「おい」
「え?」
呼び止められた。
「……また来い」
そうして告げられた思いもよらない言葉に思考が停止して、何を言われたのか理解できなくて、だけど反射的に頷く。
「う、うん!」
部屋を出て廊下を歩いている時に、アルガの言葉をやっと理解して、頬が緩んだ。今まで何回も来ているが、また来いなんて言われたのは今回が初めてだ。
もしかして少しずつでも距離は近づいているのかもしれない。そうだと嬉しい。そう思ってにやけていると、視界を黒い何かが掠めた。
「ん?」
人影だ。しかし可笑しい。この屋敷にはアルガしか住んでいない筈で、こんな大きなお屋敷なのにも関わらず使用人の一人や二人も居やしないのだ。
洗濯や掃除、料理などはどうしているのだろうといつも不思議に思っているが、いつ来ても洋館は綺麗だし、泊まった晩にはちゃんと料理も出てきた。誰も居ないと言うことはアルガがやっているのだろうが、そう考えると何だか面白い。
と、思考が脱線したのだが、つまりアルガ以外にこの洋館で人影を見ることなどないはずなのだ。そうすると今の人影は一体何なのだろう。
「……」
気になって、追いかけることにした。もしも泥棒とかだったら、彼に知らせなくてはいけない。大丈夫だ。バレないよう、気をつけながら行けば。
そう思って人影を追いかけていけば、辿り着いたのはある部屋だった。広い洋館の中でも、更に奥の方にある部屋。泊まったあの日、絶対に近づくなと言われた部屋がいくつかあったが、その中でも特に念を押された部屋。
その部屋の中に、あの人影は入っていった。
近づくなと言われた部屋だ。アルガに知られてしまったら怒られるかもしれない。けれどもし泥棒だったら? 見逃してしまったことで、アルガを危険に曝してしまうかもしれない。
だったら。杞憂だったらそれで良い。バレても怒られる位なら、それでアルガに何も起こらないなら。
意を決して扉に手をかけた。そこには――。
「え……ひ、と?」
黒い髪に黒い目をした女性だった。ということは、先程目にした人影は彼女だったのだろう。しかし可笑しい。アルガは此処には一人で住んでいると言っていたのに。
女性は扉が開いたことに気付いてこちらを見た。視線が交わる。
ふと、あることに気付いた。何だか、女性の顔に見覚えがあるのだ。初対面のはずだ。けれど何故だか、懐かしいような、そんな錯覚に陥る。
「あなた……どこかで、見たような……」
「あ、なた……」
思わず呟いた言葉に、女性の目が見開かれる。その声が、少し自分に似ているような気がした。しかしそんな思考も女性の焦ったような言葉に掻き消される。
「早く出て行って! もうこの洋館には来ちゃ駄目!」
「きゃ! ちょ、ちょっと……!」
「早く! アルガに見つかる前に……!」
ぐいぐいと部屋を追い出すように身体を押してくる女性に思わず苛立つ。確かに確認もせずにいきなり開けてしまったのは失礼かもしれないが、それにしても早く出て行けとは。
それにもう来るなって、この洋館の主人であるアルガには許可を取っていると、そう口にしようとして。
「――夏希」
「アル、ガ……」
扉の前に、いつの間にかアルガが立っていた。表情は見えない。けれど女性は酷く怯えている様に思える。
アルガは女性から視線を逸らし、こちらを見ると、静かに言った。
「この部屋に近づくなと言っただろ」
「あ……ごめんなさい……人影を見て……アルガ、一人で暮らしてるって言ってたし、泥棒だったら、と思って……」
こちらに近づいてきたアルガにやっと表情が見えたが、いつもと同じ無表情なのに、いつもとは違う雰囲気を纏ったアルガに、何故だか恐怖を抱く。やはり怒っているのだ。無断でこの部屋に近づいたから。
それでも自分が此処に居るのはアルガを思ってのことなのだと、必死に伝えようとするけれど。
「見られたのなら仕方がない」
「止めて!」
手をこちらに伸ばしてきたアルガを、女性が阻んだ。彼の腕を掴んで、懇願している。その姿を見て、何故だか急に記憶が蘇った。そうだ、この顔は、行方不明者の情報を集めるチラシの中に――。
「止めて、アルガ! 私、何処にも行かない……っ! アルガの傍にずっと居るから……だから、この人を殺さないで! お願い……っ」
「この女が誰かに話して、お前が此処に居ることを誰かに知られたらどうする? 危険な芽は摘む。それに……そろそろあいつ等が腹が減る頃だったんだ」
「血が欲しいのなら、私の血をあげるから……っ」
「お前の血はまだ貰えないと言っているだろ。そしてお前の血を飲めない分、足りない魔力を補って使い魔を動かすためには、あいつ等に血を飲ませてやらなければいけない。それも……人一人分ほどの血を」
「アルガ……何、言って、る……の?」
その言葉。それに視線。それじゃあまるで、その人一人分の血は、自分が提供するみたいではないか。
アルガの手が、首に触れる。その手はゾッとするほど冷たく、しかし触れてくる手は優しい。
「残念だ。お前の声は夏希によく似ていたから気に入っていたのに。だからお前と話をするのは嫌いじゃなかったが――まあ、本物には到底敵わないが」
「アルガ、お願いだから……!」
「餌にするためとはいえ、人間の相手をするのにはウンザリだったんだ。けれどまあ、その声に免じて痛みもなく殺してやる。夏希に似た声を生まれ持ったことに感謝しろ」
「アルガ!」
何を言っているのか、全く分からない。目の前に居る彼が、知らない人のように見える。彼は一体――何だ?
女性はアルガを行動を止めようとしているが、アルガはまるで意に介していない。しかし溜息を一つ吐くと、女性を引き寄せて唇を重ねた。
彼女は驚いて離れようとするが、片手で押さえつけて深く口付ける。その光景も、アルガの言葉も、全てのことが受け入れられなくて、思考は動かない。身体が動かなくて、ただただアルガと彼女のキスを見ていることしか出来なかった。