最果てまでワルツ | ナノ
話題のイラストメタバース
バチャスペ
- ナノ -



 クシナ先生のお腹は順調に大きくなっていき、料理をするためキッチンに長く立つことも難しくなってきた。

「腰が痛くなるのもそうなんだけど、お腹がここに、つっかえるのよね」

 トントンと、キッチンの天板の端を叩くクシナ先生は、その丸みのある角に恨みがましい目を向けている。普段だったら問題ない動きも、お腹がポンと前に出ていると苦しいようだ。そうでなくとも、立っているだけで腰に負担がくるようで、ソファーに座ってじっと堪えている姿をよく観る様になった。

「キッチンにはわたしが立ちますよ」

 もうすぐ昼食の時間だ。医師から体重管理をきっちりするようにと言われて、クシナ先生はなるべく自炊してカロリー計算をしている。妊娠中は舌の好みが随分目まぐるしく変わるようで、ついこの間まで甘いアイスクリームばかり食べたがっていたのに、今は激辛煎餅が食べたくて仕方ないらしい。しかもうちは煎餅で売っている物限定なので、これまでに頼まれて三度ほど買いに向かった。

「だめよ。全部サホに任せるのは悪いわ」
「でも、つらいんですよね?」

 先生は言葉を詰まらせた。つらくないとは言い返せないのは、クシナ先生を見ていれば分かる。重いお腹に手を添えるのも、中で育つ我が子への愛しさからくるのもあるだろうけれど、単に動く際にそうした方が楽だからだろう。日々体調が違っていて、元気な日もあれば、ベッドで横になっていないと苦しそうな日もある。

「わたしも任務が続いたらお手伝いに来られませんし、わたしが居るときくらい、ゆっくりしてくださいよ」

 今日のように一日休みであれば、クシナ先生をゆっくり休ませることができる。でも、その休み自体、定期的に取れるわけじゃない。任務の内容次第では一週間かかるときもあれば、一ヶ月、二ヶ月と里を離れることだってある。
 わたしが居ないときは夫であるミナト先生が家事を行うけれど、火影であるが故に忙しく、帰りが遅い日も多々ある。その場合、クシナ先生はあれもこれも、重いお腹を抱えて一人でこなさなければならない。ナギサからは「出産のとき体力が必要なんだから、あまり手を貸し過ぎるな」と釘を刺されているけれど、肝心の出産前に倒れてしまったら大変だ。

「他にもあったら遠慮なく言ってください。お忙しいミナト先生の分を、わたしが務めますから」

 妊娠中のつらさは代わってあげられない。重いお腹を抱えることも、悪阻の気持ち悪さを消すこともできない。だったらわたしにできること――料理、洗濯、掃除、買い出しを代わりたい。そうやってしか先生を支えられない。
 先生はわたしの頑なさに根負けしたのか、あるいはやはり体調のことも考えてか、わたしが居る間はわたしが主に動くことで話が落ち着いた。
 昼食の準備が始まり、わたしはシンクで野菜を洗ったり、コンロの前に立って具材を炒めたり煮る。その間、クシナ先生は椅子に座ってできる、野菜の皮むきなどを行い、作業効率は高まって結果的に調理もすぐに終わった。

「そうだ。サホに見せたいものがあるの」

 言って、クシナ先生は読みかけだった本を閉じた。昼食が済み、洗い終えた調理器具や皿を清潔な布巾で拭いていたわたしを呼び、上階へと誘う。
 階段を上がり、部屋を抜けて、掃き出し窓から広いベランダへと出た。中央には午前中に干した洗濯物が揺れ、手すりに沿うようにいくつかの鉢が並ぶ、普段と変わりない景色。
 先生がベランダの床を踏むたび、乾いたきしむ音が鳴る。晴れた空を仰いで、ぐるりと頭を後ろに向ければ、そこにはクシナ先生の護衛についている、外套を頭から被ったカカシが座っていた。一度だけクシナ先生の姿を認めたあとは、また周辺に顔を向け、怪しい者や動きはないかと警戒している。

「サホ、こっちこっち」

 先生が青い鉢の前でわたしを手招きするので、もうほとんど乾いてはためいている洗濯物の間を縫って歩いた。

「何ですか?」
「ここまで無事に育ったから、もう大丈夫かなと思ってね」

 指差す先には、青い鉢の土の中から、植物の若い茎や葉が伸びていた。明るい緑色は、さんさんと降り注ぐ日差しを浴びる葉は、細い先がツンと上に向いて、ピンと張りがある。

「これは何が咲くんですか?」
「ふふっ。ねえ、サホ。私が渦の国の、渦潮隠れの里の出身だって知ってるわよね?」
「え? ええ、はい。国も里も、今はもう……」
「うん、そう。もうなくなっちゃったんだけど」

 突然、クシナ先生の産まれ育った地のことを問われ、わたしは自分が持っている情報を濁しながら伝えると、先生の口からはっきりと言葉が返ってきた。

「この花はね『海』に『花』で、『海花[わたつはな]』といって、名前に海がつく通り、渦の国じゃそう珍しい花じゃないんだけど……知ってる?」
「いいえ、初めて聞きました」

 アカデミーで学んでいたため、植物や花の知識は、忍にとって必要な分は備わっている。薬になるもの、毒になるもの、食べられるもの、そうでないものと、生き残るために覚えておかなくてはいけないからだ。
 それ以外でも、女子ということで生け花などの授業もありはした。ただ、花屋で売られていたり、生け花でよく使う定番の花くらいしか名前が出なかった。何せアカデミー時代は戦時中で、花の名前より忍具の名前や術を頭に叩き込むことが多かった。

「海花は、海に囲まれた渦の国の象徴みたいなもので、芽を出すには海水か、塩分を含んだ水が必要なの」
「海水ですか?」
「そうなの。いくら真水をかけても、海水や塩水じゃないと発芽しないってばね」

 わたしが知る限り、植物には水が必要で、それは恐らく塩を含まない真水だ。なのに海水などの塩水でなければ発芽しないなんて。自分に置き換え、塩水を飲むことを考えると、なんだか妙に喉が乾いてきた。

「でも、塩水がかかるまでは、どんな環境でも身を固くして芽を出すときを待っていてね。長いと五十年くらい放っておいても、ちゃんと咲くのよ」
「そんなに? すごく丈夫なんですね」

 種も生きていると聞いたことがあって、その寿命は長くても数年と聞く。それ以上経つと、どれだけ良い土壌や環境を用意しても、種自体が死んでいるので芽を出すこともないと。
 それが五十年。犬や猫よりも長生きだ。

「発芽するときだけじゃなくて、花をつけるまで、定期的に塩水をあげなきゃいけないのよ。でも、あげすぎてもだめでね。それでちょっと手がかかるんだけど、本当に綺麗な花が咲くのよ」

 説明されるほどに、目の前の若い葉や茎の見方が変わってくる。見た目は他の植物とほとんど変わらないのに、塩水が必要だったり種が五十年も生きたり、なかなか面白い花だ。

「私たちは『コイヤブレ』って呼んでたの」
「コイヤブレ?」
「恋に破れた乙女が落とした涙で咲くから、って」

 クシナ先生は、目の下を指でなぞって泣く真似をしながら、その指の先を海花へ――『コイヤブレ』へと落とす仕草を見せた。

「花が咲いたとき、乙女の心は救われると言われていてね。だから女の子はみんな、失恋するとこっそり種を植えて育てる風習があったわ」
「へえ……切ないですけど、ロマンチックですね」
「まあ、要するに花をつけるまで夢中で世話をさせて、失恋したショックを少しでも忘れさせるための後付けみたいなものだってばね」

 なかなか趣ある風習だなと言うと、先生はあっさりとそう返した。なるほど。それはそれで理に適っているような気もする。頭の中を占めている感情も、任務の最中は他所へ置く。そのときだけは、感情から離れられて楽になる。

「今は手をかける時間があるし、ちょうど種も持っていたからね。育ててみようと思って」

 その葉を、クシナ先生の白い指がそっと撫でる。ミナト先生が四代目に就任すると決まってから、クシナ先生は任務に出ていない。事実上、引退している。クナイを握ることも、敵に向かって印を結ぶこともなくなったけれど、その指の背には小さな傷がある。
 その手を休める時間ができた。良いことだと、素直に思う。戦争が終わり、火影の妻という夢も叶って、お腹には赤ちゃんが宿った。クシナ先生は今、とても幸せな日々を得ている。

――羨ましい。

 先生の幸せそうな横顔が見られて嬉しいと思うわたしが居ると同時に、浅ましいわたしも居た。
 比べてはいけない。他人と自分の幸せは、不幸は、重ねてはいけない。照らし合わせてはいけない。
 わたしはわたしで、クシナ先生はクシナ先生。どれだけ比べても、変わることなんてない。
 それでも、少しだけ泣きたくなったから、先生に分からないように顔を伏せた。鉢の中を覗いて、いかにも目の前の花に興味がありますよと。
 わたしは本当に、昔から変わらない。オビトと同じ班に居たリンを羨ましがっていた頃と何も。弱い、小さい、妬み嫉み癖が抜けない。

「種ができたら、サホにあげてもいいかしら?」
「えっ?」

 弾かれたように顔を上げると、わたしを見る穏やかな目が、少しだけゆるく細められた。

「この花にはね、花言葉が二つあるの。蕾は『恋の終わり』。満開になると『あなたに会えてよかった』」

 コイヤブレは、花が咲くどころか、まだ蕾すらついていない。伸びきって、やっと花をつけるには、どれくらい時間がかかるだろう。どんな色をして、どんな形で、どんな香りで、どんな種をつけるのだろうか。

「いつかサホの心が、全てを受け入れられるようになったら、育ててみて」

 優しく言われては、頷く以外の返しができなかった。
 全てを受け入れられるとき。わたしもいつかそんな日が来てほしいとは願っているけれど、今はまったく想像できない。そんなの無理だと突っぱねて、何が何でも拒みたくなる。そっとしておいて欲しい。揺り動かさないでと。
――だからこうやって、きっかけや口実を作らせるのだろう。恋に破れた少女に種を与え、花を咲かせることで一区切りをつけさせる。花が咲いたならあなたの心は救われたのよと、不確かな根拠を与えて、背中を押してあげる。
 この花が咲いて種をつける頃には、先生のお腹の子はもう産まれているかな。お腹の子が産まれる方が早いかもしれない。
 家の屋根に目を向ければ、魔除けの置物のように微動だにしないカカシが、この家だけでなく、里中を見張るように鎮座している。
 カカシの目には、平和な毎日が続く今の里はどう見えるだろう。色違いの目で見る景色は、夜の双眸の頃とは違うだろうか。あの頃のわたしたちが、同じものを同じように見ていたかすらも分からない。
 けれど恐らく、今のわたしとカカシには、同じものが見えている。オビトとリンのいない、空っぽの里が。



 日帰りの任務から里に戻ったわたしは、報告を済ませたあと、真っ直ぐにクシナ先生の家へと向かった。
 任務は木ノ葉から見て西にある町に書類一式を届けるもので、年上の女性とのツーマンセルだった。問題らしいことは何一つ起きず、無事に書類を届け終わったあと、女性の了解を得てある店に入った。安産に効くと評判のお茶を販売していると、事前に中忍仲間から教えられていた店で、いつか近くに寄ることがあれば買って帰りたいと考えていた。
 口に合うか分からないしと、一箱だけ購入して、里への帰路を急いだ。報告書を提出し、そのままクシナ先生の家へ向かったのは、明日も朝から任務が入っていたからだ。こういうものはできるだけ早く渡したい。もう夜も近い夕方だけど、渡すだけならそうお邪魔にならないだろう。
 見慣れた玄関ドアの前に立ち、呼び鈴を一度鳴らす。ドアの向こうから応答する声がして、戸が開くと、明るい光を背に、赤い髪を一つにまとめたクシナ先生が顔を出した。

「あら、サホ」
「こんばんは」
「こんばんは。こんな時間にどうしたってばね? 今日は任務だったんでしょ?」

 エプロン姿の先生は、パチパチと瞬きを繰り返し、額当てをつけて木ノ葉のベストを羽織っているわたしの姿から、自分の記憶に違いはなかったはずだと不思議そうな表情を見せつつ、玄関のドアを大きく開く。暗かった玄関ポーチは照らされ、ドア近くに身を置いている傘立てのシルエットに色が付いた。

「任務は終わって、先ほど里に戻ってきました。それで、これをお渡ししたくって」

 ポーチから紙袋を取り出し先生に見せると、受け取って「何かしら」と中を覗いた。カサカサと紙の擦れる音がして、先生がその中へ手を入れる。

「安産に効くお茶です」
「ああ! これ、知ってるってばね。ミコトたちとも飲んでみたいって話してたのよね。木ノ葉ではすぐに売り切れるみたいで、かといって売っている町まではちょっと距離があるし」

 茶葉が詰められている小箱に印字されている文字を見て、クシナ先生は嬉しそうな声を上げてくれた。やはりこのお茶は妊婦にとっては知らない者はいないくらい有名らしい。

「わざわざ任務帰りに届けて来てくれたの?」
「わたし、明日も任務ですから。先生のお口に合うようでしたら、また買ってきますよ」

 喜ぶ先生の顔を見られただけで、買ってよかったと心から思う。安産に効果があるかどうかは、産むときにならないと分からないだろうけれど、このお茶で少しでも安心して出産に挑めるのなら、また町に行って買ってくることも苦ではない。

「おおいクシナ。鍋が煮えたぎっておるぞ」

 家の奥から、男の人の低い声が飛んできた。ミナト先生ではない。初めて聞く声だ。
 クシナ先生はその声が聞こえた途端、慌てて後ろを向いて、

「ああ、はい、今行きます!」

と声の主に答えつつ、まるでわたしを隠すように前に立った。廊下を歩く音がして、誰かが玄関に向かって来ているのは分かった。ただ、先生という壁で視界は大きく遮られて――いるにも関わらず、細い体の壁からはみ出すほどに、その人の髪は四方に跳ねている。空に浮かぶ雲に似た、突き抜けるような白を携えているのは、見上げるほどの大柄の男性。

「なんだ。客は女子[おなご]か?」
「ええ、ええ。でももう用事は済みましたから。ね、ね、サホ。ね?」

 それなりに身長のあるクシナ先生よりも、頭一つ分以上高い男性が、先生の背に隠れたわたしを覗き込むように見て、女子だと認める。クシナ先生は、もはや存在が分かっているにも関わらず、男性の目からわたしを隠し続けるのをやめることなく、わたしに『もう帰るわよね』と、存外にもう帰りなさいと促している。

「そうすぐに追い返す必要もなかろう。お主、名はサホというのか。よいのう、美人に多い名だ」

 わたしと目線が合うようにと男性は背を丸める。鋭い目の下には、赤い涙を流したように一本の線が両目から垂れている。戦化粧か何かだろうか。

「ジライヤ先生ってば、私にも、ミコトにも、みーんなにそう仰いましたよね」
「クシナ、美人にはいくつも種類があるものよ。明るい美人、儚げな美人、キツめの美人、うなじ美人、もち肌美人……。まあワシは豊満な美人が一番好みだがのォ!」
「先生の好みは知りません! というか、年頃の女の子の前でそんな話しないでください!」

 男性は快活に笑い、クシナ先生は叱りつけるように厳しく言い返した。太い声は家中に響き渡るかと思うほどに大きく、わたしの耳と言わず、体まで震わせるような力強さがあった。

「任務帰りだったか? それは疲れたろう。さっ、飯でも食っていくがいい」

 そんな大きな体でよくそんなに素早く動けるものだ、と感心してしまうくらい、男性は決して広くない入り口の隙間を通り、わたしの背を押して廊下を進む。壁となってわたしの前に立っていたクシナ先生ごと押していくので、前方からは「ちょっと、ジライヤ先生!」と声が上がる。
 ついには先生宅のリビングの前までついて、ポンと体を触れられただけなのに、わたしは廊下から部屋の中へとよろめきながら入ってしまった。土足だと気づき、慌ててサンダルを脱いで抱えると、困ったように微笑んでいるミナト先生と目が合った。

「サホ、こんばんは」
「こ、こんばんは……。あの、ミナトせん――四代目様」
「『先生』で構わないよ。公式な場でもないからね」

 昔と変わらない朗らかな笑顔で、呼び直すわたしを先生はやんわりと制した。額当てを外し、火影の字も背負っていない今は、ミナト先生もその重圧や緊張から解かれて、ゆっくり息をつける時間なのだろう。

「ミナト先生。その、すみません、お客様がいらっしゃってるのに、お邪魔してしまって……」
「いいんだよ。ジライヤ先生がサホを引き留めたんだから。むしろ戻ってきて疲れているのに、付き合わせることになってこっちが悪いというか……」
「おいミナト! お前の師がお前の妻に説教されておるのに、なぜ止めに来ない!」
「えっ!? いやぁ……あははは……」

 背後から太い声が響き、抱えていたサンダルを床に落としてしまった。慌てて拾うと、横から白い手がそれを取る。クシナ先生の手だ。

「もう! ジライヤ先生ってば! サホ。サホがいいなら、ご飯を食べていってちょうだい」
「でも……」
「ちょっと作りすぎたから、食べきれるか心配だったの。手伝ってくれると嬉しいってばね」

 クシナ先生はわたしをよく分かっている。そんな言い方をされたら、ここで拒んで帰るなんてできるはずがない。クシナ先生がわたしのサンダルを持って玄関に行き、ミナト先生がダイニングテーブルの空いている椅子に案内してくれて、彩り豊かで品数の多い豪華な食卓についた。



 『ジライヤ先生』と呼ばれていた男性は、あの『自来也様』だった。三代目様の弟子でもあり、伝説の三忍であり、ミナト先生の師匠でもあると、そういう話だけは知っていた。一介の中忍でしかないわたしにとっては雲の上の人だから、きっと会うことなど一生ないと思っていただけに、こうして同じテーブルにつき共に食事をすることになって、いまいち現実感がなかった。

「そうか。サホはクシナから封印術を習っておるのか」

 食事を終えて、そのまま食後のお茶へと移った。クシナ先生がわたしと自来也様、ミナト先生へ先にお茶を出したあと、次はわたしが渡したばかりのお茶を淹れている。重いお腹を抱えているからわたしが、とお茶の準備を申し出たけれど、先生は「今日はお客様だってばね」と座っているように言われ、お客様扱いされて少し落ち着かない気分だ。
 ジワリと熱い湯飲み茶碗を両手で持ち、お茶を少し口に含んで喉を通していると、自来也様はクシナ先生がわたしの上忍師だったこと、そのときから封印術を習っていることを改めて口にした。

「はい。扱える術も少ないですし、精度も低いので、まだまだですけれど……」
「クシナはうずまき一族だからのう。教わり甲斐もあるだろうが、どれ、ワシも一つ教えてやろう」

 自来也様はそう言うと、空いている両手で何度も宙を掴むような仕草を繰り返した。吊っている鋭い目は眉と共に目尻が下がり、クシナ先生から厳しい声が飛んできた。

「自来也先生、サホはわたしの弟子ですから、ろくでもない術は教えて頂かなくて結構です」
「このワシが教える術がろくでもないだとォ!」
「その手つきがすでにいやらしいんですよ!」

 ばっさりと言い返すクシナ先生に、自来也様はぐうの音も出ないとばかりに口を結び、ミナト先生へと顔を向け、

「お前の妻は手厳しい」

と恨みがましく訴えると、ミナト先生は、

「妹みたいに可愛がっているんですよ」

と、師匠相手にはそう言って苦笑いを添えるのが精一杯のようだ。
 クシナ先生は、リビングのソファーに移った自来也様とわたしの傍で、先生曰く『ろくでもない術』を教えないようにと目を光らせ、居心地の悪さを覚えながらも、自来也様は至って真面目に、封印術や結界術について教えてくださった。
 雲の上の人はやはり雲の上の人だったと感心するほど、自来也様が扱われる術は高度なものが多かった。資料の類で読んだことのある術だけではなく、わたしが知り得ない術の名も出てきて、あとで資料室で調べ直してみようとメモを取るのに忙しかったくらいだ。

「ところでサホ。お主、時間は大丈夫なのか? もう夜も大分更けてしまったぞ」
「え? あ……もうこんな時間!」

 自来也様に言われて、メモから顔を上げてリビングにかけられている時計を見ると、短い針は10の数字を指している。

「すみません、長居するつもりはなかったんですが」
「いいのよ、引き留めたのはこちらだもの」

 メモを閉じ、慌ててソファーから腰を上げると、クシナ先生は気にしないでと優しく声をかけてくださった。

「自来也様、色々お話しして頂き、ありがとうございました。とても勉強になりました」
「なあに、これくらい。今度はクシナの目の届かぬところで、もっとゆっくり教えてやろうのォ」
「自来也先生!」
「冗談だ冗談! ワシとて、まだ熟れておらぬ青い実を摘むは愚行と心得ておるわい」
「青かろうが何だろうが、サホに手を出すのはやめてほしいってばね!」

 もう何度目かになる、クシナ先生に怒られている自来也様を置き去りにし、わたしはミナト先生に見送られる形で玄関ドアの前まで歩いた。

「遅くまでお邪魔してしまって……」
「いいんだよ。自来也先生も、久しぶりに『先生』をやれて楽しそうだった。明日も任務だっていうのに、悪かったね」
「気にしないでください。自来也様のお話、とても興味深かったです」
「いい先生なんだよ。ちょっと、困ったところもあるけれどね」

 ミナト先生は金色の髪を掻きながら、少し引きつった笑顔で言う。師匠と弟子という長い付き合いには、簡単には語り尽くせない歴史があるのだろう。わたしがそれを聞きたいと申し出たら、いささか話すのに抵抗があるような歴史が。自来也様と話した時間は長いようで短かったけれど、なんとなくその人となりも掴めた今はそう思える。

「オレが家まで送ろうか?」
「そんな、そこまでご迷惑はかけられません」

 『木ノ葉の黄色い閃光』の名を広めた飛雷針の術であれば、わたしの自宅ではなくとも、その近くまで一瞬で飛べて、家に着くのもそう時間はかからない。だけどそれはもちろんチャクラを使う。せっかく家で休んでいるのに、手間をおかけするのは申し訳ない。
 それよりも、リビングから聞こえる大声でのやりとりが、気になって仕方ない。クシナ先生に圧されている自来也様が、見えなくても目に浮かんでくる。

「それに、自来也様、そろそろ助けてあげないと」
「……そうだね。いつもクシナのこと、ありがとう。気を付けてね」
「はい。お邪魔しました」

 一礼したあと、玄関のドアをゆっくり閉めて、家の前から離れた。うっすらではあるけれど、いまだにクシナ先生と自来也様の声が聞こえてくる。賑やかな家がだんだん遠くなり、辺りは次第に静かになっていった。
 歩く道には最低限の街灯がポツポツと続き、並ぶ家の明かりも少ない。里のほとんどが眠りにつく道を一人歩くのは、少し恐ろしい気もした。それは誰かに襲われるだとかではなく、どちらかというと幽霊の類への恐怖だ。わたしとて忍の端くれなので、生きている人間で、しかも一般人ならさほど怖くない。でも幽霊などはどうしていいか分からないから怖いのだ。
 早く帰ろう。歩く足を進めて行けば、一瞬だけど、近くに気配を感じた。本当に一瞬。だけど、誰かがわたしの近くに居る。
 足を止め、気配が感じた方へとそっと顔を向けると、民家の屋根の上に立つ姿が見えた。

「ひっ……!」

 幽霊か――と思ってすぐ、それが見慣れた姿だと気づいた。頭から被った黒い外套、顔を覆う白い面。

「カカシ……? どうして?」

 なぜカカシがここに。カカシは妊婦であるクシナ先生の護衛として、先生の居るあの家に張りついているはずだ。
 カカシとわたしはしばらく見つめ合い――あっちは顔が見えないのでわたしを見ているかは定かではなかったけれど――先に動いたのはカカシの方だった。
 民家から軽く跳んで、カカシは小さな音だけ立ててわたしの前に立った。面の顔が、近くの街灯に照らされて模様が分かるくらいには距離が近い。

「……クシナ先生の護衛でしょ。どうしてここに居るの?」

 自分の任務はどうしたのかと問えば、カカシからは、

「ミナト先生に言われた。『サホを家まで送ってくれ』って」

とすぐに答えが返ってきた。
 カカシの言うことが本当なら、ミナト先生がわたしを心配してくれてカカシに命じたのだろう。本来の護衛対象のクシナ先生にはミナト先生がついているし、今はあの自来也様も居る。わたしを家まで送って戻るくらいの時間なら、カカシが傍に付かなくても問題はなさそうだ。
 理由が分かって納得したけれど、じゃあカカシは、わたしの家まで付いてくるのか。この、いかにも怪しげな出で立ちのまま。

「オレは離れてついていくから、サホは気にせず帰っていいよ」

 わたしの心を読んだのか、カカシは一言告げると、街灯の明かりから逃げるように、スッと身を引いて闇に溶けていった。気配は完全には消えず、薄くなった程度に留まっている。
 気にせず帰れと言うのなら、それに従おう。家のある方へと向き直り、暗いながらも慣れた道を歩く。
 自分一人ではなく、誰かの存在があるのだと知ると、幽霊の類への恐怖も小さくなった。ほんのわずかにまだ残っているけれど、ビクビクするほどではない。
 カカシが後ろをついてくるなんて、不思議な気分だった。二人きりで歩くこと自体も久しい。
 アカデミーの頃は、あの小さな背中の後ろについたり、よく一緒に並んで歩いたけれど、振り返ればそれも短い期間での話だ。数ヵ月くらいだろうか。半年はなかった。
 なのにどうしてか、あのときの記憶は鮮明に、強烈に残っている。アカデミーの頃のことを思い出すと、一番最初に浮かんでくるのが、あの夕暮れの道だった。
 それだけ、わたしにとってあの時間は、あの頃の時間は、特別大事なものだった。


 歩き続け、家が見えてきた。兄の部屋には明かりがついているけれど、母はもう寝ているかもしれない。中忍になって大人と同じように任務に勤しむようになり、わたしが深夜に帰ろうが、何日も家を空けようが、二人はあまり気にすることはない。忍の職業事情が分かっているからこそ、「子どもなのに」と口を出すことはもうなくなった。
 玄関へと足を進める前に、カカシの気配がうっすら感じられる場所へと顔を向ける。民家と民家の間の、人が一人通れるくらいの細く暗い道。しばらくそちらを見ていると、用があるのかと言いたげに、白い面が浮かび上がってくる。正直、その様子はちょっと怖い。
 わたしたちは黙ったまま、しばらく見つめ合った。動かすべき口の形は分かってはいたけれど、考えと反して、唇は貝のようにきつく閉じてしまっている。
 そのうち、カカシはまた闇の中へと消えて行って、今度こそ気配は完全に消えた。自宅の前まで送ったのだから、仕事は果たしたことに変わりない。

 ありがとうも、言えない。

 言えなかった。昔は簡単に言えた。夕暮れの道を並んで帰っていた頃は、カカシには何だって言えた。オビトに言えなかったことも、リンに打ち明けられなかったことも。今はカカシだからこそ言えない。


「でもカカシには、もうサホしか残っていないってばね」


 あれはきっと、わたしにも言えた。わたしにも、もうカカシしか残っていない。
 重い気持ちを抱えたまま、玄関のドアを開ける。鬱屈した気分で家に入ることは、昔からよくあった。オビトのことで、リンとのことで。たくさんのことで、わたしは逃げるように家へと入った。
 その頃もカカシが――カカシに――カカシと――

「ごめん……」

 ごく自然に、目から涙が零れた。朝露を溜め込んだ葉が、重さに堪えきれずに葉先から雫を落とすように。
 謝らなくちゃ。いっぱい傷つけた。つらいことを全部押し付けた。謝って、わたしがカカシの分を一緒に背負わなくちゃ。カカシにはわたししかいない。わたしにもカカシしかいない。楽しかったこと、つらかったこと、わたしたちだけが分け合える。
 大丈夫。わたしたちは戻れる。オビトの死を悼んで、リンを守ろうと約束したあのときのように。あのときより、ずっとずっと時間はかかったけれど、わたしたちはまた、夕暮れの道を並んで歩くことができるから。



32 暮れる頃には

20180726


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