引っ張ることなく、調子を合わせて歩いている。平和で優しさに満ちた風景だ。
サスケの細い腕が、額の汗を拭う。トウリがハンカチを当てると、疲労もあったのか素直に身を任せた。同じうちは同士、髪の色はよく似ている。犬を連れた老夫婦からは、二人が姉弟に見えたかもしれない。
「イタチ。すべてが叶う前に、もしオレに何かあったら、トウリのことを頼む」
不意に告げられた頼みごとに、イタチはサスケからシスイへと目を移した。
「縁起でもないこと言うな」
声は少しの怒気を孕んでいる。顔を窺えば柳眉は吊り上がっており、普段からほとんど表情を変えぬイタチの尾を踏んだことをシスイは自覚した。
「分からないだろ。お互い」
上忍のシスイだけではなく、暗部のイタチもまた、死の危険が付き纏う暗がりへ身を投じている。
今日まで生きてこられたのは、きな臭さと血生臭さと死臭を嗅ぎ分け、命を刈り取る切っ先をすり抜けられただけであり、明日もうまくいくとは限らない。
アカデミー生でもないサスケよりも、警務部隊に転属したトウリよりも、シスイとイタチは忍として優れ、死を遠ざけられる力を持っている。
けれど同時に、大福屋の店員や、犬を連れて散歩する老夫婦よりも、闇に飛び込む自分たちはずっと命を落としやすい生き物にもなってしまった。
「うちはとか、父親とか、そういう縛るだけのものからトウリを解いてやってほしい。いっそうちは以外の男へ嫁ぐのがいいかもな。この前の件で余所の男になんかやれないと騒ぐだろうけど、お前が族長になってうまくやってくれ」
トウリが心の向くままに生きられるように。シスイが望むのはささやかな願いだというのに、手にするは難く、いつ叶うやも分からない。
しかし時代は刻一刻と移り変わる。いまだ成長の止まらない自分たちが隠居していく親より力を持てば、うちはは次代へ移ることを余儀なくされる。
現族長の息子。アカデミーを一年足らずで卒業した天才。暗部に入隊後は疑い疎む者もいるが、麒麟児とも誉めそやされたイタチならいずれ父の後を継ぐだろう。
ならば親友のよしみで、トウリの嫁ぐ先に口添えをしてほしい。うちはを囲む塀の外へ出してやってほしい。うちはと里の未来のために身を粉にして働いているのだから、最期の我儘くらい許してほしいと、シスイは笑った。
「それは本心か?」
「本心だ。屍には何もできない。死んだオレもあの父親みたいにトウリを縛るなんて、そんなのごめんだ」
イタチの問いに、シスイは嘘偽りなく答える。
動かない躯に何の価値があるだろうか。トウリの矛にも盾にもなれぬ者が、今度はうちはや父親に代わって彼女を縛るなど、シスイには堪えがたい。
トウリが自分の知らぬ男の妻になることは口惜しい。幼い頃から見守ってきた小さな女の子。自分の後を懸命に追ってくる、雛鳥や仔犬のような姿に、愛しさを覚えぬわけがない。
向けていた慈愛がいつしか恋情に変わってしまったのは、トウリが女でシスイが男である以上、自然な流れなのかもしれない。
だとしても変わらなければよかったと、シスイは悔いる。
妹のように可愛がっていられれば、自分の醜い感情に気づかずにも済んだ。トウリの隣に座して立つ男を、冷えた心で見なくとも済んだのにと。
「まあ、死ぬつもりはさらさらないけどな」
悲観や後悔を並べ立て、改まってイタチに頼んでみたが、シスイに死ぬ気はない。
イタチと共にこれからも肩を並べて前に進み、目指した先に揃って足をつけ、里とうちはを繋ぐ礎になる。
トウリにまとわりつく呪縛も払って、彼女が望むならうちはから出る助けを担ってもいい。できれば傍に居てほしい。
最近では起きていても抜け殻のような父も、閉ざされたあの場所ではなく、もっと拓けて光が届き、うちはに囲まれぬ地で療養すれば少しは変わるかもしれない。
今は母が一人で支えているが、信頼できる医者の下で父を療養させる時間を作れば、増えた白髪を黒へ戻すことは難しくとも、母の負担は減るだろう。
死ぬつもりは一切ない。ただ保険は備えておきたい。いざというときに、シスイが一番信頼しているイタチに託して、後悔はできる限り持たずに逝けるようにしておきたかっただけだ。
「――やったぁ!」
サスケの大きな声が響く。シスイがサスケを見ると、両手を上げその場で大きく跳躍した。トウリも手を叩き「やったね」と喜んでいる。
「兄さん! シスイさん! 十段はねたよ!」
「おお。すごいじゃないか。やるなぁサスケ」
振り向いたサスケの顔は喜色に満ちていた。頬は投げ続けたゆえに赤らみ、頬には汗が伝っている。肝心なその場面は見ていなかったが、ようやく十段跳ねたようだ。
サスケは「見ててよ!」と声をかけ、トウリから受け取った石を念入りに持ち構え、川へ投げた。トントンと刻むように石は跳ねたが、八段で止まる。サスケは声を上げて悔しがったが、すぐに石を持って構え腕を振るう。
「験の悪い話をしたくて、わざわざサスケを使って足止めしたのか」
弟の二回目の成功を見逃さないよう、視線はサスケに注がれたまま、イタチがシスイに問う。
「何のことだ?」
「とぼけるな。オレと二人で話すために、サスケに水切りを仕向けたんだろう」
思わぬ発言にシスイは苦笑した。
「話はいずれしたかったが、ただの偶然だ。まだアカデミーにも通ってないんだから、忍なんて関係ない、普通の遊びにもっと夢中になったっていいだろう」
サスケに水切りの話を振ったのは、イタチが言うような意図があったからではない。
ただ単純に、サスケの石はどれくらい跳ねるか興味が湧いただけだったが、結果的に自分が死んだらなどという不吉な話をしてしまったため、イタチはまだ信じきれていないようだ。
「サスケの世代は無理かもしれないが、サスケの子どもや、その子どもたちや……いつになるか見当もつかないけど。それでもいつか子どもが、クナイを持って人の首を切ることなんてなくなる時代がくる。そのときに、手裏剣を打つことしか教えてやれない親父なんて、かっこ悪いだろ」
再び十段跳ねるまで、サスケは何度も何度も石を投げる。川の底は昨日よりも随分とたくさんの小石を飲みこんだだろう。
だとしても水位は変わらない。小さな手足や石では、大河を変えることは容易ではない。
自分が命を懸けて動いていることも同じかもしれないと、やや感傷的な気分になる。死後の話をしたせいか。
「かっこ悪いとかいいとか、そういう問題か?」
「そりゃそうさ。かっこ悪いなんて、かっこ悪いだろ?」
言葉と意味を重ねただけのシスイに、イタチは理解しかねると口を横に引いた。からかったつもりはなかったが、イタチはそう受け取ったかもしれない。
尚も何か言われるか――それより前に、サスケの石が跳ねた。十段を越え、十一段まで跳ね、スッと沈む。
「やったぁ! 兄さん、みてた!?」
兄の方へ勢いよく振り返るサスケの顔は、真っ赤で汗にまみれ疲労しきっていたが、表情や黒い目はきらきらと輝いていた。
「ああ。十一段跳ねたな」
ちゃんと見ていたと返すと、サスケは大きく頷き、その場に座り込んだ。投げ続けていたせいで腕にはもう力が入らないのか、だらんと伸ばされている。
イタチと共に斜面から腰を上げ、サスケたちの下へ向かう。トウリがハンカチで汗を拭ってやるが、ここまで汗だくならば、いっそ川に入って流した方が早そうだ。
「サスケ、かっこいいなぁお前」
「へへっ。まあね!」
シスイは本心から褒め、照れつつも素直に誇るサスケの頭をガシガシと撫でる。諦めることなく投げ続け、ついには目標の十段すらも越えた。その達成感は、今後くじけそうなときにサスケの支えになるだろう。
くたびれたサスケを兄が背負い、再び帰路を辿る。背負う前にシスイが代わると申し出たがイタチは断った。弟の世話は兄の務め。そう言いたげで、責任感の強さとそれより勝る弟への愛情に微笑ましい感情が湧く。
しばらく歩いていると、疲れか心地よい揺れにか、サスケは眠った。手裏剣を打つ約束は流れてしまったが、イタチがあとでうまくフォローしてくれることに期待する。
「すごいなぁ。私が十段を越えたの、アカデミーに入ってからなのに」
兄の背に身を預けるサスケを後ろから眺め、その上達ぶりにトウリが感心する。
トウリに水切りを教えたのはシスイだ。教えたばかりの頃はサスケと同じく五段までしか跳ねず、難しいと肩を落としていたのに、シスイが知らぬ間に十段を越えるようになっていた。
ずっと見ていたつもりでも、一足先に下忍になり、中忍、上忍、部隊すらも違うほど離れてしまった今は、トウリのすべてを知ることはできない。
掻き毟られるような焦燥。トウリの自由を願っているのに、手を掴んで縛ろうとする矮小な自分に気づき、かっこ悪さに情けなくなる。
しかしそれすらも無視して成すべき先に、シスイの両の目は向かなければならない。
いつかうちはと里が真から共存できる日に。トウリの心が自由になれる日に。それまでシスイは、前を向き続けるのだと改めて誓った。